フロー教が宗教として、飛ぶことがこの星の人間にとって何の意味があるかというのは、この世界の人々にとってさえ必ずしも共通して受け入れられていることではない。まして読者には「何故?」と最初から思うこと。宇宙に行くのがそんなに大事か。この大地で今を生きることがまず大事だろう、と。
フローランドの思想は、人間が生きることに飛ぶことがどれほどの意味があるかではなくて、「大天空へ翔ぶものが人間」という人間観の語り変え、その実存(そんな私)を語ることにある。それが大衆の救済教のようにはなりたくないようだ。フローランドは巨大なお祭りではある。ネオ・フリーメーソンやヘルメス財団に似ているとは前回に言った。
大衆の救済に興味が乏しいというのは、荒れたグラウンドで日々死んでいく一般大衆は一生のうちに天空を見ることは、まずないのだが、人が死ぬときに傍らにアジャリが寄って、「魂はグラウンドを離れ宇宙へ翔ぶであろう…」のような、救いは、とくに与えない。今現実に死んでいく人に対して、何もなくても何かを与えようという、その興味がない。大衆化するのは不純ではあるだろう。
一方で、フローランドの時代は既に遠い過去のこととして終わってしまい、取り残されたこのグラウンドでフローランドは今後もう起こらないだろうという現実にあってフロー教を説き続けることはフロー教徒にとっても無理があり、グッダーザンやドウガロのアジャリは信仰態度が半ば崩壊している。
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