かとかの記憶

王の心 / 35

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katka_yg 2025/06/19 (木) 21:45:03 修正

エイシェトの時点

『創世記の時代、人は、天然自然の原理に身をゆだねられる素朴な人でありました。けれど、知恵をつけるにしたがって、自らが手にした知識でしか物事をみなくなったのです』
『知恵ある動物は高尚である、と自惚れた罪か?』
『真理をもとめようとする学問と知識を道具にしてしまって、その道具をつかうことしかできなかったということです。罪の結果ではございません』
『……では、どうすれば、真理を悟れるのだ?』

この箇所ではこの後にまだ続きを試みるのだが、今あえてここまでの引用として、富野通読では前回コンラッド・ヘイヤーガンと、それに遡るカガチ、シャアまでの"贖罪観"に繋いでおこう。言葉を道具として使う(つかう)ことしかできなかったことは、それだけのことで、それが罪の結果ではないとこのとき言いえた。作家通読上ではすごい展開だ。『王の心』二巻(1996.5)は『アベニール』三巻(96.2)より順序では後。

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    katka_yg 2025/06/19 (木) 22:31:03 修正 >> 35

    katka_yg (@ygasea.bsky.social)
    ずっと続けて富野再読していると、『~してくださいな』というエイシェトの口調はカテジナにも思えてて……小説カテジナのその台詞は、最終巻のめっちゃ素敵台詞。わたしはこのたびで小説Vの評価が上がったのだがカテジナ-エイシェトという連想は考えたことない。 くださいな口調で依衣子姉さんにやられると死ねるよな。読者のトマトが育ちそうだ。富野論なんかを今更ぶつには今後このへんも必須だからなんとかして、だ。
    Bluesky Social

    カテジナは野菜か。ヴェジテイト(植物状態)……いやヴェジタブル。わたしを食べて。

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    katka_yg 2025/06/19 (木) 22:58:26 修正 >> 36

    『アベニールをさがして』は、ヘイヤーガン思想のポイントなどは文中からかなり分かりにくいこともあるのだけど、小説の重心はそこよりはむしろ、「言ってることとやってることが違う」「思っていることと伝えてくることがちぐはぐ」といった表現実験の場のようで、作中で「ゴドーを待ちながら」に言及しているあたりからも作者が作為的にしているとは明かしている。作品がベケット風だという意味ではなく。

    その前には『破嵐万丈』シリーズが小説実験をしている様子でもあって、おかしなシリーズではあるけど、4巻ではそれなりの手応えを得ていたんじゃないか。Gのレコンギスタのメイキング等で紹介された会話スタイルはそこにも実験らしいのが読める。

    「率直なメッセージを大声で叫べばいいわけではない」とはかなり早くから分かっている、それがこの頃重要問題になっているみたい。文学よりは映画由来なんだろうけど……演劇、から得てるものもあるだろう。それは幻想文学のテーマだとわたしは思っていて、ジャンルをまたぐとまた知らないことがどんどん増えてくる。