∀ガンダム (1999)について。アニメと関連書籍諸々。
このたび富野「小説」通読のうちで、エッセイは省いて通るつもりだったが前回『ブレンパワード』以降には間があくので気分を埋めるために『∀の癒し』を今開いていた。もう読み終えてしまうが、このトピックは先にTVアニメか映画か、音楽か、富野著以外にも小説かを読むときにも利用するだろう。
文中の「フイルム」はフイルムであってフィルム、ではない。これは、著者が富野由悠季でなくても日用的、世代的に使われることで、読者のわたし自身は「フィルム」としか言ったり書いたりしたことはないがエッセイを読む際にどうでもいいことだ。
ある箇所では、「フイムル」と書かれていても、誤記なのはわかっているが誤植とはみなさないのは、前回かいた。正字法としては誤りだが読者にもわかるものは問題ない、そのうえで著者の個性的な手癖が出ているので放っといてほしい。
タビング(ダビング)は許せない気がする。tubbing、かのような誤解を招く?……そんな理由ではとくにないが、これはわたしにはちょっとない感じ。
タとダ、わたしにも「は」(ha)と「ぱ」(pa)を打ち間違うことは日頃よくある、と先日かいた。わたしでも、誰でも日頃することがなんで著者の個性だ。
「シュミレーション」とか「アニヒレーター」は原文にそう書いてあるものは直すべきでない。「エアコン」を「クーラー」とあってもそうだ。そんなのは原文改竄だろう。上の、フイムルは、愛らしいかんじ。
「あとがき」中には、「フィイム」にまで変形している。「フィルム」と書きかけても「フイルム」と修正するような書き方をしていなければこうはならないのではないか。
§3 「かなりや」は好きな文章だった。というか、誰だってこういう話のことは好きだろう……。わたしは今、考えることは、この本、『日本童謡集』(岩波文庫)は後ほど求めておこう。それをするかしないか、の違いだ。
そのことについてだと、日本の童謡の歴史については、片山杜秀『鬼子の歌』の中で面白く読み返すことができる。前回、そのときにはそれを追ってみようと思わなかったんだ。わたしは日本語オペラの興味だったから。
富野著で「自分の創作の原点」と書いてあるものを、知ってて読まない富野ファンはどうかしてるよな。わたしも大概どうかしてるということ。
だから、神経はおかしくなる。 そういうなかでの仕事が、『ガーゼィの翼』であり『王の心』だった。
『アベニールをさがして』は?
傲慢、錯覚、おかしくなった神経、のうちに『アベニール』は例外的に入っていない、という話では絶対ない。タイトルを挙げるのも嫌か、タイトルも忘れているんだろう。かわいそうだな。
こういう話は、というか、この話だけは、現在2020年代でもネットに広く浸透している。注意すべきは、アニメ監督として行き詰まりを感じるフラストレーションからノベルスくらいやってやるぜー、という態度は不健全だったとは痛感したが、だからその間の作品が全く駄目だったとは言っていないということだ。そうも思っているのかもしれないが、読者にはそうとはかぎらない。『王の心』は傑作です。
むしろ、そういうことを言っておられるから復刊などの機運も捗らないんだ。アニメーターをおろそかにしたというが、ひるがえっては逆に出版社なめてるのか。冗談だけど……。著書に再び日が当たれば、嫌だ嫌だと言いながら結局は嬉しいにちがいない。あまりお齢にならないまでにそこまで行ってほしい。
わたしは、読者として思ったこと。ついでに校正のうえ改訂。『シーマ・シーマ』も、嫌いじゃないんだけどカバーは流石に場違いなところがあるのでイラストは新装版にしてほしい。セン・セートをめちゃめちゃ可愛く綺麗に描いてほしい。『アベニール』の幡池裕行は今の流行りじゃないけど、そちらは残してほしいよな。注文はたくさんある。
谷村新司・菅野よう子・西城秀樹のところまで。§3になればファンには楽しい話が続くのであとは読みやすいだろう。今ここまで。
わたしはここのところずっと小説ばかり読んでいて、エッセイが文芸作品だということを忘れるような感覚になっていたが、前回、あらかじめル・グインの『夜の言葉』を読んでいたから富野エッセイも今読んでみようかな、という気分になった今の経緯だったようだ。意識にあったのに半分意識していなかった。
Gレコの本も今読み返すとまた違うかなあ……。アニメの製作事情に踏み入るとどうしてもキャラか、世界かの話に目を引かれて、文章、を読むことをしばしば忘れがちになる。面白いから逆にね。何を、ではなくて、それをどう表現しているかに目がいかない。それで、その興味なら小説作品と区別して「通読」と言わなければよかった。
今の話題なら『だから僕は…』だったんじゃないかな……。わたしは今、それがそんなに読みたくはなかった。思い出さなかった。思い出したのはGレコのほう(『アニメを作ることを舐めてはいけない』)。
ブクログからAmazonのページ見たらなんだこの中古価格!? 万超えはないだろ。ふざけているのか。
良い気分だったのに削ぎやがって。誰にこんなの言えばいいんだ。今に始まったことではないといえ。 公共の図書館にも入っているところは少なくないだろう。なければ、相互貸借の利用の仕方を館員さんに相談してみればよい。こういう古本市場の事情には、ユーザーは今はもう付き合う必要ない。10年前ならそれでも悩んだ。
§3 「オン・エア」 たとえば、嫌気性生物の利用は、……以下の話題は『アベニールをさがして』の基本設定「EMO」にすでに実作に反映されている。その技術開発に対する見解(懐疑)も。それで、アベニールの1巻末にその引用元を記してある。
EMOについては、比嘉照夫氏の『EM』関係の書籍より引用、インティパについては、深野一幸氏の『宇宙エネルギーの超革命』をヒントにさせていただきました。
だから、『∀の癒し』中のこの話題については上掲書も参照として、『アベニール』を読むときの富野的な見解についてはまたこの∀エッセイあたりを一瞥するとする。
通読では前回『ブレンパワード』を読むなか、オーガニック理論についての紹介で「EMOか」と一瞬ぴんと連想したが技術の内容はそれほど近くない。
『オーガニック理論』とは、有機的なエネルギー――オーガニック・エナジィ――を特定抽出するための研究だった。 生物の発散する力、生物が生きていくための力。それを自在に扱うことができるようになれば? それは、無害で、無限のエネルギーを手に入れることである。実用化できれば、この地球を疲弊させている絶対的なエネルギー不足を解決することができる。 この理論が発表された当初、学会からは冷笑を浴びせられた。目に見えない、誰も触れたことのないものを掴むような、夢のような話だ、と。
書きぶりが似ていると思っただけだ。アベニールではEMO技術は確立して既に久しく社会の隅々まで普及していたが、ブレンの『オーガニック理論』はオルファンが発見されて初めて空想が現実になり始めた頃で、作中の扱われ方も違う。
∀の話にもどると、∀ではナノマシン技術のほうをいうだろう……と思う。後で大きく使われるが、月光蝶でさえ大道具ではあってもストーリーの根幹の思想ではべつにない。福井小説のほうにはフロギストンかのように挿まれていたのだったか。
それもまた「微生物」じゃないが、巨大加速器とか巨大スペース・コロニーでなくて、一転して極微のそれ、という流れで思い返した。オーガニック・エナジイはアウラ(オーラ・エナジイ)の続きなのは無論。
これくらい参考文献を追うとなると既に大車輪になり、書名の一々を求めるまでいかずとも図書館で見つかれば結構だ。
それも、現在2025年最新の情報ではなく1990年代のそれは内容もすでに古くなっているにちがいなく、あくまで富野カテゴリの本棚に入ることになる。でもその興味でも面白いだろう。
『∀の癒し』読了。今回ここで読む予定していなかったから、あらためて読んでよかったと思った。 『リーンの翼』にいくまえにやはり劇場版二部を見ようと思う。映像は省いてもサントラは聴いているのだが、∀のCDも枚数があり、「サントラ自体が交響組曲」のような時代なのでもうあまり省けない。今ここまで。
「地球光・月光蝶」は昨夜おわり。午前中にOST2まで聴く。この間に連想したイメージの繋がりは面白く、音楽もかなり変えて聴こえた。
「羽化」などの歌はわたしは以前あまり気にしていなかった。岩里祐穂さんの詞はいつも好きだが、あくまで菅野よう子繋がりで、富野由悠季/井荻麟との接点はない、ように切り分けていたのか。この詞はたしかにイメージソングだけど、∀のストーリーに一貫して蝶のシンボルはある。「ホワイトドールの気持ちだ」と言ってもおかしいことではないし、大塚宗一郎ボイスで老人の心を歌うのも、歌の世界は普通のこと。
菅野よう子の連想では、「The Singing Sea」のようなジャズっぽいものの印象がまず念頭にあって、アルバムを終える「Joy」にも何か歌の詞を念押しして聴こえる。Singing stone...
あとそれではないが、わたしは高橋良輔著の小説版『モザイカ』をふと思い出し、その中に「老卵」というキャラクターが出てくる。今そのキャラではなく、老卵という名前は良いなと思い出した。それも書く。
蝶のシンボルについては、シュナックの『蝶の生活』(岩波文庫)などを読んでもいい。
シンボリズムをもてあそぶことはわたしも無限にできるが、ほどほどにして『リーンの翼』の準備にいく。
∀の主体というか意識は、システム∀という、地球じゅうか、太陽系じゅうに設置される設備装置群にあるとする。∀の威力を発動する機体は一体のガンダムに結集するが、ガンダムの機体が大破してもコアファイターさえ残れば、数百年くらいで復活する。
そのコアも残さずに粉砕しても、あとの空気からでも数千年くらいで復活するかもしれない。ニュータイプ達が作る機械なので、時間の問題は問題にしない。まず∀を粉砕できるものがいた例がない。システム∀の装置群自体が特定不可で、一つを捜して破壊してもそれも再生する。
わたしは「∀最強説」を今どきにぶちたいわけではなく、それくらい「不滅の老戦士」だったらどんな気持ちで世界を見続けていたのかが面白い。人が安心して眠るためにしているところに、あなたは何やってるんですか! のような言い方も使える。
この説が優れているのは、それが安易な擬人化だからによる。信じられないほど、あたりまえのことだから。
上の中で「ガンダムと石」の話には今隣で再読しているエリアーデ(概論)の記憶が入っている。今は植物のところを読んでいるが、前の章か前の前の章が石の話で、先月くらい……。
巨石は、必ずしも人型をしていることがその聖なることの根拠ではない、「すごく人に似た岩」をみれば、誰でも強い印象を抱くだろうが、それは人間自身や人の姿を崇拝していることにはならない、のようなことは、最近読み返していなければわたしもやはり忘れていたのではないかと思い、もしもガンダムだけを読んでいればそうは言っていないだろう。 「実存」の語についてはアベニールのときに、富野著書中の実存について思い返していた。めったに使われない。この意味は今言ったのと違ってはないので、富野監督の書きようは難しいものの考えの筋は通っているようにみえる。
上のような紹介を触れるだけでも、SNSなんかでしたのでは、エリアーデのアンチか宗教アンチに巡回されるのでは話にもならんのでわたしはいやだ。
ジークアクスの後の動画で氷川竜介氏が巨大ガンダムの首狩りについて「フレイザーとかの……王の死が……」モゴモゴ、と口ごもっておられたけど、まず準備なしのぶっつけコメントだからなのと、それでも創作意図に対しては「言いすぎ」でもあって、こういう話がありますが信じてはいけませんと言わなければならない……と思う。ガンダムの呪縛なんかは今もう全然いうべきではないんだろう。
だって「作ってる人達がカラー」で、金枝篇くらい当たり前で言及してはいけないんですか、みたいなことはあるね。それはそうだ。話は逸れた。
佐藤茂『競漕海域』(1997)を読了。∀ガンダムの小説シリーズを読む。わたしはそれは読んだことがない。あと、『DEKU』まで取り寄せている。
電子版、2014年のだが目次さえついてないのは多少困る。このさい、ここで作っておく。 製品の書籍ファイルを編集する必要ないのでKindleリーダーから「しおり」でもハイライトでもメモでも挿めばいいけど、なんでかな…。データとしては、表紙と扉絵の価値かな。
福井晴敏『∀ガンダム』もこのさい、併読する。わたしはこちらは既読。「月に繭 地には果実」というサブタイトルをつけるのが今は正式らしいが、今ここはこれで。
いま、佐藤版1「一:実験」福井版上「序章 正暦二三四三年・初夏」まで。この書き込み方はわずらわしいな。ロランがコヨーテと戦って河にもぐって祭に闖入した夜まで。
両版の相違点を較べ読みしたい気は、そんなにない。じきにどんどん違っていってそんなこと言えなくなるのは分かっているし。「ハイム印空缶鉱山」(佐)や「太陽電池芝」(福)のような用語のいちいちも同様。それよりは、人物の心情や、物語の書かれ方が何を重点にしているか等を較べたほうが、面白いし、眼力も問われるがどっちもまだ序章。今夜おわりにしようかな。
福井版の序文の、旧世界神話の「きらめき」――人類が自らの消滅(死)を忌避するまで傲慢になり増殖した結果、自らの手で同類を抹殺(間引き)するようになるという殺戮歴史観は、流石に富野ガンダムのこれまでの作品の要所を押さえていると思う。90年代のWかXか各OVAの関心からだと、そういう文章を最初に置かないはずだ。この頃、福井晴敏氏については小説ブレンパワードの「解説」を提供しているので前回触れた。
佐藤版1「三:接触」、福井版上第一章1 パレードまで。同場面併読はそんなに続くまい。
あと雑話。
三週間滞っていたが再開。ボストニア城のパーティの場面。両版の文章は細部のニュアンスは違えど文体はほぼ同様で、わたしは久しぶりで正直いささか退屈。退屈な社交界の場面だが……。
初動、まで。佐藤版1おわり。2以降の書き方はどうしようかな。福井版は章の途中だがちょっと中断。
ホワイトドールから出てきたロボットを見て顔の側面の突起物を福井版では「髭」、佐藤版では「(古代の武具の)頬当て」と認識していて、佐藤版ではまだ髭のことは髭とは思われていない。髭を見て古代の武人の兜を思い出すのはまるでシド・ミードのような観察眼ではある。
福井版ではホワイトドールのコクピットのある位置を「子宮」と呼んでいるが、ホワイトドールはロランから見ても殿方だろうにそれはどうなのか……。リーンの翼のオーラバトラーは操縦席のことを「ユテレス」と呼んでいるな。
佐藤版
十七年もの間冷凍されるにしろ、十七年もの間冷凍されないにしろ、
ムーンレィスの禁固刑って「冷凍」という可能性があるのに今まで気づかなかった。
緒戦のあと佐藤版と福井版の登場人物名が別人になり、事件がそろそろ分岐しだした……は、このたび気にせず、そうなったら後は適当に交互に読み替える。
『花咲爺』はもともとの原案にあったものなのか、そこは福井オリジナルなのか知らないが、神話よりかフォークロア的なもの……と去年思っていた気分はどうだったかな。間が空いてだいぶ忘れた。「Singing stone」とそれとではやっぱり、ちょっと距離があるかな。
神話とフォークロアの区別はつけなかったのかもね。
佐藤版 「内海の漁師(すなどり)」というのは、ここでは「浦島太郎」への言及になっているが、そのタイトルはル・グインの短編集ではないだろうか……。
その小説はいま憶えていないが、浦島な話なら前回、セムリの首飾りとか。
佐藤版二巻読了。福井版も、ディアナ降臨のエピソードまで。
初めてキエルを目の当たりにしたムーンレィス達の困惑は、小説両版で場面がちがうが、両版とも「驚愕した」という感情は似たようで、アニメのその場のシュールな空気、視聴者には「笑ってはいけない」というその感じには及ばない。
富野文に対して文体がどうとかは触れない。富野とリーを行き来していたら他に何をみても情緒が希薄に感じられて悩む。
あと「千年女王」も少し気になるが、それはお遊びなのかどうかわたしにはわからず。
ロランがムーンレィスの出自を明らかにする場面は佐藤版・福井版ともドラマでは省略されている。ノックス・クロニクルの記事として伝えるという方法は奇しくも一致しているが、その記事の扱いはまた異なる。
文面自体は、佐藤版のほうがややセンチメンタルで説得力に欠ける。良いこと言ってるがまじめにこれを記事として読んだら、印象は逆効果だろう。福井版は、発行前により強硬な内容の別記事に差し替え。
新聞社の売上げにかかわるようなフランの記事はそもそも載らない、というほうがリアルには思う。アニメのは、フランの写真に社の記者が記事をつけたので、フランはまだ文章は書かせてもらえてない。福井版の連名もそういう意図かな。
当時の新聞紙上の経緯はどうか、のまえに、まず記事が紙上に載ったか、も諸説まじっている。黒歴史的だ。ローラの名が宇宙の伝説になることだけはなぜか確定している。
つまり、「ローラ伝説」だけが伝わっているような遥か遠未来から歴史を遡って、いろんなバージョンの創作劇が林立しているみたいな調子。アムロやシャアもそうだったんだろうけど、ここはローラ。
余談。なぜ言葉が通じているのか。
ポゥ少尉ひとりが戦犯とか、ネタでいうけど本当はそこではないけどね。まあ禁固十七年相当ではある。
このあたりから、福井版のほうが単独小説として読むには掘り下げがあるのか、「経済戦争」についてのグエンとキースの会話など面白い。『自分にそんな発想はなかった、この人はおもしろい』というのは読者も共有する小説の面白さ。
佐藤版3巻、福井版上巻読了。
福井版下巻、四章まで。まだ佐藤/福井両版の交互併読ができるみたいだが、福井版の足が早くなってくるほうが(当然ながら)早い。ギャバンのエピソード等には退屈し始めた。
福井版
「地球の文化が月の文化に併呑される可能性を危惧しておられるのなら、それは杞憂です。私たちは地球の文化を尊重しています。帰還が実現すれば、ムーンレィスは地球の文明レベルに合わせた生活をするというのが、当初からの理念です。科学技術は自然環境の復興にのみ利用して、地球の文化の保護育成を……」 「合わせるとか、保護するという言葉が出てくること自体、すでに十分に支配的なのですよ。第一、それこそ理屈だけの論法だとは思いませんか?」
この前後ではすでにグエンに対して、本文の表現(ロラン・ディアナ目線)が次第にネガティブ評価を示しているにもかかわらず、この台詞については、読者も「そうだ、そうだ」という、グエンよく言った、という感想を抱くだろうと思う。
それは、相手の程度に合わせるとか保護するという態度自体が、ムーンレィスの傲慢だ、ディアナの傲慢さだという気持ちで共感すると思う。そこは正しくない。
グエンはそれを指摘したには違いないし、言われてディアナとロランは黙った。作者は、ここで自分の論法の誤りを認めるで黙るディアナの謙虚さこそ正しい、というあくまでディアナ支持をするけど、わたしに言わせればそれも正しくない。
それでまた、それほど高度な心理がわかる・わかることが互いにわかる、くらいだったら、なんで二千数百年も前に分かれた二つの文化が、通訳なしにそれほど流暢に言葉が通じるのかがまた不可解さを強めるという……。カタコトで上のやりとりが通じているとは思えないだろう。
この間、佐藤版のぎりぎり陳腐なラブコメ調に悩まされつつ、振り返ってみれば『競漕海域』で認識されて本作に求められてるなら、月の運河人の生活習俗などは、いかにも本領、のはずだったんじゃないだろうか。
佐藤版4巻読了。福井版も、だいたいアグリッパとの邂逅のくだりまで併読。
佐藤版のほうが、作中の出来事はおおむねTVアニメに近い順序で追っていくがアニメそのものではない。佐藤版で短く省略されたザックトレーガーでの事件は、福井版では大幅に増量してアニメの展開とも異なる方向へ舵を切る。
福井晴敏の文体は福井氏独自のものだが、このあたりの文章表現は富野由悠季の小説の表現を仄めかしているし、ガンダムシリーズより『イデオン』を意識しているのは読み取れるだろう。核や化学兵器や、嬉々として「根絶やし」を書き込む福井文のことを悪趣味と感じる富野読者の気分はわたしはわかるが、今とくにそのアンチなわけでもない。
併読だと、佐藤文のほうが女子の裸体や恋愛に終始しているラブコメ調に感じる……のはやむないとして、佐藤版はこちらもこちらでムーンレィスの歴史教育(国史)のような胡散臭い話題も取り上げ始めた。
福井版のターンXのサイコミュ(ダイレクト・インターフェイス)のことから、ターンAについても、この小説中では独自の意思があるとする方向で書かれている。「∀に意思(意識)があるか」という話は去年、映画や富野エッセイ・小説等範囲から広く掘ってみて面白い収穫があった。その話は現代でも尽きない。
福井小説では、「∀の心」はあるかないかを早々に「ある」と決めたぶん、では∀は何を考えているのか?は「歴史の巻き戻し」として単純なテーマになっているのかもしれない。当の∀は∀で狼狽したり、ロラン少年の身を案じてやきもきしているような老ガンダムの心情までは興味になっていないだろうか。
佐藤小説の人物はややデフォルメが強いが、ソシエが事あるごとにギャバンの名前をいうのはアニメならドレスのことで一度区切りをつけた後の時間なので、何度もくどい印象がする。
佐藤版。最終巻に来てロラン行方不明でイングレッサのお家騒動や政略結婚などを始めるが、スピンオフ小説にしても『∀の癒し』など読んだあとに富野読者としては今更こんなところでこんな話、どうでもいい。
ガンダムの話でモビルスーツをさしおいてナノマシン・モンスターなども陳腐で、辟易する。『競漕海域』を読んだあとで著者のモチベーションはどこにあるのか分かるので、想像できなくはなかった。
佐藤版5巻読了。巻末解説に、このノベルのイラストは萩尾望都を要望したのは富野監督で、ダメモトで言ってみたらOKを貰ったので「こうなることならぼくが書きたいと思った」など書いてある。佐藤氏を蔑ろにする文意ではない。
でも富野監督が∀に「萩尾望都」とまず言ってみたという理由は、とてもよくわかる。当時、安田朗を擁していながら。結局そういう耽美的なものは佐藤版にも福井版の文章にもないので、今となっては「富野由悠季×萩尾望都」は一度読んでみたかったとは思う。
少年愛や同性愛を扱っても∀の耽美なところは、井荻麟の詞にも西城秀樹にも谷村新司にも濃厚なので、佐藤&福井両氏が全然それには近寄らないのは惜しいところ。作家の性質はあるんだろう。
わたしはちょうど今年あたり野阿梓を読んでいたりしたので、そこは物足りない。
あと、耽美とはべつに「戦場まんがシリーズ」のような雰囲気も足りないな。それらは作家の個性よりは世代か。
「ナノマシン・ハザードの怪物」のようなものなら、たとえばGレコのムタチオンなどはそれに近い表現されている。
福井版も読了。まあこちらは再読だし。『花咲爺』のフォークロアか、『始まりの樹』にしても神話的なアプローチがもっとあったかと思ったけど、なかった。
福井文は富野作品、それも小説作品中の表現について仄めかしている箇所が無数でいかにも「富野オタ」という気分が濃く、ガンダムオタクの気のない佐藤氏と対照的だが、福井氏が富野的なマインドかといえばどうか、という口は二十年くらい聞き飽きたことだろう。
ここの通読の経緯では、∀やUC当時の富野理解は『イデオン』重点というもので、『王の心』から∀に至る流れ、などは反映してない。90年代後半頃の時代一般的なものも思わせた。わたしは福井作品を今これ以上追う気はない。
ローラが男?と聞いて眉をひそめる史劇ファンのスペースノイドは少なからずいるにはちがいないが、稗史巷談のうち。『ローラはいなかった』というのはif。
佐藤茂『∀ガンダム Episodes』読了。
地球降下前のロラン達の訓練過程などは少し興味がある。
でもわたしはそもそも、「ガンダムの出てこないガンダムキャラクターのスピンオフノベル」なるものは一様に嫌っているのでそれ以外ではない。それはジークアクスなどでも、今後なんらかの新作でも同じ。
宇宙世紀にせよアナザーにせよ、ガンダムぬきでそのSF世界観が続くようなガンダム作品は、ない。それをしようとするとすでに陳腐になる。Gレコはそのうちに入らない。Gレコはガンダムの話ではないから。
『∀ガンダム』の作品からガンダムを省くのはあまりにナンセンスだろう。はっきり言ってわたしは、キエルとかグエンとかハリーとかはその後、どうなろうがどうだっていいよ。興味ない。
このあと、あきまん先生の『月の風』と、佐藤茂作品の『DEKU』を積んでる。
『ガンダムとはなにか、何故この作品がガンダムなのか』 これもうガンダムと違くない? と思っていたら、やはり最後にはガンダムだった、と頷かされるようなものがガンダム作品として面白いんだよ。それと、シンボリズム。
あきまん『月の風』を読む。これは面白い。∀の関連書籍ではこれが一番面白かったかもしれない。わたしは読んだことがなくて、今回の再周であらためて興味をもってよかった。
あと、∀の関連では『平気で嘘をつく人々』を読んでおく。今ここまで。
不適切なコンテンツとして通報するには以下の「送信」ボタンを押して下さい。 管理チームへ匿名通報が送信されます。あなたが誰であるかを管理チームに特定されることはありません。
どのように不適切か説明したい場合、メッセージをご記入下さい。空白のままでも通報は送信されます。
通報履歴 で、あなたの通報と対応時のメッセージを確認できます。
このたび富野「小説」通読のうちで、エッセイは省いて通るつもりだったが前回『ブレンパワード』以降には間があくので気分を埋めるために『∀の癒し』を今開いていた。もう読み終えてしまうが、このトピックは先にTVアニメか映画か、音楽か、富野著以外にも小説かを読むときにも利用するだろう。
フイムル
文中の「フイルム」はフイルムであってフィルム、ではない。これは、著者が富野由悠季でなくても日用的、世代的に使われることで、読者のわたし自身は「フィルム」としか言ったり書いたりしたことはないがエッセイを読む際にどうでもいいことだ。
ある箇所では、「フイムル」と書かれていても、誤記なのはわかっているが誤植とはみなさないのは、前回かいた。正字法としては誤りだが読者にもわかるものは問題ない、そのうえで著者の個性的な手癖が出ているので放っといてほしい。
タビング(ダビング)は許せない気がする。tubbing、かのような誤解を招く?……そんな理由ではとくにないが、これはわたしにはちょっとない感じ。
タとダ、わたしにも「は」(ha)と「ぱ」(pa)を打ち間違うことは日頃よくある、と先日かいた。わたしでも、誰でも日頃することがなんで著者の個性だ。
「シュミレーション」とか「アニヒレーター」は原文にそう書いてあるものは直すべきでない。「エアコン」を「クーラー」とあってもそうだ。そんなのは原文改竄だろう。上の、フイムルは、愛らしいかんじ。
「あとがき」中には、「フィイム」にまで変形している。「フィルム」と書きかけても「フイルム」と修正するような書き方をしていなければこうはならないのではないか。
日本童謡集
§3 「かなりや」は好きな文章だった。というか、誰だってこういう話のことは好きだろう……。わたしは今、考えることは、この本、『日本童謡集』(岩波文庫)は後ほど求めておこう。それをするかしないか、の違いだ。
そのことについてだと、日本の童謡の歴史については、片山杜秀『鬼子の歌』の中で面白く読み返すことができる。前回、そのときにはそれを追ってみようと思わなかったんだ。わたしは日本語オペラの興味だったから。
富野著で「自分の創作の原点」と書いてあるものを、知ってて読まない富野ファンはどうかしてるよな。わたしも大概どうかしてるということ。
『アベニールをさがして』は?
傲慢、錯覚、おかしくなった神経、のうちに『アベニール』は例外的に入っていない、という話では絶対ない。タイトルを挙げるのも嫌か、タイトルも忘れているんだろう。かわいそうだな。
こういう話は、というか、この話だけは、現在2020年代でもネットに広く浸透している。注意すべきは、アニメ監督として行き詰まりを感じるフラストレーションからノベルスくらいやってやるぜー、という態度は不健全だったとは痛感したが、だからその間の作品が全く駄目だったとは言っていないということだ。そうも思っているのかもしれないが、読者にはそうとはかぎらない。『王の心』は傑作です。
むしろ、そういうことを言っておられるから復刊などの機運も捗らないんだ。アニメーターをおろそかにしたというが、ひるがえっては逆に出版社なめてるのか。冗談だけど……。著書に再び日が当たれば、嫌だ嫌だと言いながら結局は嬉しいにちがいない。あまりお齢にならないまでにそこまで行ってほしい。
わたしは、読者として思ったこと。ついでに校正のうえ改訂。『シーマ・シーマ』も、嫌いじゃないんだけどカバーは流石に場違いなところがあるのでイラストは新装版にしてほしい。セン・セートをめちゃめちゃ可愛く綺麗に描いてほしい。『アベニール』の幡池裕行は今の流行りじゃないけど、そちらは残してほしいよな。注文はたくさんある。
谷村新司・菅野よう子・西城秀樹のところまで。§3になればファンには楽しい話が続くのであとは読みやすいだろう。今ここまで。
わたしはここのところずっと小説ばかり読んでいて、エッセイが文芸作品だということを忘れるような感覚になっていたが、前回、あらかじめル・グインの『夜の言葉』を読んでいたから富野エッセイも今読んでみようかな、という気分になった今の経緯だったようだ。意識にあったのに半分意識していなかった。
Gレコの本も今読み返すとまた違うかなあ……。アニメの製作事情に踏み入るとどうしてもキャラか、世界かの話に目を引かれて、文章、を読むことをしばしば忘れがちになる。面白いから逆にね。何を、ではなくて、それをどう表現しているかに目がいかない。それで、その興味なら小説作品と区別して「通読」と言わなければよかった。
今の話題なら『だから僕は…』だったんじゃないかな……。わたしは今、それがそんなに読みたくはなかった。思い出さなかった。思い出したのはGレコのほう(『アニメを作ることを舐めてはいけない』)。
ブクログからAmazonのページ見たらなんだこの中古価格!? 万超えはないだろ。ふざけているのか。
良い気分だったのに削ぎやがって。誰にこんなの言えばいいんだ。今に始まったことではないといえ。
公共の図書館にも入っているところは少なくないだろう。なければ、相互貸借の利用の仕方を館員さんに相談してみればよい。こういう古本市場の事情には、ユーザーは今はもう付き合う必要ない。10年前ならそれでも悩んだ。
§3 「オン・エア」
たとえば、嫌気性生物の利用は、……以下の話題は『アベニールをさがして』の基本設定「EMO」にすでに実作に反映されている。その技術開発に対する見解(懐疑)も。それで、アベニールの1巻末にその引用元を記してある。
だから、『∀の癒し』中のこの話題については上掲書も参照として、『アベニール』を読むときの富野的な見解についてはまたこの∀エッセイあたりを一瞥するとする。
通読では前回『ブレンパワード』を読むなか、オーガニック理論についての紹介で「EMOか」と一瞬ぴんと連想したが技術の内容はそれほど近くない。
書きぶりが似ていると思っただけだ。アベニールではEMO技術は確立して既に久しく社会の隅々まで普及していたが、ブレンの『オーガニック理論』はオルファンが発見されて初めて空想が現実になり始めた頃で、作中の扱われ方も違う。
∀の話にもどると、∀ではナノマシン技術のほうをいうだろう……と思う。後で大きく使われるが、月光蝶でさえ大道具ではあってもストーリーの根幹の思想ではべつにない。福井小説のほうにはフロギストンかのように挿まれていたのだったか。
それもまた「微生物」じゃないが、巨大加速器とか巨大スペース・コロニーでなくて、一転して極微のそれ、という流れで思い返した。オーガニック・エナジイはアウラ(オーラ・エナジイ)の続きなのは無論。
これくらい参考文献を追うとなると既に大車輪になり、書名の一々を求めるまでいかずとも図書館で見つかれば結構だ。
それも、現在2025年最新の情報ではなく1990年代のそれは内容もすでに古くなっているにちがいなく、あくまで富野カテゴリの本棚に入ることになる。でもその興味でも面白いだろう。
『∀の癒し』読了。今回ここで読む予定していなかったから、あらためて読んでよかったと思った。
『リーンの翼』にいくまえにやはり劇場版二部を見ようと思う。映像は省いてもサントラは聴いているのだが、∀のCDも枚数があり、「サントラ自体が交響組曲」のような時代なのでもうあまり省けない。今ここまで。
Singing stone
「地球光・月光蝶」は昨夜おわり。午前中にOST2まで聴く。この間に連想したイメージの繋がりは面白く、音楽もかなり変えて聴こえた。
「羽化」などの歌はわたしは以前あまり気にしていなかった。岩里祐穂さんの詞はいつも好きだが、あくまで菅野よう子繋がりで、富野由悠季/井荻麟との接点はない、ように切り分けていたのか。この詞はたしかにイメージソングだけど、∀のストーリーに一貫して蝶のシンボルはある。「ホワイトドールの気持ちだ」と言ってもおかしいことではないし、大塚宗一郎ボイスで老人の心を歌うのも、歌の世界は普通のこと。
菅野よう子の連想では、「The Singing Sea」のようなジャズっぽいものの印象がまず念頭にあって、アルバムを終える「Joy」にも何か歌の詞を念押しして聴こえる。Singing stone...
あとそれではないが、わたしは高橋良輔著の小説版『モザイカ』をふと思い出し、その中に「老卵」というキャラクターが出てくる。今そのキャラではなく、老卵という名前は良いなと思い出した。それも書く。
蝶のシンボルについては、シュナックの『蝶の生活』(岩波文庫)などを読んでもいい。
シンボリズムをもてあそぶことはわたしも無限にできるが、ほどほどにして『リーンの翼』の準備にいく。
人が何々するためにしている
∀の主体というか意識は、システム∀という、地球じゅうか、太陽系じゅうに設置される設備装置群にあるとする。∀の威力を発動する機体は一体のガンダムに結集するが、ガンダムの機体が大破してもコアファイターさえ残れば、数百年くらいで復活する。
そのコアも残さずに粉砕しても、あとの空気からでも数千年くらいで復活するかもしれない。ニュータイプ達が作る機械なので、時間の問題は問題にしない。まず∀を粉砕できるものがいた例がない。システム∀の装置群自体が特定不可で、一つを捜して破壊してもそれも再生する。
わたしは「∀最強説」を今どきにぶちたいわけではなく、それくらい「不滅の老戦士」だったらどんな気持ちで世界を見続けていたのかが面白い。人が安心して眠るためにしているところに、あなたは何やってるんですか! のような言い方も使える。
この説が優れているのは、それが安易な擬人化だからによる。信じられないほど、あたりまえのことだから。
上の中で「ガンダムと石」の話には今隣で再読しているエリアーデ(概論)の記憶が入っている。今は植物のところを読んでいるが、前の章か前の前の章が石の話で、先月くらい……。
巨石は、必ずしも人型をしていることがその聖なることの根拠ではない、「すごく人に似た岩」をみれば、誰でも強い印象を抱くだろうが、それは人間自身や人の姿を崇拝していることにはならない、のようなことは、最近読み返していなければわたしもやはり忘れていたのではないかと思い、もしもガンダムだけを読んでいればそうは言っていないだろう。
「実存」の語についてはアベニールのときに、富野著書中の実存について思い返していた。めったに使われない。この意味は今言ったのと違ってはないので、富野監督の書きようは難しいものの考えの筋は通っているようにみえる。
上のような紹介を触れるだけでも、SNSなんかでしたのでは、エリアーデのアンチか宗教アンチに巡回されるのでは話にもならんのでわたしはいやだ。
ジークアクスの後の動画で氷川竜介氏が巨大ガンダムの首狩りについて「フレイザーとかの……王の死が……」モゴモゴ、と口ごもっておられたけど、まず準備なしのぶっつけコメントだからなのと、それでも創作意図に対しては「言いすぎ」でもあって、こういう話がありますが信じてはいけませんと言わなければならない……と思う。ガンダムの呪縛なんかは今もう全然いうべきではないんだろう。
だって「作ってる人達がカラー」で、金枝篇くらい当たり前で言及してはいけないんですか、みたいなことはあるね。それはそうだ。話は逸れた。
佐藤茂『競漕海域』(1997)を読了。∀ガンダムの小説シリーズを読む。わたしはそれは読んだことがない。あと、『DEKU』まで取り寄せている。
電子版、2014年のだが目次さえついてないのは多少困る。このさい、ここで作っておく。
製品の書籍ファイルを編集する必要ないのでKindleリーダーから「しおり」でもハイライトでもメモでも挿めばいいけど、なんでかな…。データとしては、表紙と扉絵の価値かな。
佐藤茂『∀ガンダム 1 初動』
一:実験
二:順応
三:接触
福井晴敏『∀ガンダム』もこのさい、併読する。わたしはこちらは既読。「月に繭 地には果実」というサブタイトルをつけるのが今は正式らしいが、今ここはこれで。
いま、佐藤版1「一:実験」福井版上「序章 正暦二三四三年・初夏」まで。この書き込み方はわずらわしいな。ロランがコヨーテと戦って河にもぐって祭に闖入した夜まで。
両版の相違点を較べ読みしたい気は、そんなにない。じきにどんどん違っていってそんなこと言えなくなるのは分かっているし。「ハイム印空缶鉱山」(佐)や「太陽電池芝」(福)のような用語のいちいちも同様。それよりは、人物の心情や、物語の書かれ方が何を重点にしているか等を較べたほうが、面白いし、眼力も問われるがどっちもまだ序章。今夜おわりにしようかな。
福井版の序文の、旧世界神話の「きらめき」――人類が自らの消滅(死)を忌避するまで傲慢になり増殖した結果、自らの手で同類を抹殺(間引き)するようになるという殺戮歴史観は、流石に富野ガンダムのこれまでの作品の要所を押さえていると思う。90年代のWかXか各OVAの関心からだと、そういう文章を最初に置かないはずだ。この頃、福井晴敏氏については小説ブレンパワードの「解説」を提供しているので前回触れた。
佐藤版1「三:接触」、福井版上第一章1 パレードまで。同場面併読はそんなに続くまい。
あと雑話。
三週間滞っていたが再開。ボストニア城のパーティの場面。両版の文章は細部のニュアンスは違えど文体はほぼ同様で、わたしは久しぶりで正直いささか退屈。退屈な社交界の場面だが……。
初動、まで。佐藤版1おわり。2以降の書き方はどうしようかな。福井版は章の途中だがちょっと中断。
佐藤茂『∀ガンダム 2 騒乱』
一:鉄の戦神
二:弓矢
三:女王降臨
ホワイトドールから出てきたロボットを見て顔の側面の突起物を福井版では「髭」、佐藤版では「(古代の武具の)頬当て」と認識していて、佐藤版ではまだ髭のことは髭とは思われていない。髭を見て古代の武人の兜を思い出すのはまるでシド・ミードのような観察眼ではある。
福井版ではホワイトドールのコクピットのある位置を「子宮」と呼んでいるが、ホワイトドールはロランから見ても殿方だろうにそれはどうなのか……。リーンの翼のオーラバトラーは操縦席のことを「ユテレス」と呼んでいるな。
佐藤版
ムーンレィスの禁固刑って「冷凍」という可能性があるのに今まで気づかなかった。
花咲爺
緒戦のあと佐藤版と福井版の登場人物名が別人になり、事件がそろそろ分岐しだした……は、このたび気にせず、そうなったら後は適当に交互に読み替える。
『花咲爺』はもともとの原案にあったものなのか、そこは福井オリジナルなのか知らないが、神話よりかフォークロア的なもの……と去年思っていた気分はどうだったかな。間が空いてだいぶ忘れた。「Singing stone」とそれとではやっぱり、ちょっと距離があるかな。
神話とフォークロアの区別はつけなかったのかもね。
内海の漁師
佐藤版漁師 」というのは、ここでは「浦島太郎」への言及になっているが、そのタイトルはル・グインの短編集ではないだろうか……。
「内海の
その小説はいま憶えていないが、浦島な話なら前回、セムリの首飾りとか。
佐藤版二巻読了。福井版も、ディアナ降臨のエピソードまで。
初めてキエルを目の当たりにしたムーンレィス達の困惑は、小説両版で場面がちがうが、両版とも「驚愕した」という感情は似たようで、アニメのその場のシュールな空気、視聴者には「笑ってはいけない」というその感じには及ばない。
富野文に対して文体がどうとかは触れない。富野とリーを行き来していたら他に何をみても情緒が希薄に感じられて悩む。
あと「千年女王」も少し気になるが、それはお遊びなのかどうかわたしにはわからず。
佐藤茂『∀ガンダム 3 百年の恋』
一:休戦
二:二人
三:百年
四:離陸
佐藤版の各巻巻頭のAMのコメントのこと。公文書ではあるまいから、AMの私的な手記の抜粋だろう。
ローラ伝説の発端
ロランがムーンレィスの出自を明らかにする場面は佐藤版・福井版ともドラマでは省略されている。ノックス・クロニクルの記事として伝えるという方法は奇しくも一致しているが、その記事の扱いはまた異なる。
文面自体は、佐藤版のほうがややセンチメンタルで説得力に欠ける。良いこと言ってるがまじめにこれを記事として読んだら、印象は逆効果だろう。福井版は、発行前により強硬な内容の別記事に差し替え。
新聞社の売上げにかかわるようなフランの記事はそもそも載らない、というほうがリアルには思う。アニメのは、フランの写真に社の記者が記事をつけたので、フランはまだ文章は書かせてもらえてない。福井版の連名もそういう意図かな。
当時の新聞紙上の経緯はどうか、のまえに、まず記事が紙上に載ったか、も諸説まじっている。黒歴史的だ。ローラの名が宇宙の伝説になることだけはなぜか確定している。
つまり、「ローラ伝説」だけが伝わっているような遥か遠未来から歴史を遡って、いろんなバージョンの創作劇が林立しているみたいな調子。アムロやシャアもそうだったんだろうけど、ここはローラ。
余談。なぜ言葉が通じているのか。
ポゥ少尉ひとりが戦犯とか、ネタでいうけど本当はそこではないけどね。まあ禁固十七年相当ではある。
このあたりから、福井版のほうが単独小説として読むには掘り下げがあるのか、「経済戦争」についてのグエンとキースの会話など面白い。『自分にそんな発想はなかった、この人はおもしろい』というのは読者も共有する小説の面白さ。
地球人にターンAの量産はできるか
佐藤版3巻、福井版上巻読了。
佐藤茂『∀ガンダム 4 火と月』
一:敗走以後
二:古い火
三:前王召喚
四:疑惑の月
福井版下巻、四章まで。まだ佐藤/福井両版の交互併読ができるみたいだが、福井版の足が早くなってくるほうが(当然ながら)早い。ギャバンのエピソード等には退屈し始めた。
福井版
この前後ではすでにグエンに対して、本文の表現(ロラン・ディアナ目線)が次第にネガティブ評価を示しているにもかかわらず、この台詞については、読者も「そうだ、そうだ」という、グエンよく言った、という感想を抱くだろうと思う。
それは、相手の程度に合わせるとか保護するという態度自体が、ムーンレィスの傲慢だ、ディアナの傲慢さだという気持ちで共感すると思う。そこは正しくない。
グエンはそれを指摘したには違いないし、言われてディアナとロランは黙った。作者は、ここで自分の論法の誤りを認めるで黙るディアナの謙虚さこそ正しい、というあくまでディアナ支持をするけど、わたしに言わせればそれも正しくない。
それでまた、それほど高度な心理がわかる・わかることが互いにわかる、くらいだったら、なんで二千数百年も前に分かれた二つの文化が、通訳なしにそれほど流暢に言葉が通じるのかがまた不可解さを強めるという……。カタコトで上のやりとりが通じているとは思えないだろう。
この間、佐藤版のぎりぎり陳腐なラブコメ調に悩まされつつ、振り返ってみれば『競漕海域』で認識されて本作に求められてるなら、月の運河人の生活習俗などは、いかにも本領、のはずだったんじゃないだろうか。
佐藤版4巻読了。福井版も、だいたいアグリッパとの邂逅のくだりまで併読。
佐藤版のほうが、作中の出来事はおおむねTVアニメに近い順序で追っていくがアニメそのものではない。佐藤版で短く省略されたザックトレーガーでの事件は、福井版では大幅に増量してアニメの展開とも異なる方向へ舵を切る。
福井晴敏の文体は福井氏独自のものだが、このあたりの文章表現は富野由悠季の小説の表現を仄めかしているし、ガンダムシリーズより『イデオン』を意識しているのは読み取れるだろう。核や化学兵器や、嬉々として「根絶やし」を書き込む福井文のことを悪趣味と感じる富野読者の気分はわたしはわかるが、今とくにそのアンチなわけでもない。
併読だと、佐藤文のほうが女子の裸体や恋愛に終始しているラブコメ調に感じる……のはやむないとして、佐藤版はこちらもこちらでムーンレィスの歴史教育(国史)のような胡散臭い話題も取り上げ始めた。
福井版のターンXのサイコミュ(ダイレクト・インターフェイス)のことから、ターンAについても、この小説中では独自の意思があるとする方向で書かれている。「∀に意思(意識)があるか」という話は去年、映画や富野エッセイ・小説等範囲から広く掘ってみて面白い収穫があった。その話は現代でも尽きない。
福井小説では、「∀の心」はあるかないかを早々に「ある」と決めたぶん、では∀は何を考えているのか?は「歴史の巻き戻し」として単純なテーマになっているのかもしれない。当の∀は∀で狼狽したり、ロラン少年の身を案じてやきもきしているような老ガンダムの心情までは興味になっていないだろうか。
佐藤茂『∀ガンダム 5 月光蝶』
一:運河
二:燃える月
三:黒獅子王
四:月光蝶
五:十年後
佐藤小説の人物はややデフォルメが強いが、ソシエが事あるごとにギャバンの名前をいうのはアニメならドレスのことで一度区切りをつけた後の時間なので、何度もくどい印象がする。
佐藤版。最終巻に来てロラン行方不明でイングレッサのお家騒動や政略結婚などを始めるが、スピンオフ小説にしても『∀の癒し』など読んだあとに富野読者としては今更こんなところでこんな話、どうでもいい。
ガンダムの話でモビルスーツをさしおいてナノマシン・モンスターなども陳腐で、辟易する。『競漕海域』を読んだあとで著者のモチベーションはどこにあるのか分かるので、想像できなくはなかった。
佐藤版5巻読了。巻末解説に、このノベルのイラストは萩尾望都を要望したのは富野監督で、ダメモトで言ってみたらOKを貰ったので「こうなることならぼくが書きたいと思った」など書いてある。佐藤氏を蔑ろにする文意ではない。
でも富野監督が∀に「萩尾望都」とまず言ってみたという理由は、とてもよくわかる。当時、安田朗を擁していながら。結局そういう耽美的なものは佐藤版にも福井版の文章にもないので、今となっては「富野由悠季×萩尾望都」は一度読んでみたかったとは思う。
少年愛や同性愛を扱っても∀の耽美なところは、井荻麟の詞にも西城秀樹にも谷村新司にも濃厚なので、佐藤&福井両氏が全然それには近寄らないのは惜しいところ。作家の性質はあるんだろう。
わたしはちょうど今年あたり野阿梓を読んでいたりしたので、そこは物足りない。
あと、耽美とはべつに「戦場まんがシリーズ」のような雰囲気も足りないな。それらは作家の個性よりは世代か。
「ナノマシン・ハザードの怪物」のようなものなら、たとえばGレコのムタチオンなどはそれに近い表現されている。
福井版も読了。まあこちらは再読だし。『花咲爺』のフォークロアか、『始まりの樹』にしても神話的なアプローチがもっとあったかと思ったけど、なかった。
福井文は富野作品、それも小説作品中の表現について仄めかしている箇所が無数でいかにも「富野オタ」という気分が濃く、ガンダムオタクの気のない佐藤氏と対照的だが、福井氏が富野的なマインドかといえばどうか、という口は二十年くらい聞き飽きたことだろう。
ここの通読の経緯では、∀やUC当時の富野理解は『イデオン』重点というもので、『王の心』から∀に至る流れ、などは反映してない。90年代後半頃の時代一般的なものも思わせた。わたしは福井作品を今これ以上追う気はない。
わたしの感想では、これらの∀ガンダム創作群は、『ローラ・ローラは男だった』という未来の一説から分かれて派生しているジャンルらしい。
ローラが男?と聞いて眉をひそめる史劇ファンのスペースノイドは少なからずいるにはちがいないが、稗史巷談のうち。『ローラはいなかった』というのはif。
佐藤茂『∀ガンダム Episodes』読了。
地球降下前のロラン達の訓練過程などは少し興味がある。
でもわたしはそもそも、「ガンダムの出てこないガンダムキャラクターのスピンオフノベル」なるものは一様に嫌っているのでそれ以外ではない。それはジークアクスなどでも、今後なんらかの新作でも同じ。
宇宙世紀にせよアナザーにせよ、ガンダムぬきでそのSF世界観が続くようなガンダム作品は、ない。それをしようとするとすでに陳腐になる。Gレコはそのうちに入らない。Gレコはガンダムの話ではないから。
『∀ガンダム』の作品からガンダムを省くのはあまりにナンセンスだろう。はっきり言ってわたしは、キエルとかグエンとかハリーとかはその後、どうなろうがどうだっていいよ。興味ない。
このあと、あきまん先生の『月の風』と、佐藤茂作品の『DEKU』を積んでる。
『ガンダムとはなにか、何故この作品がガンダムなのか』
これもうガンダムと違くない? と思っていたら、やはり最後にはガンダムだった、と頷かされるようなものがガンダム作品として面白いんだよ。それと、シンボリズム。
あきまん『月の風』を読む。これは面白い。∀の関連書籍ではこれが一番面白かったかもしれない。わたしは読んだことがなくて、今回の再周であらためて興味をもってよかった。
あと、∀の関連では『平気で嘘をつく人々』を読んでおく。今ここまで。