∀ガンダム (1999)について。エッセイから。
このたび富野「小説」通読のうちで、エッセイは省いて通るつもりだったが前回『ブレンパワード』以降には間があくので気分を埋めるために『∀の癒し』を今開いていた。もう読み終えてしまうが、このトピックは先にTVアニメか映画か、音楽か、富野著以外にも小説かを読むときにも利用するだろう。
文中の「フイルム」はフイルムであってフィルム、ではない。これは、著者が富野由悠季でなくても日用的、世代的に使われることで、読者のわたし自身は「フィルム」としか言ったり書いたりしたことはないがエッセイを読む際にどうでもいいことだ。
ある箇所では、「フイムル」と書かれていても、誤記なのはわかっているが誤植とはみなさないのは、前回かいた。正字法としては誤りだが読者にもわかるものは問題ない、そのうえで著者の個性的な手癖が出ているので放っといてほしい。
タビング(ダビング)は許せない気がする。tubbing、かのような誤解を招く?……そんな理由ではとくにないが、これはわたしにはちょっとない感じ。
タとダ、わたしにも「は」(ha)と「ぱ」(pa)を打ち間違うことは日頃よくある、と先日かいた。わたしでも、誰でも日頃することがなんで著者の個性だ。
「シュミレーション」とか「アニヒレーター」は原文にそう書いてあるものは直すべきでない。「エアコン」を「クーラー」とあってもそうだ。そんなのは原文改竄だろう。上の、フイムルは、愛らしいかんじ。
「あとがき」中には、「フィイム」にまで変形している。「フィルム」と書きかけても「フイルム」と修正するような書き方をしていなければこうはならないのではないか。
§3 「かなりや」は好きな文章だった。というか、誰だってこういう話のことは好きだろう……。わたしは今、考えることは、この本、『日本童謡集』(岩波文庫)は後ほど求めておこう。それをするかしないか、の違いだ。
そのことについてだと、日本の童謡の歴史については、片山杜秀『鬼子の歌』の中で面白く読み返すことができる。前回、そのときにはそれを追ってみようと思わなかったんだ。わたしは日本語オペラの興味だったから。
富野著で「自分の創作の原点」と書いてあるものを、知ってて読まない富野ファンはどうかしてるよな。わたしも大概どうかしてるということ。
だから、神経はおかしくなる。 そういうなかでの仕事が、『ガーゼィの翼』であり『王の心』だった。
『アベニールをさがして』は?
傲慢、錯覚、おかしくなった神経、のうちに『アベニール』は例外的に入っていない、という話では絶対ない。タイトルを挙げるのも嫌か、タイトルも忘れているんだろう。かわいそうだな。
こういう話は、というか、この話だけは、現在2020年代でもネットに広く浸透している。注意すべきは、アニメ監督として行き詰まりを感じるフラストレーションからノベルスくらいやってやるぜー、という態度は不健全だったとは痛感したが、だからその間の作品が全く駄目だったとは言っていないということだ。そうも思っているのかもしれないが、読者にはそうとはかぎらない。『王の心』は傑作です。
むしろ、そういうことを言っておられるから復刊などの機運も捗らないんだ。アニメーターをおろそかにしたというが、ひるがえっては逆に出版社なめてるのか。冗談だけど……。著書に再び日が当たれば、嫌だ嫌だと言いながら結局は嬉しいにちがいない。あまりお齢にならないまでにそこまで行ってほしい。
わたしは、読者として思ったこと。ついでに校正のうえ改訂。『シーマ・シーマ』も、嫌いじゃないんだけどカバーは流石に場違いなところがあるのでイラストは新装版にしてほしい。セン・セートをめちゃめちゃ可愛く綺麗に描いてほしい。『アベニール』の幡池裕行は今の流行りじゃないけど、そちらは残してほしいよな。注文はたくさんある。
谷村新司・菅野よう子・西城秀樹のところまで。§3になればファンには楽しい話が続くのであとは読みやすいだろう。今ここまで。
わたしはここのところずっと小説ばかり読んでいて、エッセイが文芸作品だということを忘れるような感覚になっていたが、前回、あらかじめル・グインの『夜の言葉』を読んでいたから富野エッセイも今読んでみようかな、という気分になった今の経緯だったようだ。意識にあったのに半分意識していなかった。
Gレコの本も今読み返すとまた違うかなあ……。アニメの製作事情に踏み入るとどうしてもキャラか、世界かの話に目を引かれて、文章、を読むことをしばしば忘れがちになる。面白いから逆にね。何を、ではなくて、それをどう表現しているかに目がいかない。それで、その興味なら小説作品と区別して「通読」と言わなければよかった。
今の話題なら『だから僕は…』だったんじゃないかな……。わたしは今、それがそんなに読みたくはなかった。思い出さなかった。思い出したのはGレコのほう(『アニメを作ることを舐めてはいけない』)。
ブクログからAmazonのページ見たらなんだこの中古価格!? 万超えはないだろ。ふざけているのか。
良い気分だったのに削ぎやがって。誰にこんなの言えばいいんだ。今に始まったことではないといえ。 公共の図書館にも入っているところは少なくないだろう。なければ、相互貸借の利用の仕方を館員さんに相談してみればよい。こういう古本市場の事情には、ユーザーは今はもう付き合う必要ない。10年前ならそれでも悩んだ。
§3 「オン・エア」 たとえば、嫌気性生物の利用は、……以下の話題は『アベニールをさがして』の基本設定「EMO」にすでに実作に反映されている。その技術開発に対する見解(懐疑)も。それで、アベニールの1巻末にその引用元を記してある。
EMOについては、比嘉照夫氏の『EM』関係の書籍より引用、インティパについては、深野一幸氏の『宇宙エネルギーの超革命』をヒントにさせていただきました。
だから、『∀の癒し』中のこの話題については上掲書も参照として、『アベニール』を読むときの富野的な見解についてはまたこの∀エッセイあたりを一瞥するとする。
通読では前回『ブレンパワード』を読むなか、オーガニック理論についての紹介で「EMOか」と一瞬ぴんと連想したが技術の内容はそれほど近くない。
『オーガニック理論』とは、有機的なエネルギー――オーガニック・エナジィ――を特定抽出するための研究だった。 生物の発散する力、生物が生きていくための力。それを自在に扱うことができるようになれば? それは、無害で、無限のエネルギーを手に入れることである。実用化できれば、この地球を疲弊させている絶対的なエネルギー不足を解決することができる。 この理論が発表された当初、学会からは冷笑を浴びせられた。目に見えない、誰も触れたことのないものを掴むような、夢のような話だ、と。
書きぶりが似ていると思っただけだ。アベニールではEMO技術は確立して既に久しく社会の隅々まで普及していたが、ブレンの『オーガニック理論』はオルファンが発見されて初めて空想が現実になり始めた頃で、作中の扱われ方も違う。
∀の話にもどると、∀ではナノマシン技術のほうをいうだろう……と思う。後で大きく使われるが、月光蝶でさえ大道具ではあってもストーリーの根幹の思想ではべつにない。福井小説のほうにはフロギストンかのように挿まれていたのだったか。
それもまた「微生物」じゃないが、巨大加速器とか巨大スペース・コロニーでなくて、一転して極微のそれ、という流れで思い返した。オーガニック・エナジイはアウラ(オーラ・エナジイ)の続きなのは無論。
これくらい参考文献を追うとなると既に大車輪になり、書名の一々を求めるまでいかずとも図書館で見つかれば結構だ。
それも、現在2025年最新の情報ではなく1990年代のそれは内容もすでに古くなっているにちがいなく、あくまで富野カテゴリの本棚に入ることになる。でもその興味でも面白いだろう。
『∀の癒し』読了。今回ここで読む予定していなかったから、あらためて読んでよかったと思った。 『リーンの翼』にいくまえにやはり劇場版二部を見ようと思う。映像は省いてもサントラは聴いているのだが、∀のCDも枚数があり、「サントラ自体が交響組曲」のような時代なのでもうあまり省けない。今ここまで。
「夢記」に繋ぐのはわたしの恥をさらすようで辛いがこれは本当に上の書の効用でもあるので、しておく。富野監督ほど実績のある、それも相応に年輩の方にとってもそういう苦闘だとその折書いている、ということは大事だ。
「夜の言葉」はル・グインの書名と、愛の輪郭の歌詞についてわたしの自由連想しているが、それに限らないでも、わたしは似た言葉など古今の例はそらで数多く挙げられる。それでもまだ今これに付き合っている。
「地球光・月光蝶」は昨夜おわり。午前中にOST2まで聴く。この間に連想したイメージの繋がりは面白く、音楽もかなり変えて聴こえた。
「羽化」などの歌はわたしは以前あまり気にしていなかった。岩里祐穂さんの詞はいつも好きだが、あくまで菅野よう子繋がりで、富野由悠季/井荻麟との接点はない、ように切り分けていたのか。この詞はたしかにイメージソングだけど、∀のストーリーに一貫して蝶のシンボルはある。「ホワイトドールの気持ちだ」と言ってもおかしいことではないし、大塚宗一郎ボイスで老人の心を歌うのも、歌の世界は普通のこと。
菅野よう子の連想では、「The Singing Sea」のようなジャズっぽいものの印象がまず念頭にあって、アルバムを終える「Joy」にも何か歌の詞を念押しして聴こえる。Singing stone...
あとそれではないが、わたしは高橋良輔著の小説版『モザイカ』をふと思い出し、その中に「老卵」というキャラクターが出てくる。今そのキャラではなく、老卵という名前は良いなと思い出した。それも書く。
蝶のシンボルについては、シュナックの『蝶の生活』(岩波文庫)などを読んでもいい。
シンボリズムをもてあそぶことはわたしも無限にできるが、ほどほどにして『リーンの翼』の準備にいく。
∀の主体というか意識は、システム∀という、地球じゅうか、太陽系じゅうに設置される設備装置群にあるとする。∀の威力を発動する機体は一体のガンダムに結集するが、ガンダムの機体が大破してもコアファイターさえ残れば、数百年くらいで復活する。
そのコアも残さずに粉砕しても、あとの空気からでも数千年くらいで復活するかもしれない。ニュータイプ達が作る機械なので、時間の問題は問題にしない。まず∀を粉砕できるものがいた例がない。システム∀の装置群自体が特定不可で、一つを捜して破壊してもそれも再生する。
わたしは「∀最強説」を今どきにぶちたいわけではなく、それくらい「不滅の老戦士」だったらどんな気持ちで世界を見続けていたのかが面白い。人が安心して眠るためにしているところに、あなたは何やってるんですか! のような言い方も使える。
この説が優れているのは、それが安易な擬人化だからによる。信じられないほど、あたりまえのことだから。
上の中で「ガンダムと石」の話には今隣で再読しているエリアーデ(概論)の記憶が入っている。今は植物のところを読んでいるが、前の章か前の前の章が石の話で、先月くらい……。
巨石は、必ずしも人型をしていることがその聖なることの根拠ではない、「すごく人に似た岩」をみれば、誰でも強い印象を抱くだろうが、それは人間自身や人の姿を崇拝していることにはならない、のようなことは、最近読み返していなければわたしもやはり忘れていたのではないかと思い、もしもガンダムだけを読んでいればそうは言っていないだろう。 「実存」の語についてはアベニールのときに、富野著書中の実存について思い返していた。めったに使われない。この意味は今言ったのと違ってはないので、富野監督の書きようは難しいものの考えの筋は通っているようにみえる。
上のような紹介を触れるだけでも、SNSなんかでしたのでは、エリアーデのアンチか宗教アンチに巡回されるのでは話にもならんのでわたしはいやだ。
ジークアクスの後の動画で氷川竜介氏が巨大ガンダムの首狩りについて「フレイザーとかの……王の死が……」モゴモゴ、と口ごもっておられたけど、まず準備なしのぶっつけコメントだからなのと、それでも創作意図に対しては「言いすぎ」でもあって、こういう話がありますが信じてはいけませんと言わなければならない……と思う。ガンダムの呪縛なんかは今もう全然いうべきではないんだろう。
だって「作ってる人達がカラー」で、金枝篇くらい当たり前で言及してはいけないんですか、みたいなことはあるね。それはそうだ。話は逸れた。
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このたび富野「小説」通読のうちで、エッセイは省いて通るつもりだったが前回『ブレンパワード』以降には間があくので気分を埋めるために『∀の癒し』を今開いていた。もう読み終えてしまうが、このトピックは先にTVアニメか映画か、音楽か、富野著以外にも小説かを読むときにも利用するだろう。
フイムル
文中の「フイルム」はフイルムであってフィルム、ではない。これは、著者が富野由悠季でなくても日用的、世代的に使われることで、読者のわたし自身は「フィルム」としか言ったり書いたりしたことはないがエッセイを読む際にどうでもいいことだ。
ある箇所では、「フイムル」と書かれていても、誤記なのはわかっているが誤植とはみなさないのは、前回かいた。正字法としては誤りだが読者にもわかるものは問題ない、そのうえで著者の個性的な手癖が出ているので放っといてほしい。
タビング(ダビング)は許せない気がする。tubbing、かのような誤解を招く?……そんな理由ではとくにないが、これはわたしにはちょっとない感じ。
タとダ、わたしにも「は」(ha)と「ぱ」(pa)を打ち間違うことは日頃よくある、と先日かいた。わたしでも、誰でも日頃することがなんで著者の個性だ。
「シュミレーション」とか「アニヒレーター」は原文にそう書いてあるものは直すべきでない。「エアコン」を「クーラー」とあってもそうだ。そんなのは原文改竄だろう。上の、フイムルは、愛らしいかんじ。
「あとがき」中には、「フィイム」にまで変形している。「フィルム」と書きかけても「フイルム」と修正するような書き方をしていなければこうはならないのではないか。
日本童謡集
§3 「かなりや」は好きな文章だった。というか、誰だってこういう話のことは好きだろう……。わたしは今、考えることは、この本、『日本童謡集』(岩波文庫)は後ほど求めておこう。それをするかしないか、の違いだ。
そのことについてだと、日本の童謡の歴史については、片山杜秀『鬼子の歌』の中で面白く読み返すことができる。前回、そのときにはそれを追ってみようと思わなかったんだ。わたしは日本語オペラの興味だったから。
富野著で「自分の創作の原点」と書いてあるものを、知ってて読まない富野ファンはどうかしてるよな。わたしも大概どうかしてるということ。
『アベニールをさがして』は?
傲慢、錯覚、おかしくなった神経、のうちに『アベニール』は例外的に入っていない、という話では絶対ない。タイトルを挙げるのも嫌か、タイトルも忘れているんだろう。かわいそうだな。
こういう話は、というか、この話だけは、現在2020年代でもネットに広く浸透している。注意すべきは、アニメ監督として行き詰まりを感じるフラストレーションからノベルスくらいやってやるぜー、という態度は不健全だったとは痛感したが、だからその間の作品が全く駄目だったとは言っていないということだ。そうも思っているのかもしれないが、読者にはそうとはかぎらない。『王の心』は傑作です。
むしろ、そういうことを言っておられるから復刊などの機運も捗らないんだ。アニメーターをおろそかにしたというが、ひるがえっては逆に出版社なめてるのか。冗談だけど……。著書に再び日が当たれば、嫌だ嫌だと言いながら結局は嬉しいにちがいない。あまりお齢にならないまでにそこまで行ってほしい。
わたしは、読者として思ったこと。ついでに校正のうえ改訂。『シーマ・シーマ』も、嫌いじゃないんだけどカバーは流石に場違いなところがあるのでイラストは新装版にしてほしい。セン・セートをめちゃめちゃ可愛く綺麗に描いてほしい。『アベニール』の幡池裕行は今の流行りじゃないけど、そちらは残してほしいよな。注文はたくさんある。
谷村新司・菅野よう子・西城秀樹のところまで。§3になればファンには楽しい話が続くのであとは読みやすいだろう。今ここまで。
わたしはここのところずっと小説ばかり読んでいて、エッセイが文芸作品だということを忘れるような感覚になっていたが、前回、あらかじめル・グインの『夜の言葉』を読んでいたから富野エッセイも今読んでみようかな、という気分になった今の経緯だったようだ。意識にあったのに半分意識していなかった。
Gレコの本も今読み返すとまた違うかなあ……。アニメの製作事情に踏み入るとどうしてもキャラか、世界かの話に目を引かれて、文章、を読むことをしばしば忘れがちになる。面白いから逆にね。何を、ではなくて、それをどう表現しているかに目がいかない。それで、その興味なら小説作品と区別して「通読」と言わなければよかった。
今の話題なら『だから僕は…』だったんじゃないかな……。わたしは今、それがそんなに読みたくはなかった。思い出さなかった。思い出したのはGレコのほう(『アニメを作ることを舐めてはいけない』)。
ブクログからAmazonのページ見たらなんだこの中古価格!? 万超えはないだろ。ふざけているのか。
良い気分だったのに削ぎやがって。誰にこんなの言えばいいんだ。今に始まったことではないといえ。
公共の図書館にも入っているところは少なくないだろう。なければ、相互貸借の利用の仕方を館員さんに相談してみればよい。こういう古本市場の事情には、ユーザーは今はもう付き合う必要ない。10年前ならそれでも悩んだ。
§3 「オン・エア」
たとえば、嫌気性生物の利用は、……以下の話題は『アベニールをさがして』の基本設定「EMO」にすでに実作に反映されている。その技術開発に対する見解(懐疑)も。それで、アベニールの1巻末にその引用元を記してある。
だから、『∀の癒し』中のこの話題については上掲書も参照として、『アベニール』を読むときの富野的な見解についてはまたこの∀エッセイあたりを一瞥するとする。
通読では前回『ブレンパワード』を読むなか、オーガニック理論についての紹介で「EMOか」と一瞬ぴんと連想したが技術の内容はそれほど近くない。
書きぶりが似ていると思っただけだ。アベニールではEMO技術は確立して既に久しく社会の隅々まで普及していたが、ブレンの『オーガニック理論』はオルファンが発見されて初めて空想が現実になり始めた頃で、作中の扱われ方も違う。
∀の話にもどると、∀ではナノマシン技術のほうをいうだろう……と思う。後で大きく使われるが、月光蝶でさえ大道具ではあってもストーリーの根幹の思想ではべつにない。福井小説のほうにはフロギストンかのように挿まれていたのだったか。
それもまた「微生物」じゃないが、巨大加速器とか巨大スペース・コロニーでなくて、一転して極微のそれ、という流れで思い返した。オーガニック・エナジイはアウラ(オーラ・エナジイ)の続きなのは無論。
これくらい参考文献を追うとなると既に大車輪になり、書名の一々を求めるまでいかずとも図書館で見つかれば結構だ。
それも、現在2025年最新の情報ではなく1990年代のそれは内容もすでに古くなっているにちがいなく、あくまで富野カテゴリの本棚に入ることになる。でもその興味でも面白いだろう。
『∀の癒し』読了。今回ここで読む予定していなかったから、あらためて読んでよかったと思った。
『リーンの翼』にいくまえにやはり劇場版二部を見ようと思う。映像は省いてもサントラは聴いているのだが、∀のCDも枚数があり、「サントラ自体が交響組曲」のような時代なのでもうあまり省けない。今ここまで。
「夢記」に繋ぐのはわたしの恥をさらすようで辛いがこれは本当に上の書の効用でもあるので、しておく。富野監督ほど実績のある、それも相応に年輩の方にとってもそういう苦闘だとその折書いている、ということは大事だ。
「夜の言葉」はル・グインの書名と、愛の輪郭の歌詞についてわたしの自由連想しているが、それに限らないでも、わたしは似た言葉など古今の例はそらで数多く挙げられる。それでもまだ今これに付き合っている。
Singing stone
「地球光・月光蝶」は昨夜おわり。午前中にOST2まで聴く。この間に連想したイメージの繋がりは面白く、音楽もかなり変えて聴こえた。
「羽化」などの歌はわたしは以前あまり気にしていなかった。岩里祐穂さんの詞はいつも好きだが、あくまで菅野よう子繋がりで、富野由悠季/井荻麟との接点はない、ように切り分けていたのか。この詞はたしかにイメージソングだけど、∀のストーリーに一貫して蝶のシンボルはある。「ホワイトドールの気持ちだ」と言ってもおかしいことではないし、大塚宗一郎ボイスで老人の心を歌うのも、歌の世界は普通のこと。
菅野よう子の連想では、「The Singing Sea」のようなジャズっぽいものの印象がまず念頭にあって、アルバムを終える「Joy」にも何か歌の詞を念押しして聴こえる。Singing stone...
あとそれではないが、わたしは高橋良輔著の小説版『モザイカ』をふと思い出し、その中に「老卵」というキャラクターが出てくる。今そのキャラではなく、老卵という名前は良いなと思い出した。それも書く。
蝶のシンボルについては、シュナックの『蝶の生活』(岩波文庫)などを読んでもいい。
シンボリズムをもてあそぶことはわたしも無限にできるが、ほどほどにして『リーンの翼』の準備にいく。
人が何々するためにしている
∀の主体というか意識は、システム∀という、地球じゅうか、太陽系じゅうに設置される設備装置群にあるとする。∀の威力を発動する機体は一体のガンダムに結集するが、ガンダムの機体が大破してもコアファイターさえ残れば、数百年くらいで復活する。
そのコアも残さずに粉砕しても、あとの空気からでも数千年くらいで復活するかもしれない。ニュータイプ達が作る機械なので、時間の問題は問題にしない。まず∀を粉砕できるものがいた例がない。システム∀の装置群自体が特定不可で、一つを捜して破壊してもそれも再生する。
わたしは「∀最強説」を今どきにぶちたいわけではなく、それくらい「不滅の老戦士」だったらどんな気持ちで世界を見続けていたのかが面白い。人が安心して眠るためにしているところに、あなたは何やってるんですか! のような言い方も使える。
この説が優れているのは、それが安易な擬人化だからによる。信じられないほど、あたりまえのことだから。
上の中で「ガンダムと石」の話には今隣で再読しているエリアーデ(概論)の記憶が入っている。今は植物のところを読んでいるが、前の章か前の前の章が石の話で、先月くらい……。
巨石は、必ずしも人型をしていることがその聖なることの根拠ではない、「すごく人に似た岩」をみれば、誰でも強い印象を抱くだろうが、それは人間自身や人の姿を崇拝していることにはならない、のようなことは、最近読み返していなければわたしもやはり忘れていたのではないかと思い、もしもガンダムだけを読んでいればそうは言っていないだろう。
「実存」の語についてはアベニールのときに、富野著書中の実存について思い返していた。めったに使われない。この意味は今言ったのと違ってはないので、富野監督の書きようは難しいものの考えの筋は通っているようにみえる。
上のような紹介を触れるだけでも、SNSなんかでしたのでは、エリアーデのアンチか宗教アンチに巡回されるのでは話にもならんのでわたしはいやだ。
ジークアクスの後の動画で氷川竜介氏が巨大ガンダムの首狩りについて「フレイザーとかの……王の死が……」モゴモゴ、と口ごもっておられたけど、まず準備なしのぶっつけコメントだからなのと、それでも創作意図に対しては「言いすぎ」でもあって、こういう話がありますが信じてはいけませんと言わなければならない……と思う。ガンダムの呪縛なんかは今もう全然いうべきではないんだろう。
だって「作ってる人達がカラー」で、金枝篇くらい当たり前で言及してはいけないんですか、みたいなことはあるね。それはそうだ。話は逸れた。