かとかの記憶

密会〜アムロとララァ / 10

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ジオングの足

終章冒頭に、怪モビルスーツ・ジオングの「足がないこと」についてシャアの所感がある。シャアがなぜジオングに足がなくて不満を言うかには諸説があって、有名なのはルウム戦役でザクの足で敵艦を蹴って加速する「八艘飛び」をやったからというが、それはそれで突飛な話だと今は思う。突撃して飛ぶからか。

この『密会』独自になるジオングの足論は、有機体が創造した究極の形が人型なので、その至高の形を損なうことには不安がある、不安定である、エゴの突出だのように言う。これも、今ではわりと知られている説だとと思う。ただ、シャアが突然のようにここで神秘めいた観念を持ち出してくるのには多少の不審には思っていい。

至高の人型

ここは「有機体が創造した」というが、「神が創造した至高の形=人体」という考え方の流れは、古い。それは調べればいいとして、富野作品では、具体的に文中に現れるのは『オーラバトラー戦記』にある。そこではオーラバトラーと仏像の比較をして、巨大な人型について思案したことがある。『小説Vガンダム』では、ゴーレム伝説などを連想した。

このたび通読で触れたのは、『アベニールをさがして』の中に、フリーメーソンの教義として、至高存在を幾何学の理想としてG(ジオメトリー)と呼んだという伝統を紹介している。ここではとくに人型メカのテンダーギアのことを言っていないし、アベニールはガンダムシリーズでもないのだけど、究極の理想のデザインのことも「ガンダムとは呼ばなくてもGとは呼びうる」ような神秘的な根拠にはなる。こういう経緯を通して読んでいると、「ガンダムはやめたい」発言などが過去にあってもそれを素朴に受け取っていいのかとは思う。

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  • 11

    アムロの機体は、頭部を破壊された。が、アムロにとっては、ただのカメラをやられただけだ。

    アムロはロマンの話がわからない子だ。このへんは変わらない。

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    『Gのレコンギスタ』のG-セルフが最終的に脚を折られて擱座するのも象徴的ではあるね…。わたしは、あれはとにかく見て痛そうなので嫌。片腕がちぎれるくらいは最終話の味つけでどんなアニメでもやる。頭がもげてもガンダムは平気だ、バラバラになったり黒焦げになったりするが、「脚が折れてはもう立てない」というのは痛みとして説得力がある。