密会 (富野由悠季, 1997初出)について。
わたしはララァの設定は、小説版ガンダムのように宇宙のどこかのサイドの出身でどこかは曖昧、という程度でいいと思うけど、はっきりインドと書いてあると「インド人読者に気恥ずかしい」という気分に近い。初出1997年だし……この『密会』くらいは今後に翻訳されそう。
宇宙出身だと、シャアが地球で発見したよりは、既にフラナガン機関にいるところにシャアが出会った、小説版ならクスコ・アルと同様のタイミングだろう。生まれの境遇としてはクリシュナ・パンデントのようかな。80年代末からの富野ガールズのことはここでもたびたび書いて比較したりしたから、今は「97年版ララァ」として読もうか。
前回比較は……レリエル? エイシェト? 「宇宙世紀のアカイアー」のように思うとかなりプログレッシブなララァ像だ。
でもアカイアーのようなララァ像はファンの二次創作ではむしろ伝統的に古いし、ララァRTAのようなものも一瞬で流布したからそれを今さら前衛というのは当たらない。それはありだ。
大体、ホワイトベースの少年少女漂流譚のはずのはなしが、ホワイトベース人脈がとうに解散しても部外ゲストのララァが中心人物に居座って乗っ取るという方が、アニメ原典にする主義者からすればおかしいんだよな。それも言われ尽くしたことだろうが、だから今新たに書き直すという……この密会の「あとがき」に書いてあったかな。今回わたしは電子版でよむ。
ほんとうにアムロは、白っぽい地面と多少パサつきながら、水やり(傍点)をすれば植物の緑を生んでくれる大地が好きだった。春先になれば、大陸からとんでくる黄砂の幕も季節を感じさせてくれ、地球が巨大なものと実感できる季節の感覚は、
宮沢賢治みたいなアムロ…? この「ほんたうに」の感じはなんだろう……春と修羅、永訣の朝みたいな連想。
こういう自然観は、富野通読ではシャクティ語を思い出すとよい。
「ソロモンの会戦」まで。
少し前のカシミール効果、のところで、モビルスーツのコックピットは宇宙でハッチを開け放しにしていても気流のバリアーがあってそれだけでは空気は抜けていかない設定は、後から順々に理屈付けが加わっていき、結局のところどういうことなのかは今も作品により、場面によりまちまちなんだろうと思う。
わたしは小説通読で『Zガンダム』の最終巻の、ゼータのフタが開いていてカミーユのバイザーも上がっていると書いてあってもかつ、カミーユが窒息しているような気はなくて読んでいたのを思い出す。 わたしの初読時はいつとは言わないが上の設定などは聞いたこともないはずで、なぜそう感じていたのかは今は自分でもわからない。たぶん、ガンダムの小説版は小説版で、Zの後には『ZZ』(遠藤明範著)をその直接続編と理解していたからだろう。今は、富野著は富野でまとめて他著者と切り離して読んでいるから、遠藤氏の文章がどんなだったかもよく憶えていないんだった。宇宙世紀年表なんかに従うとあれもこれも多すぎるばかりだから、従えない。
この『密会』のララァはまた、アニメの台詞をなぞっているようにみえるが、たとえば、『そういう言い方、嫌いです』といっても台詞の意図はちょっと違うニュアンスじゃないかのような、解釈が補われている。もとからそうだったとは思わないので、1997年版ララァということになるかな。演出の違いと。
まじめにいえば、ガンダムにかぎらず80年代なら前後の星山小説、遠藤小説とか、もちろん安彦小説/漫画などなど、当時の気配は押さえておくべきで、富野作品やエッセイ「だけ」を読んでいるのは何か危ういとは思うけど。手元にあっても数が多いんだって……安彦作品はこの後で追うと思う。
いや、そうでなくて……わたしは、ガンダムとかの界隈を「再履修」したかったのではなくて、富野由悠季の文章、文体を読みたかったんだ。今の関心は基本それ、文のリズムとか語の意味とか。
語の意味というのは、用語のSF的や哲学的解説ではなく、『同じ言葉づかいをしていても前の作品と後の作品とで意味を違えてきている』のような、作家史的な。ガノタはとくに文学的教養に弱いからあえて今から始めても新たに価値がある。
「引用の元ネタを知ってる」という意味でなく、「作家の中でも意味をどういう重層・深化させているか」というはなし。その興味は乏しいとしたら、惜しいだろうといいたい。
終章冒頭に、怪モビルスーツ・ジオングの「足がないこと」についてシャアの所感がある。シャアがなぜジオングに足がなくて不満を言うかには諸説があって、有名なのはルウム戦役でザクの足で敵艦を蹴って加速する「八艘飛び」をやったからというが、それはそれで突飛な話だと今は思う。突撃して飛ぶからか。
この『密会』独自になるジオングの足論は、有機体が創造した究極の形が人型なので、その至高の形を損なうことには不安がある、不安定である、エゴの突出だのように言う。これも、今ではわりと知られている説だとと思う。ただ、シャアが突然のようにここで神秘めいた観念を持ち出してくるのには多少の不審には思っていい。
ここは「有機体が創造した」というが、「神が創造した至高の形=人体」という考え方の流れは、古い。それは調べればいいとして、富野作品では、具体的に文中に現れるのは『オーラバトラー戦記』にある。そこではオーラバトラーと仏像の比較をして、巨大な人型について思案したことがある。『小説Vガンダム』では、ゴーレム伝説などを連想した。
このたび通読で触れたのは、『アベニールをさがして』の中に、フリーメーソンの教義として、至高存在を幾何学の理想としてG(ジオメトリー)と呼んだという伝統を紹介している。ここではとくに人型メカのテンダーギアのことを言っていないし、アベニールはガンダムシリーズでもないのだけど、究極の理想のデザインのことも「ガンダムとは呼ばなくてもGとは呼びうる」ような神秘的な根拠にはなる。こういう経緯を通して読んでいると、「ガンダムはやめたい」発言などが過去にあってもそれを素朴に受け取っていいのかとは思う。
アムロの機体は、頭部を破壊された。が、アムロにとっては、ただのカメラをやられただけだ。
アムロはロマンの話がわからない子だ。このへんは変わらない。
『Gのレコンギスタ』のG-セルフが最終的に脚を折られて擱座するのも象徴的ではあるね…。わたしは、あれはとにかく見て痛そうなので嫌。片腕がちぎれるくらいは最終話の味つけでどんなアニメでもやる。頭がもげてもガンダムは平気だ、バラバラになったり黒焦げになったりするが、「脚が折れてはもう立てない」というのは痛みとして説得力がある。
あとがきまで、読了。短いからすぐ。面白かった。 次はやはり、『ブレンパワード』も今いこうか。あまり読み返したいと思わなかった。『リーンの翼』は新旧対読する準備をしている。
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ララァ増殖
わたしはララァの設定は、小説版ガンダムのように宇宙のどこかのサイドの出身でどこかは曖昧、という程度でいいと思うけど、はっきりインドと書いてあると「インド人読者に気恥ずかしい」という気分に近い。初出1997年だし……この『密会』くらいは今後に翻訳されそう。
宇宙出身だと、シャアが地球で発見したよりは、既にフラナガン機関にいるところにシャアが出会った、小説版ならクスコ・アルと同様のタイミングだろう。生まれの境遇としてはクリシュナ・パンデントのようかな。80年代末からの富野ガールズのことはここでもたびたび書いて比較したりしたから、今は「97年版ララァ」として読もうか。
前回比較は……レリエル? エイシェト? 「宇宙世紀のアカイアー」のように思うとかなりプログレッシブなララァ像だ。
でもアカイアーのようなララァ像はファンの二次創作ではむしろ伝統的に古いし、ララァRTAのようなものも一瞬で流布したからそれを今さら前衛というのは当たらない。それはありだ。
大体、ホワイトベースの少年少女漂流譚のはずのはなしが、ホワイトベース人脈がとうに解散しても部外ゲストのララァが中心人物に居座って乗っ取るという方が、アニメ原典にする主義者からすればおかしいんだよな。それも言われ尽くしたことだろうが、だから今新たに書き直すという……この密会の「あとがき」に書いてあったかな。今回わたしは電子版でよむ。
宮沢賢治みたいなアムロ…? この「ほんたうに」の感じはなんだろう……春と修羅、永訣の朝みたいな連想。
こういう自然観は、富野通読ではシャクティ語を思い出すとよい。
「ソロモンの会戦」まで。
少し前のカシミール効果、のところで、モビルスーツのコックピットは宇宙でハッチを開け放しにしていても気流のバリアーがあってそれだけでは空気は抜けていかない設定は、後から順々に理屈付けが加わっていき、結局のところどういうことなのかは今も作品により、場面によりまちまちなんだろうと思う。
わたしは小説通読で『Zガンダム』の最終巻の、ゼータのフタが開いていてカミーユのバイザーも上がっていると書いてあってもかつ、カミーユが窒息しているような気はなくて読んでいたのを思い出す。
わたしの初読時はいつとは言わないが上の設定などは聞いたこともないはずで、なぜそう感じていたのかは今は自分でもわからない。たぶん、ガンダムの小説版は小説版で、Zの後には『ZZ』(遠藤明範著)をその直接続編と理解していたからだろう。今は、富野著は富野でまとめて他著者と切り離して読んでいるから、遠藤氏の文章がどんなだったかもよく憶えていないんだった。宇宙世紀年表なんかに従うとあれもこれも多すぎるばかりだから、従えない。
この『密会』のララァはまた、アニメの台詞をなぞっているようにみえるが、たとえば、『そういう言い方、嫌いです』といっても台詞の意図はちょっと違うニュアンスじゃないかのような、解釈が補われている。もとからそうだったとは思わないので、1997年版ララァということになるかな。演出の違いと。
まじめにいえば、ガンダムにかぎらず80年代なら前後の星山小説、遠藤小説とか、もちろん安彦小説/漫画などなど、当時の気配は押さえておくべきで、富野作品やエッセイ「だけ」を読んでいるのは何か危ういとは思うけど。手元にあっても数が多いんだって……安彦作品はこの後で追うと思う。
いや、そうでなくて……わたしは、ガンダムとかの界隈を「再履修」したかったのではなくて、富野由悠季の文章、文体を読みたかったんだ。今の関心は基本それ、文のリズムとか語の意味とか。
語の意味というのは、用語のSF的や哲学的解説ではなく、『同じ言葉づかいをしていても前の作品と後の作品とで意味を違えてきている』のような、作家史的な。ガノタはとくに文学的教養に弱いからあえて今から始めても新たに価値がある。
「引用の元ネタを知ってる」という意味でなく、「作家の中でも意味をどういう重層・深化させているか」というはなし。その興味は乏しいとしたら、惜しいだろうといいたい。
ジオングの足
終章冒頭に、怪モビルスーツ・ジオングの「足がないこと」についてシャアの所感がある。シャアがなぜジオングに足がなくて不満を言うかには諸説があって、有名なのはルウム戦役でザクの足で敵艦を蹴って加速する「八艘飛び」をやったからというが、それはそれで突飛な話だと今は思う。突撃して飛ぶからか。
この『密会』独自になるジオングの足論は、有機体が創造した究極の形が人型なので、その至高の形を損なうことには不安がある、不安定である、エゴの突出だのように言う。これも、今ではわりと知られている説だとと思う。ただ、シャアが突然のようにここで神秘めいた観念を持ち出してくるのには多少の不審には思っていい。
至高の人型
ここは「有機体が創造した」というが、「神が創造した至高の形=人体」という考え方の流れは、古い。それは調べればいいとして、富野作品では、具体的に文中に現れるのは『オーラバトラー戦記』にある。そこではオーラバトラーと仏像の比較をして、巨大な人型について思案したことがある。『小説Vガンダム』では、ゴーレム伝説などを連想した。
このたび通読で触れたのは、『アベニールをさがして』の中に、フリーメーソンの教義として、至高存在を幾何学の理想としてG(ジオメトリー)と呼んだという伝統を紹介している。ここではとくに人型メカのテンダーギアのことを言っていないし、アベニールはガンダムシリーズでもないのだけど、究極の理想のデザインのことも「ガンダムとは呼ばなくてもGとは呼びうる」ような神秘的な根拠にはなる。こういう経緯を通して読んでいると、「ガンダムはやめたい」発言などが過去にあってもそれを素朴に受け取っていいのかとは思う。
アムロはロマンの話がわからない子だ。このへんは変わらない。
『Gのレコンギスタ』のG-セルフが最終的に脚を折られて擱座するのも象徴的ではあるね…。わたしは、あれはとにかく見て痛そうなので嫌。片腕がちぎれるくらいは最終話の味つけでどんなアニメでもやる。頭がもげてもガンダムは平気だ、バラバラになったり黒焦げになったりするが、「脚が折れてはもう立てない」というのは痛みとして説得力がある。
あとがきまで、読了。短いからすぐ。面白かった。
次はやはり、『ブレンパワード』も今いこうか。あまり読み返したいと思わなかった。『リーンの翼』は新旧対読する準備をしている。