ガロウ・ランの神話
2巻、ここまで読んでいて、ガロウ・ランという存在について『リーンの翼』新旧では印象が違うな。ムラブやミンはもとより、マラや、このあとも続くガダバの武将の悪党達もガロウ・ラン同然……というよりは直截にガロウ・ランと呼んでいくようだ。
リーン旧版だけのことなら、ガロウ・ランのイメージは『オーラバトラー戦記』に引き続きする、蛮族としての民族だろう。種族全体が野蛮で残虐無道の存在だが、あえてフェラリオ/ガロウ・ラン/コモンというバイストン・ウェルの根幹(魂の在りよう)にまでストーリー中では語らず、どうしようもない蛮風は人種的・民族的な書かれ方をする。
それが、AB戦記の4巻までの間にガロウ・ランの下らなさはそのままに、蛮族が文明人の文化を習得するときの侮れなさや、野蛮なりに愛嬌があってどこか憎めないような節が描かれていく。それは先日も少し触れた「文化圏」のような語に表す史観を語っている。『ガーゼィ』はその延長で、ガロウド族やガロウ・ランは憎むべき敵そのものではなくなっている。
完全版の『リーンの翼』は旧軍の悪を語るにも地上界に入り込んだガロウ・ランの憑依と言っていくのは、あらためてガロウ・ランを神話的存在として語り直していることか。(前巻でコモン人のアマルガンが「神話」という概念を理解しなかった件は今おいておいて、)小説作品に神話的構図を蘇らそうとしている完全版での意図が読める、と説明できる。ガロウ・ランが『リーン』の主要キャラクターではないが、作品に神話を再導入しようとしているのはやはり後半の現代編を見越してのことだろう。
作中、日本軍人の糾弾すべきをなぜガロウ・ラン呼ばわりするのかは、旧版にはないことなので、今かんがえた。空想上の存在に置き換えることでその非難や断罪をぼかしているのか、という前回の消極的な思案より、地上の歴史も作品世界に取り込もうとしていると読んでいく方が、よい。
「ガロウ・ランの憑依」でもっと前、もっとも有名だったのはドレイク。ギイ・グッガを征伐した後のドレイクは人が変わったように軍事や覇権に妄執するようになったと言って、ガロウ・ランのギィの霊に取り憑かれたとコモン人に噂された。
わたしはそれより、現在にバイストン・ウェル物語を読み返してもいまだにガロウ・ランについて熱心に語れる場がないとぼやいていた。「文化」という目線より先に超えたことは昨夜書いた。やりたかったんだな。