「14 城掛り」(旧) 「9 城掛かり」(新)
前章で、完全版には船の左舷に「左舷(ひだりげん)」とルビが振ってあったのだが、今度は旧版の右舷に「右舷(うげん)」と振ってある。両版とも、右舷も左舷も文中にルビなし大半使われていて気にしなければどうでもいい齟齬だ。
旧版では特攻の「神風」には〝神風(しんぷう)〟とあえてルビが施してある。
すでに再三再四にわたる特攻とは何かの背景がまた説かれるが、その前に、迫水の遺書について新旧の感想。新旧どちらも、迫水は自分の書いた遺書の文面に今ひとつと思える悔いがあったのだが、旧版では、『最後に靖国神社にて再び会えるだろう』のようなことを書きたくなかった自分を自覚していて、その気持ちを奇妙なものだと書きながら思っている。迫水に反戦思想などがあって軍への反感などからそう思ったわけではない。
完全版では、遺書を『快なるかな我任務。快なるかな我飛翔』と大仰に締めくくったのは余分だったと後に(バイストン・ウェルで今)回想している。
まず旧版から延べてみると、日本人について
完全版では、2の「理想と現実が乖離したときに精神性に置き換える悪癖」のところを、歴史上、儒教を取り入れた頃から涵養されていた日本の精神土壌に遡って説き起こす。ということは、素朴に想像して五世紀頃の古代からになる。 徳川時代の朱子学にはその理念思考の素養があったとし、西洋思想の吸収の際にもそれが素地になった。
3のインテリ達は既存の思想・近代戦術を学んだことで、その狭い思考に捕らわっている一方で、そこから次の考えかたを思いつくことができない、新しい思潮を生むことができない知識者特有のジレンマに陥る。その精神のバランスを保とうとするための運動として彼らは精神論を語る、という解説になる。完全版ではこれを、地上人の中に入り込むガロウ・ランの憑依、と言っていく。
(旧軍の特定の個人名を挙げてはいないものの断定的・断罪的な言い方を言い替えて想像上のガロウ・ランに紛らすことに換えた、と言ってしまってもいいと思う。わたしはこの作中でその糾弾にもそれほど意味があるとは思ってない。それよりも、文章の言い方をもっと巧んできたと思うほうが面白い)
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すでに再三再四にわたる特攻とは何かの背景がまた説かれるが、その前に、迫水の遺書について新旧の感想。新旧どちらも、迫水は自分の書いた遺書の文面に今ひとつと思える悔いがあったのだが、旧版では、『最後に靖国神社にて再び会えるだろう』のようなことを書きたくなかった自分を自覚していて、その気持ちを奇妙なものだと書きながら思っている。迫水に反戦思想などがあって軍への反感などからそう思ったわけではない。
完全版では、遺書を『快なるかな我任務。快なるかな我飛翔』と大仰に締めくくったのは余分だったと後に(バイストン・ウェルで今)回想している。
まず旧版から延べてみると、日本人について
をいう。これは日本人の民族性である。そこに戦時、
を暴き、当時の「インテリ達」が見せた日本人の民族性に加担した狡猾性を、戦後の今から遡ってあらためて指弾されるべきだ、という。これらの全文は断定的で、旧非を断罪するものとして書いてある。
完全版では、2の「理想と現実が乖離したときに精神性に置き換える悪癖」のところを、歴史上、儒教を取り入れた頃から涵養されていた日本の精神土壌に遡って説き起こす。ということは、素朴に想像して五世紀頃の古代からになる。
徳川時代の朱子学にはその理念思考の素養があったとし、西洋思想の吸収の際にもそれが素地になった。
3のインテリ達は既存の思想・近代戦術を学んだことで、その狭い思考に捕らわっている一方で、そこから次の考えかたを思いつくことができない、新しい思潮を生むことができない知識者特有のジレンマに陥る。その精神のバランスを保とうとするための運動として彼らは精神論を語る、という解説になる。完全版ではこれを、地上人の中に入り込むガロウ・ランの憑依、と言っていく。
(旧軍の特定の個人名を挙げてはいないものの断定的・断罪的な言い方を言い替えて想像上のガロウ・ランに紛らすことに換えた、と言ってしまってもいいと思う。わたしはこの作中でその糾弾にもそれほど意味があるとは思ってない。それよりも、文章の言い方をもっと巧んできたと思うほうが面白い)