恣意(つづき)
リンレイと会って女性観の激変・革新だった迫水の内的体験のおさらい……レッツオ以後の章を詳しく読み込んでいればくり返しになるが、女性観の話をちょっと外れて、この中に、前回挙げた「恣意」の語の使い方の、別の例がある。その復習をしてみる。
地上界の日本にあった迫水は、ただ護国の為に心血を注いで身を挺する、という行動様式の中に自分を封じ込めていけばよかった。
恣意するものが、直線的で許された社会にいたと表現できる。(旧)
だから、日本にいてただ護国のために心血をそそいで身を挺するという行動様式のなか、自分を封じ込めていくだけですんだ生き方は楽であった、とも理解できるようになった。軍国主義的な生き方は、直線的だったということなのだ。(新)
いかにもわかりにくい。完全版では表現から除かれているくらいなので、説明のためにとはいえ、挙げるには悪い例といえる。
生きているかぎり、個人のなかの欲求とか欲望というものはある。この文中では、「自分」と書いてあるところは新旧に共通してそれかもしれない。「自由」という語は、完全版では近い段落に「自由恋愛などは…」とも、かすかにあるが、自由から隔離されていることが許されていた、といえば、現代の読者にはなおわかりやすいだろうか。
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後のブレンパワードくらい経ているので「エモーショナルなもの」というと富野文脈では分かりやすいが……エモーションを恣 にするは、単語としてはあたりまえなので、とくに作劇以外の話には通じない。
「健やかさ」というのとは違う。その発露を塞がれると鬱積するのはたしかだが、「恣意」と言う中に健康とか健全という価値評価は含んでいない。
ガロウ・ラン的な恣意の放出はとくに、邪悪であると言っていきたい。放出……発動かな。もうちょっとトミノ界隈的なボキャブラリーの良いところを捜したいね。
もう一回、ロマンチシズムを今挙げてみよう。世の中でいう普通の言い方をやめてわたしなりにいえば、ロマンとは「自分は何のために生きるかについて思うとき」と前回いった。それはわたしの言い方だ。
上の迫水についても、完全版では「恣意」を省いた代わりに、文章には「生き方」を書き込んでいるだろう。生き方を求めようとすることに食いついていく読者には、アレ…のような他人事のようには、簡単には放さないと思う。
章おわり。旧21/新13の章の切れ目は同じ。
また「恣意」だが、「恣意的」という使い方をされるときには富野文もあまり気にしなくていい……ようなことを上で一度は書いたが、ここの「恣意的」の用法も直前と同じように、やはり怪しい。
自然物でない、人為あるものの意図、少なくともその志向を感じるというようだ。志向性と言ってくれたほうがわたしは分かるかもしれない。