フェラリオのだらしなさ
「3 ミン・シャオの逆襲」(旧)
「2 ミン・シャオの逆襲」後半部(新)
旧版、前章末から迫水が霊感じみた警戒心で集落の様子を怪しむが完全版ではそのくだり省略して入っていくのは、怪しいことは怪しいがその場で言っても始まらんというアマルガンの態度を地でやっているようで面白い。
相違比較に目を留めると、その行で考え始めて止まってしまい、読み進む気がしない。
「ハロウ・ロイは臆することもなく座り、ゆったりと食堂を見廻した。」(旧)
「ハロウ・ロイは臆することなくすわって、ズタ袋やら木箱が積み重なった食堂をうっとうしそうに見廻す。」(新)
ハロウの態度は若干、生っぽくというか、俗っぽくなっているのかもしれん。この場所は小汚く煩い場所だが、鬱陶しい場所を鬱陶しげに見廻すフェラリオはやや普通の人に近い感覚のよう。
〝六十燭光以上あるな……それが三つもついているのか?〟(旧)
〝六十燭光以上ある……それをふたつもつかっている……〟(新)
迫水時代の感覚では贅沢な照明だと思うが商売処だから一般家庭よりは当然なのかもという理解は共通。60キャンドルかける3か、2か、というちがいは、わたしは正直に文章から区別がつかないのだけど、そこは著者として一個減らしたかったのだろう。リアリズムのこだわり? 何故?という想像を、新旧読者にさせるため? 半分、にやにや気分で読んでいてミン・シャオのことはどうでもいいやのような。
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上のように、漢字をひらがなに崩しているのは全体。また、「座り」を「すわって」のように、「って」と少しやわめの接続を多用するようになるのが富野文の新旧の特徴が出てる。
「~が、~~って、~~して、~~なのである」
というある種、だらしない文章を作る。昔のほうが生硬でガチガチしているから、研究のうえでわざとこうしているんだ。わたしは、富野節の真似はしたくない。真似するとばれるからで、わたしの場合ひらがなを気にするのは投稿文の視認性から。
昨夜まででまだ1章と半だけど、ファンタジー読みだったら前章のハロウの死人のような美、異界美、などは落としたくない。勿体ないじゃないか。でも全文に書き下ろし描写は満遍なくて、それだけが目を引くわけじゃない。全体のバランスからみて、ここは減らしておいて、後で盛りますという計画でされている再編集のうちだろう。それは、自分で書いた旧原作がもともと傑作でなければ問題にされないから、その実績ありき。
ここまでは原理原則、型通りです。これを踏まえて、型破りに行きます。
言うのはいいけど、衒いなく言えるには自分に確固たる実績がないと恥ずかしくて言えない。くっそ大人が……という悔しさになるのが分かれば子供はまだまし、という話だろうか、だといいな。わたしだってリスペクトよりは憎々しい思いがする。
『アニメを作ることを舐めてはいけない』のタイトルを「信じてはいけません」のように曲げた読み方は、考えられない。建前で本当は舐めてもいいですとは言ってない。常々の仰りようから、著書当時にさえ『今まで舐めていたと思う』との含意で言っているとは思える。『舐めたいものはまだある』もか。
わざとらしい作為のあるタイトルで、内容をみれば他の題はもっとありそうだろう、と読者は思うんじゃないか。