〝直真影流の法定の静寂と動が、おのれを生かし、外敵を殺す技であると教えていたはずだ〟
迫水の意識が語った。
そして、剣を抜いた。
シャラッと剣が鞘から離れる音は乾いていた。銃を腰のベルトの間に収める。
迫水は、薬缶をかけてある炉を跨ぐと、ドアに寄って、押し開いた。
追水が目につけているのは、一人の敵だけである。(旧)
〝直真影流の法定の静寂と動が、己を生かし、外敵を殺す技である!〟
その言葉は呪文である。鞘から刀身が抜けたのは、血糊をきちんと拭いていたからだ。
拳銃をベルトにおさめて、三和土を掘ってつくってある炉の薬缶をまたぐと、木戸を押しひらいて、営門を背に剣をふるう武者に狙いをつける。(新)
敵の将を射てばあとは雑兵の群れである、と続くまで同様。アクション内容は同じはずだがこうまで書き変えて字数は大差ないはずだ。
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上を下に書き変える意図は、言葉と言葉を見比べて「ははあ……なるほど」と考えれば分からなくはないと思う。また、上を下に書き変えなければならない理由は、文字を見比べるだけで依然としてはっきりわからないと思う。
富野文の新旧の「調子」についてはあらためて語ることができないものかな。旧来富野ファンでも、著者の上下三十年くらいの間の御文章を「一貫して変わらないもの」という前提で小説やエッセイを語っているものだ。
たくさん作品を読んでいるとある時機を経てこういう節回しに変わっていくという変化は漠然と見えるものだが、作者にとっては蓄積した進展であっても、読者のうちには「古いほうが好き」という感想を許さないものでもない、というのが文学研究の面白いところでもある。
作者の内的な経緯と、他からの評価も必ずしも一致してはないが、その変遷は「ある」ということをまず指摘できる。文学研究は「良い書き方」「すぐれた書き方」の価値観を語ること、ではないらしい。文学者でなければそこ読み分けてくれないので、集中してデータを蒐める人が専門的にする。
小説の創作教室やアニメ専門学校の脚本コースではなくて、人文科学という話ね。わたしの文学観についてはまた今度べつにしよう。