まず旧版から延べてみると、日本人について
- 外来文化を入れるにあたっての伝統的な度量の広さ
- 咀嚼しきれないものは切り捨てて一転硬直、愚直さに狂奔してしまう悪癖
をいう。これは日本人の民族性である。そこに戦時、 - 見て見ぬふりで是認する中堅インテリの処世
を暴き、当時の「インテリ達」が見せた日本人の民族性に加担した狡猾性を、戦後の今から遡ってあらためて指弾されるべきだ、という。これらの全文は断定的で、旧非を断罪するものとして書いてある。
完全版では、2の「理想と現実が乖離したときに精神性に置き換える悪癖」のところを、歴史上、儒教を取り入れた頃から涵養されていた日本の精神土壌に遡って説き起こす。ということは、素朴に想像して五世紀頃の古代からになる。
徳川時代の朱子学にはその理念思考の素養があったとし、西洋思想の吸収の際にもそれが素地になった。
3のインテリ達は既存の思想・近代戦術を学んだことで、その狭い思考に捕らわっている一方で、そこから次の考えかたを思いつくことができない、新しい思潮を生むことができない知識者特有のジレンマに陥る。その精神のバランスを保とうとするための運動として彼らは精神論を語る、という解説になる。完全版ではこれを、地上人の中に入り込むガロウ・ランの憑依、と言っていく。
(旧軍の特定の個人名を挙げてはいないものの断定的・断罪的な言い方を言い替えて想像上のガロウ・ランに紛らすことに換えた、と言ってしまってもいいと思う。わたしはこの作中でその糾弾にもそれほど意味があるとは思ってない。それよりも、文章の言い方をもっと巧んできたと思うほうが面白い)
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