イナンナとドゥムジ
『シュメールの世界に生きて』(1986, S・N・クレーマー 久我行子訳, 1989)
『聖婚 ―古代シュメールの信仰・神話・儀礼―』(1969, S・N・クレーマー 小川英雄・森雅子訳, 1989)を読み返し。
イナンナとドゥムジの神話とそのバリエーションは、あまりにも基本。これらのシュメール文学の復元が進んだのは20世紀以後の成果で、当事者であるクレーマーの語りや自伝を読み返すのはとても楽しい。ただ、それより先に遡る近現代の文学によみがえっていた古代ロマンのようなものをたどるにはまずは『金枝篇』のようなものから入ったほうが、21世紀の今でもやはり良いと思う。いきなりシュメールからだと熱情がわかりにくいだろう。
死せるドゥムジと彼の復活のテーマはメソポタミアからパレスティナに拡がった。従ってエルサレム神殿の門の一つで、エルサレムの女たちがタンムズを嘆き悲しんだことも驚くには当たらない。また、ドゥムジの死と彼の復活の神話がキリストの物語にその刻印を残した、ということも全くあり得ないことではない。とはいえ、両者の間には深刻な精神的な隔たりがある。キリストの物語の中の幾つかのモティーフはシュメールの原型に遡り得るし、そのことはかなり前から知られてきた。例えば、冥界で三日三晩過ごした後に神が復活すること、またユダが彼の主人を裏切ることによって得た三〇シケルという金額は軽蔑と侮りを表わす言葉であること、呼び名としての「牧人」「聖油を注がれた者」、そして恐らくは「大工」さえもが共通であること、ドゥムジと同一視された神々の一柱ダムは「医者」であり、悪魔払いによって治療する技術をゆだねられていた――ということも見落せない事実である。これら全てに加えて、残酷なガラたちの手によって味あわされたドゥムジの拷問は、ある程度キリストの苦しみを想起させる。即ち、彼は縛りつけられ、はがいじめにされ、力づくで洋服を脱がされ、裸で走らされ、鞭で打たれ、叩かれた。とりわけ、我々がこれまでに見てきたように、ドゥムジは人類のために犠牲になる身代りの役割を演じているという点で、キリストに似ている。もし、ドゥムジが冥界において愛、生殖、豊饒を司る女神イナンナの身代りにならなかったならば、地上の生命あるものは全て亡び去っていたであろう。しかし、両者の間の相違点はその類似点よりも顕著であり、重要であることは明らかである。というのも、ドゥムジは地上における神の王国について説教する救世主では決してなかったからである。
しかし、キリストの物語は何もないところから創り出されたり、発展したものではなかったことも確かである。それは先駆者もしくは原型を持っていたに違いないし、それらのうちでも最も尊重され、影響力のあったものの一つが、牧人の神ドゥムジと彼のあわれをそそる運命のもの哀しい物語であったことは疑う余地がない。その神話は二〇〇〇年以上もの間、古代オリエントの全域にわたって流布し続けていたのである。