「女子向けのノベル」という欲求で書いていても、なんとか、どうにかして男の子の存在意義を設けようとしておかしなことになっているのと、行く所まで行くと「男はいらない」と割り切れてしまうフェミニズム観のちがい、みたいなものはあるよ。煮えきらないからといって、不徹底な態度がべつに作家の良し悪しじゃない。
章ごとに、書き出しはじわじわしているうちに言葉がどんどん押し寄せ、高潮して、章末でさあっと退くという感じはリーもマキリップも似ている。Birthgraveはやりすぎだ……。邦訳を読んでいる感じでは、こちらは韻文のリズムではなさそうかな。イルスの竪琴を読んだらあとはしばらく置いておく、それは今いい。
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今、ル・グインの再読の部屋を立ててふと思い出したのは、ル・グインを読むときにたぶん90年代以降と思う、ゲド戦記の日本語読者は決まって河合隼雄を引く(影について)のがひどく煩わしく思っていた。その分析して悪いはずはない。
それが、80年代頃の解説にたとえば上の「冬物語」はゲド戦記を思わせるようにあって、それをまた後のレビュワーが「リーによるル・グインのアレンジ」のように書かれると、それはおかしい、となる。……なんなら、あからさまに行動主義者として『魔法の原理がなんであれ、それがブラックボックスであれ、ゲドはいかに行動したか。その結果物語はどう転がったか』のように文学観を説いても間違ってはいない。むしろリーの愛読者にはそのほうが気分は合ってると思う。ル・グインはル・グインのトピックで追々しよう。