哲学・宗教の語り
ファンタジーやSFというのはごく近代の文芸だが、遡れば古代から人は、「どうすれば他人の心を侵さずに大切なことを伝えられるか」に悩んできた。プラトンの対話篇では生徒が自発的に真理に達する自己発見の過程を誇り、後の諸学、中世の宗教も大体はそこに帰ろうとしてきた、とする。
富野通読で架空世界の宗教を考えようとするのは、読者的には、コスモ・クルスやVガンダムのマリア教の教えにはあまり身に迫ったものはない。「地に足をつけて生きよう」みたいな上っ面なメッセージに、他人に与える説得力なんかあったことはなかった。地球を守れと他人に教えるよりは、地球を潰したほうがましだ。
『アベニールをさがして』では、より読者自身の意識に即した実存問題に接近するかもしれない……でもアベニールはわかりにくい小説で、その作中からは、少なくとも宗教的な何かは汲み取れないだろう。
『∀ガンダム』と黒歴史の語りは文量が多く、まだまだ解明されてなさそうなことがわかっている。さらに15年後『Gレコ』まで下るとすでにそこまでのコンテクストがたくさん揃っていて端々の連想が捗る。
宇宙の端(太陽系辺境)に生きる――スコード教
スコード教に連想するわたしの雑想メモ。キーワードは、『笑いを禁忌とする』。
とりとめなく目次を集めてみると、
- 禁じられたことは恥ずかしい(でもする)
- ためらいがちに話す
- くり返し傷つく
- 笑いを禁忌とする
- 人生最大の失敗を味わう
- 「報われない」と知ってする
- 泣いても嘘のように泣く
- 人の恥ずかしさがわかってしまう
- いわれのない言いがかりをつけ合う
これが宇宙の宗教の実践教範だとすると、この実践者はまるで傷つきやすい心の小鳩のような人であり、すごくシャイで控えめな少女のように振る舞うことであり、ふてぶてしく喋るハゲのように言ってはならない。
――これらのことを「良し」とする。
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信じられないことだが、モビルスーツに乗るのにノーマルスーツ(宇宙服)を着ない人々がいる。その人に「着てください」と頼んでも、はたして素直に聞くだろうか。「命にかかわるから」と言っても?
訓練されたスペースノイドにとって、宇宙空間にノーマルスーツも着ずに普段着で飛び出すことは、裸でいるより恥ずかしい。それを踏まえたうえで、宇宙空間に裸で飛んでいるものは言語を絶する不思議、素晴らしさだ。
アグテックのタブー(科学技術を今ある以上に発展させてはならない)は、Gレコの当時の地球人の一部(アメリア人)には笑うべきナンセンスに思えている。
『自由に任せればいいじゃない、自由に任せるべき、自由に任せなければならないじゃない?』
これに説くためにはどんな語り方をしたらいいだろうか。歴史上、旧時代の人類はそのせいで全滅寸前まで行きましたよと説くことでは伝わらなかった。
きっとハイフン・スタッカートみたいな、『僕の恥ずかしい旅日記』を記すことがスコード教の上級信徒には試練として課せられる。それに耐えられない一般信者は黒歴史の情報にも耐えられない。
Gレコのストーリー全体はベルリの巡礼、教養小説、という印象は強いのだけど、教養的なのはわかるけど何を教養としているのか今ひとつ不思議……、というのが多分大方の感想だと思うんだ。