ブレンパワード (面出明美/富野由悠季, 1998)について。小説版。
今は小説ブレンを読む。これはほとんどアニメに沿っているのでアニメを観返せばいいようなものだが、一応進捗のみ。富野文でもないのだけど、小説通読して作品間の話題があるかもしれない。今度アニメを観返したらそのときにトピックを再利用するだろうか。
ブレンパワードでは、 エモーショナルなものを志向したのだが、 その呼称ゆえに誤解を孕んでしまった。 が、事象というものは、しばしばこのように 現れるという暗喩ではある。
『ブレンパワード』というタイトルが、頭脳をパワーアップするようなサイバーものだろうと思って皆が注目したが、そんなつもりは全然なかったという意味だ。ウソをつけ……としか思われない笑止な御文だが、小説版の序としてやはり掲げてある。
そもそも放送当時に『ブレンパワード』にそんなに注目や反響なんてなかったと思う。アニメ見るためにWOWOW加入する人はいたかもしれないが、いたらがっかりしただろう。誤解されてる以前にアニメ誌の記者のような人以外に一般視聴者にはほとんど関心をもたれなかったはずで、その方がウソつけという感じでもある。
本放送でなくレンタルビデオで追っていたら何か月後という時間差は今よくわからないが、OSTの方が先になっていただろうし、「菅野よう子が勿体ない」という正直な感想だったと思う。ガンダムの富野監督だから興味、という見られ方は、V以降富野監督の名前にそんなイメージ消えているし、「復帰作」のようには見てない。アニメに詳しくてもWOWOWがOVA感覚だったら『ガーゼィ』の二の舞みたいに見えたと。
当時頃のTVアニメ全般が相当ひどい荒廃に見えてて、……という時代環境のことは、ここにくどく書くと富野通読と離れるので省くほうがいいみたいだ。
「エモーショナルなものを」←世界観的なものより。→富野アニメの蓋然論
ブレンパワードの体内って、グランチャーもだろうが、生暖かくて、空気にはある種のにおいがある。不快な臭いではないらしい。アニメでは臭いの表現までしないからな。
もっとダークなストーリーだったら、「不快な臭いはするけど仕方なく乗っている」ということはあると思う、血の臭いがするとか、汚物や腐敗臭そのものがするとか。オーガニック・マシンのアンチボディはまず、清潔なんだ。
さっき書いたようにわたしはこのたびの通読は小説家・富野由悠季の文章・文体に主たる関心があってしている。それは「富野節」とネットで言われるような、エキセントリックな意味にかぎらず、たとえば事件がまず起こって説明は前倒して進んでいくみたいな、筆法なども。だので、「アニメの設定資料」としてはさほど興味ない。
それにしても、比瑪ちゃん気持ち悪くないのかな……。『不思議に怖いという感情はまったくなかった』。子ども達はそれなりにびくびくしているので、アンチボディに適合するヒトはあらかじめそんな恐怖や嫌悪を感じないか、感じさせないかするんだろう。
「感じさせない」というと洗脳みたいでまた不気味な言い方だが、雛鳥の口を開けているのを見ると親鳥が無性に餌をやりたくなるとか、動物の仔をみれば異種でも「可愛い」と感じるような愛情の提示をしているのかもしれん。提示というのはアフォード、みたいな意味をいった。
第一章まで。今夜これだけ。
リバイバル後のブレンまたはグランチャーの、瞳を見たらもう放っておけない、というのはやっぱり、生まれたてのアンチボディが「一人では生きていけないから」という求愛信号を発しているんだろう。その信号が、電波とか精神波のように発信してはいなくても、そんな目でみる生き物がいたらシグナルとして受け取ってしまう「受信能」を持った人間の方が、人類の何パーセントかに元々いるんだと思う。
オルファンがいつから地球にいるのかは書いてあったかな、今は忘れた。
受信能力、と書いても受動的な意味にはなるのでここらの書き方は今でも難しいな。そこにあるものを認める能動的な能力がある、というほうだ。
ブレンパワード/グランチャーは強い衝撃を受けるとハッチが開いてしまい、パイロットを放り出すことが何度かある。それでいいんだろうか……。最近ジークアクスでも見ていささか不思議な光景にも映っていた。エアバッグの有用さも確認できる。
フリュイドスーツにシートベルトは合わなすぎる。ゆったりしているものを、締め付ける感覚はブレンも嫌がりそうだ。そんなものに人を乗せて戦うからじゃないか。 グランチャーは元々、オルファンに対する異物を排除する抗体細胞、戦闘生物として存在しているというのは通説。生殖機能はない。戦闘生物云々もリクレイマーの説だろう。
アンチボディの乗り手、というか、人間のパートナーのことをここでは普通に「パイロット」と呼んでいる。アニメ本編のほうはもう長らく見ていないので忘れたが、アンチボディと適合することをたしか「アジャストする」と呼ぶ設定になっていると思うけど、このノベライズにはアジャストの称は出てこない。
わたしは人型メカのブレンパワードのデザインは好きで思い出もある……。アンチボディがなぜ人型か、という説明は作中にとくにないと思う。それは本作の場合、「人類がなぜこんな姿形になっているのか」とほとんど同じような問いだ。オルファンは人類発生以前から海底にいるのかもしれない、多分そうだろうし。
『ブレンパワード』の作中では、オルファンはいつからかは知れないものの、いつのことか、どこからかこの星(地球)にやってきて、今は海底に眠っているという通説になっていると思う。
先日まで読んでいた『王の心』とこれと、とくに関連づけて読まなくてもいいが、SF的な想像をたくましくすれば、実はこの地球という星も、この太陽系に元からあったのとはかぎらず、宇宙をどこからか旅して現在の場所にたどり着いているのかもしれない。その際、旅する原初の地球だったスペース・アイランドと、オルファンとは、当初からニ者が一体で膠着していたのかもしれない。
現在の太陽系は安住の場所かというと、やはり目指すところはもっと遥か銀河の遠くにあるらしく、オルファンは夢うつつに目覚めて旅立ちたいのだけど、地球の方はまだ眠りこけている、のような空想する。人間のタイムスパンからすると、それが銀河の何処をめざしているが、なぜ翔びたいのかという理由は、想像できない。
もう一つのオルファン、ビープレート、等言っているのを聞いて「地球だろう」と考えるくらいはSF読者にはごくありふれた発想だ。
一つが浮上しようとしている現在で大騒動になっているのに、実はもう一つ、二つめがあるのかもしれない、それはわからない……それが現実になったときには「三つだと!?」となるのは正しく度肝を抜く。いいこと。
ブレンパワード/グランチャーは一人、二人……と「何人」と数えるのが正しい。このノベライズ中には「二機」とある箇所もあって、無理もないが、これは誤り。
人によってこの感じ方は違うはずだと思うが、わたしは「擬人化している」という感じではないと思う。昔、霊長研の人はチンパンジーをやはり「何人」と数えるというのを聞いていて、その感じのほうだと思う。それぞれのパイロットはかなり情緒的にのめり込んでいるけど。
一巻読了。……やはり、興味が薄くて目を通している感ではあるけど、読み飛ばしはしていない。続き。
ノベライズ一巻より。
「ビープレートは、グランチャー以上のアンチボディをリバイバルさせる可能性があるのでしょう?」 「仮説ではあるが、必ず存在する。それが、長年の研究結果だ」 研作は、自信を持って答えた。
どっちなんだよ、と思わざるをえない。意味合いはむしろ反対になるかもしれないけど、蓋然的な言い方の続きになるかもしれない。
わたしは「ここで富野文なら――」みたいな富野ファンの代弁などはしようと思わないが、「ジョナサンなら」と考えてみて、『ビープレートとは、リクレイマーの願望を言い表したものではないのか』と伊佐未博士の信用を疑ってみるかもしれない。
なんでビープレートが「願望」になるのかはよくわからないが、要するにオルファンの目的や意味が、いまだに研作はじめ研究チームのトップにも全然わかっていないことをそれで言い換えているんじゃないのか。ただ、オルファン現象にはあらかじめ二元論的な要素がみられることは、言えてる、という。
ここ数万年のあいだ、オルファンは冬眠していたというのがリクレイマーたちの結論だった。――とある。たった数万年? 数万年以前は何をしていたのかは、ここからは読めない。
大体、「アニメの設定資料として読む気はない」と言っているのに、やはり退屈してきたか。富野文とは……とは、あまり言わないようにしたいけど、その抑揚(アップダウン)なくてあらすじだけを追っていると支離滅裂な話すぎる。
正気と狂気を行き来している間も敵対心は曖昧で、戦闘するつもりがあるのか、ないのか、よくわからないままに不慮の激突!してしまい、勢い余って墜落!したところであまりに場違いな少年がトコトコやってくるので、ハッと正気づいて「花かい?」と前後の脈絡も抜け落ちた昔話をしだし、それでは流石の伊佐未勇も当惑する――
ズゴッドウ!とかシャッ、シャーッ!みたいな富野擬音で間の行をもたせてくれていいんだぜ、と思う、逆に居たたまれなさかな。冗談やってんだぞ! 淡々とやるな! もともと前後が追突してグチャグチャな劇だから、もっと気が狂ってほしい。だめか。
自主的に読んでいるくせ、富野原作で富野欠乏症に苦しむようでは余程だ。よそう。
わたしは90年代のアニメのノベライズは、ここ数年なぜか何冊も取り寄せて読み返しているけど、この頃のアニメ脚本家の人の書く「小説」には共通して特有の苦手さがあり、その理由も世代的にわかるが、その話は今すまい。
「天神さんの子守唄」というのは、この詞が作中で何か意味でもあるのかというと、ないと思うが、井荻麟は結局ララバイめいた詞は何度も何度も書いているようだし、いつかまとまって読み返してみたいとは思う……。
わたしはまず、この唄の入っているシングルCDが、平均音量がサントラ盤より大きめで、その頃自分の携帯再生機のために入れて聴いていると「うるさっ」となるのでやや抑えて編集していたのを思い出す。どうでもいいか。
まず「愛の輪郭」がララバイか……それは、ねむれ、と言っているのか、起きろ、と言っているのか……どっちかというと夢の中に行こうと言っていたのかな。 井荻麟作詞ってそれほど押韻にはこだわらないけど、『愛し合う心を、……あなたが』の、あーあー、あああー、『子供達の心の ともしびになってほしいと』おおお、おお、おー、のような、あると思って聴いていると、ありそうでない、のような微妙な面白さがある。
天神さん・地の神さん、天津神・国津神、水神さんやオロチというキャラクターは、子守唄に必要なキャラクターではないと思う。たまたま富野小説通読してところで、わたしは『ガーゼィの翼』を連想してしまう、それは仕方のない。
「愛の輪郭」で寝る子はいませんって……。良い曲なのは、わたしも好きですけど、こんな煩わしい詞を幼児に説きつけたくないよ。それは、人類には高度すぎる子守唄というか、宇宙人の赤ちゃん向け、のようかな。
ララバイだと思わなければいいのか、ラブソング。『君の青春は輝いているか』のようなソングにもそこそこ似ていないか。わたしはまじめだ。
2巻読了。3巻は構成:富野由悠季・文:斧谷稔になる。一部、若干の加筆があるが「富野小説」の本格的なものじゃない。
あえて、富野小説の較べて印象としては、『ファウ・ファウ物語』のようなペースに似ている。これって絶版かなあ……そうだろうが、今みたところそこまで高騰はしていないようだ。1500円くらい。好きな人以外、お勧めはしづらいな。電子で復刊すればいい。
「飛びませい! 勇!」
この台詞はたぶんアニメにはなかったと思う。斧谷稔文のこの3巻は、1・2とそれほど違うかというと文末が「~である」になる以外、端々の雰囲気がなんとなく以上には、それほど分かるほど違わない。が、ちょっと見過ごせない箇所もなくはなく。
この「~ませい!」というのは、最近……といっても何年か前だ、に有名になった例の「出ませい」というのと、もうひとつ忘れたくないのが『ガーゼィの翼』だったんだけど世俗でガーゼィの話題にはならんし。
二十二章。
ネリー・ブレンが勇という生体をとりこんでいたからだろうし、クインシィ・イッサーの赤いグランチャーもまた、勇以上の生体を内包し、かつ姉弟(あねおとうと)という関係も無縁ではないと考えたい。 ヒメ・ブレンのチャクラにはじきとばされたふたりのアンチボディは、雲海の中で抱き合い、その形のまま――つまりはアンチボディの力の集合体――として帰るべきところへ帰った。ユキオ、アカリ、クマゾーたちが待つノヴィス・ノアへ、である。 クインシィ・イッサーたる依衣子は、この地球上で唯一の敵であるノヴィス・ノアに救助される結果になった。
ここで急に、気を取り直したように富野文らしい富野文が始まる。ここの、突然に著者から「~と思いたい」と持ちかけられる感じは前回、小説Vガンダム序文を挙げた。
ピラミッド型のブリッジをもつことと、孤児院にまでなってしまったノヴィス・ノアの存在が、勇と依衣子の帰還を誘導したかも知れないという推測はなりたつのだが、
どうしたらそんな推測が「なりたつ」んだ……。
ブレンパワード オリジナル・サウンドトラック1 を聴く。とくに「Flow」が好き。
菅野よう子アルバムもまた通しリスニングをしたいな。前回、Song to flyと信長の野望「天翔記」あたりは聴き返した。わたしは光栄ゲームの頃の、フュージョンバンド的なサウンドが今あまり聴く気になれない。
「バロンズゥを呼び出したか! クインシィは真の抗体になったというわけだ」
おうさっ!――のまえに、アニメではジョナサンの「バロンズゥよかったな、兄弟ができたぞ」という、感極まる台詞があるはずだが、ノベライズでは少し省略。そこで、嵩にかかって「彼女ができたぞ」とは言わないんだよな。ジョンは童貞。
まあ、アンチボディに性別はないはずだが。ネリーブレンのことはこの巻の最初の方で「彼女」と呼ばれていた。まあ、わかる。
「だからオルファンは、誰かにそばにいてほしいって、話をしてほしいって思っていますよ!」 このような話を、このように断定されて、信じる者などはいないものだ。が、比瑪の言葉で語られると、オルファンというものの実体が、確かにそうなのではないか、と思えてくる。願望であったにしても、そうであってほしいと考えるのだ。だから一同は、口をつぐんでしまう。
わたしはここで『ブレンパワード』の本筋から脱落する。陳腐だと思うから。それを言ってはいけないか? でもわたしの今現在のテーマはここなんだけど。 ル・グインでもタニス・リーでもダンセイニでも、ファンタジーについては今そこの興味を追っているので、わたしの関心事にさせてもらおう。ブレンは、今日の時間中に読んでしまおうか。
ル・グインの名を出してしまうと、それは例の『馬鹿か!おまえは!』から始まる勇の一番の長台詞のことを書き込んでないとならない。その台詞はノベライズにはない、念のため。
その中の、――雄と雌との関係でもない、もっと根源的に、陰陽とかプラスマイナスぐらいはっきりと反発し合う習性をもっている。何故だよ!――とのくだりは、先日『闇の左手』を再読していて、どうしても連想していた。『闇の左手』は80-90年代日本でも傑作評価されているので直接の引用と思われても怪しくない。もっともル・グインくらい強者だと、影響を言い出せばなんにでも言えて否定できない。むしろ、読者もあまり引っ張られないように耐える。疑う。
わたしは『ブレンパワード』の事件の顚末は陳腐だと思うけど、依衣子姉さんのストーリーの結末としてはそれ以上なく好ましい。わたしはそれ以外どうでもいい。
ブレンパワード3読了。福井晴敏氏による解説まで。この「解説」が、2025年現在に読んでも全然古くない、一部は現在なお読み直されてほしいような内容で、それだけでもこの本はピックアップしたいのだった。まあそれだけでは難しいけどな。このあとどうしようか。
福井晴敏氏が……と言ったわりに、福井小説を今読む気はないけど、『∀の癒やし』を代わりに読もうか、∀やキングゲイナーの間は今飛んで『リーンの翼』へ行ってしまおうか、少し迷い。エッセイはまた別で読むが、ゲイナーにしても連載小説のそこまで全テキストを補おうとは今思っていない。わたしの手元には今ないが、手に入るはずだがな。
ブレンパワードOST2は、このあと聴いておく。ブレンは今回ここまでか。
わたしは『王の心』はアカイアー推しだと書いたが、『ブレンパワード』はクインシィ。無論だ。
依衣子がその後どうなったかは、それももうどうでもいいのだろうが、その後の生涯にわたって空をみればオルファンが滞空し続けているなら、そのオルファンの巫女のようなものがいれば比瑪(や、子供達)よりはやはり依衣子だったんじゃないかと、いくらか余分な想像もする。あと現代詩を読む。
夢に見る銀河をまどろんだまま旅する―― その瞳と 唇
それが誰の瞳と唇かは、「まどろんだまま旅している誰か」のことは、今まどろんでいるので目はつぶっていると思うから、瞳は見えない。「まどろんでいる誰かが、その夢の旅の果てに見ている誰か」のことだろう。なんと理屈っぽい説明だ。理屈だけど、おかげで誰を思うべきかの関心を絞れる。
夢見る者は、夢に自分のことなどは忘れていよう。そして、忘れたい。
分離したカフェオレは二人の心みたいに冷めてる
『二人の心は、分離したカフェオレみたいに冷めてる』と語るのが常識。カフェオレがそんなに好きか?カフェオレのことはもう放っておいてやれ。わたしはそういう詩が好き。カフェオレが愛しいんだな。
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『ブレンパワード』というタイトルが、頭脳をパワーアップするようなサイバーものだろうと思って皆が注目したが、そんなつもりは全然なかったという意味だ。ウソをつけ……としか思われない笑止な御文だが、小説版の序としてやはり掲げてある。
そもそも放送当時に『ブレンパワード』にそんなに注目や反響なんてなかったと思う。アニメ見るためにWOWOW加入する人はいたかもしれないが、いたらがっかりしただろう。誤解されてる以前にアニメ誌の記者のような人以外に一般視聴者にはほとんど関心をもたれなかったはずで、その方がウソつけという感じでもある。
本放送でなくレンタルビデオで追っていたら何か月後という時間差は今よくわからないが、OSTの方が先になっていただろうし、「菅野よう子が勿体ない」という正直な感想だったと思う。ガンダムの富野監督だから興味、という見られ方は、V以降富野監督の名前にそんなイメージ消えているし、「復帰作」のようには見てない。アニメに詳しくてもWOWOWがOVA感覚だったら『ガーゼィ』の二の舞みたいに見えたと。
当時頃のTVアニメ全般が相当ひどい荒廃に見えてて、……という時代環境のことは、ここにくどく書くと富野通読と離れるので省くほうがいいみたいだ。
「エモーショナルなものを」←世界観的なものより。→富野アニメの蓋然論
ブレンパワードの体内って、グランチャーもだろうが、生暖かくて、空気にはある種のにおいがある。不快な臭いではないらしい。アニメでは臭いの表現までしないからな。
もっとダークなストーリーだったら、「不快な臭いはするけど仕方なく乗っている」ということはあると思う、血の臭いがするとか、汚物や腐敗臭そのものがするとか。オーガニック・マシンのアンチボディはまず、清潔なんだ。
さっき書いたようにわたしはこのたびの通読は小説家・富野由悠季の文章・文体に主たる関心があってしている。それは「富野節」とネットで言われるような、エキセントリックな意味にかぎらず、たとえば事件がまず起こって説明は前倒して進んでいくみたいな、筆法なども。だので、「アニメの設定資料」としてはさほど興味ない。
それにしても、比瑪ちゃん気持ち悪くないのかな……。『不思議に怖いという感情はまったくなかった』。子ども達はそれなりにびくびくしているので、アンチボディに適合するヒトはあらかじめそんな恐怖や嫌悪を感じないか、感じさせないかするんだろう。
「感じさせない」というと洗脳みたいでまた不気味な言い方だが、雛鳥の口を開けているのを見ると親鳥が無性に餌をやりたくなるとか、動物の仔をみれば異種でも「可愛い」と感じるような愛情の提示をしているのかもしれん。提示というのはアフォード、みたいな意味をいった。
第一章まで。今夜これだけ。
リバイバル後のブレンまたはグランチャーの、瞳を見たらもう放っておけない、というのはやっぱり、生まれたてのアンチボディが「一人では生きていけないから」という求愛信号を発しているんだろう。その信号が、電波とか精神波のように発信してはいなくても、そんな目でみる生き物がいたらシグナルとして受け取ってしまう「受信能」を持った人間の方が、人類の何パーセントかに元々いるんだと思う。
オルファンがいつから地球にいるのかは書いてあったかな、今は忘れた。
受信能力、と書いても受動的な意味にはなるのでここらの書き方は今でも難しいな。そこにあるものを認める能動的な能力がある、というほうだ。
ブレンパワード/グランチャーは強い衝撃を受けるとハッチが開いてしまい、パイロットを放り出すことが何度かある。それでいいんだろうか……。最近ジークアクスでも見ていささか不思議な光景にも映っていた。エアバッグの有用さも確認できる。
フリュイドスーツにシートベルトは合わなすぎる。ゆったりしているものを、締め付ける感覚はブレンも嫌がりそうだ。そんなものに人を乗せて戦うからじゃないか。
グランチャーは元々、オルファンに対する異物を排除する抗体細胞、戦闘生物として存在しているというのは通説。生殖機能はない。戦闘生物云々もリクレイマーの説だろう。
アンチボディの乗り手、というか、人間のパートナーのことをここでは普通に「パイロット」と呼んでいる。アニメ本編のほうはもう長らく見ていないので忘れたが、アンチボディと適合することをたしか「アジャストする」と呼ぶ設定になっていると思うけど、このノベライズにはアジャストの称は出てこない。
わたしは人型メカのブレンパワードのデザインは好きで思い出もある……。アンチボディがなぜ人型か、という説明は作中にとくにないと思う。それは本作の場合、「人類がなぜこんな姿形になっているのか」とほとんど同じような問いだ。オルファンは人類発生以前から海底にいるのかもしれない、多分そうだろうし。
『ブレンパワード』の作中では、オルファンはいつからかは知れないものの、いつのことか、どこからかこの星(地球)にやってきて、今は海底に眠っているという通説になっていると思う。
先日まで読んでいた『王の心』とこれと、とくに関連づけて読まなくてもいいが、SF的な想像をたくましくすれば、実はこの地球という星も、この太陽系に元からあったのとはかぎらず、宇宙をどこからか旅して現在の場所にたどり着いているのかもしれない。その際、旅する原初の地球だったスペース・アイランドと、オルファンとは、当初からニ者が一体で膠着していたのかもしれない。
現在の太陽系は安住の場所かというと、やはり目指すところはもっと遥か銀河の遠くにあるらしく、オルファンは夢うつつに目覚めて旅立ちたいのだけど、地球の方はまだ眠りこけている、のような空想する。人間のタイムスパンからすると、それが銀河の何処をめざしているが、なぜ翔びたいのかという理由は、想像できない。
もう一つのオルファン、ビープレート、等言っているのを聞いて「地球だろう」と考えるくらいはSF読者にはごくありふれた発想だ。
一つが浮上しようとしている現在で大騒動になっているのに、実はもう一つ、二つめがあるのかもしれない、それはわからない……それが現実になったときには「三つだと!?」となるのは正しく度肝を抜く。いいこと。
ブレンパワード/グランチャーは一人、二人……と「何人」と数えるのが正しい。このノベライズ中には「二機」とある箇所もあって、無理もないが、これは誤り。
人によってこの感じ方は違うはずだと思うが、わたしは「擬人化している」という感じではないと思う。昔、霊長研の人はチンパンジーをやはり「何人」と数えるというのを聞いていて、その感じのほうだと思う。それぞれのパイロットはかなり情緒的にのめり込んでいるけど。
一巻読了。……やはり、興味が薄くて目を通している感ではあるけど、読み飛ばしはしていない。続き。
ノベライズ一巻より。
どっちなんだよ、と思わざるをえない。意味合いはむしろ反対になるかもしれないけど、蓋然的な言い方の続きになるかもしれない。
わたしは「ここで富野文なら――」みたいな富野ファンの代弁などはしようと思わないが、「ジョナサンなら」と考えてみて、『ビープレートとは、リクレイマーの願望を言い表したものではないのか』と伊佐未博士の信用を疑ってみるかもしれない。
なんでビープレートが「願望」になるのかはよくわからないが、要するにオルファンの目的や意味が、いまだに研作はじめ研究チームのトップにも全然わかっていないことをそれで言い換えているんじゃないのか。ただ、オルファン現象にはあらかじめ二元論的な要素がみられることは、言えてる、という。
ここ数万年のあいだ、オルファンは冬眠していたというのがリクレイマーたちの結論だった。――とある。たった数万年? 数万年以前は何をしていたのかは、ここからは読めない。
大体、「アニメの設定資料として読む気はない」と言っているのに、やはり退屈してきたか。富野文とは……とは、あまり言わないようにしたいけど、その抑揚(アップダウン)なくてあらすじだけを追っていると支離滅裂な話すぎる。
正気と狂気を行き来している間も敵対心は曖昧で、戦闘するつもりがあるのか、ないのか、よくわからないままに不慮の激突!してしまい、勢い余って墜落!したところであまりに場違いな少年がトコトコやってくるので、ハッと正気づいて「花かい?」と前後の脈絡も抜け落ちた昔話をしだし、それでは流石の伊佐未勇も当惑する――
ズゴッドウ!とかシャッ、シャーッ!みたいな富野擬音で間の行をもたせてくれていいんだぜ、と思う、逆に居たたまれなさかな。冗談やってんだぞ! 淡々とやるな! もともと前後が追突してグチャグチャな劇だから、もっと気が狂ってほしい。だめか。
自主的に読んでいるくせ、富野原作で富野欠乏症に苦しむようでは余程だ。よそう。
わたしは90年代のアニメのノベライズは、ここ数年なぜか何冊も取り寄せて読み返しているけど、この頃のアニメ脚本家の人の書く「小説」には共通して特有の苦手さがあり、その理由も世代的にわかるが、その話は今すまい。
「天神さんの子守唄」というのは、この詞が作中で何か意味でもあるのかというと、ないと思うが、井荻麟は結局ララバイめいた詞は何度も何度も書いているようだし、いつかまとまって読み返してみたいとは思う……。
わたしはまず、この唄の入っているシングルCDが、平均音量がサントラ盤より大きめで、その頃自分の携帯再生機のために入れて聴いていると「うるさっ」となるのでやや抑えて編集していたのを思い出す。どうでもいいか。
まず「愛の輪郭」がララバイか……それは、ねむれ、と言っているのか、起きろ、と言っているのか……どっちかというと夢の中に行こうと言っていたのかな。
井荻麟作詞ってそれほど押韻にはこだわらないけど、『愛し合う心を、……あなたが』の、あーあー、あああー、『子供達の心の ともしびになってほしいと』おおお、おお、おー、のような、あると思って聴いていると、ありそうでない、のような微妙な面白さがある。
天神さん・地の神さん、天津神・国津神、水神さんやオロチというキャラクターは、子守唄に必要なキャラクターではないと思う。たまたま富野小説通読してところで、わたしは『ガーゼィの翼』を連想してしまう、それは仕方のない。
「愛の輪郭」で寝る子はいませんって……。良い曲なのは、わたしも好きですけど、こんな煩わしい詞を幼児に説きつけたくないよ。それは、人類には高度すぎる子守唄というか、宇宙人の赤ちゃん向け、のようかな。
ララバイだと思わなければいいのか、ラブソング。『君の青春は輝いているか』のようなソングにもそこそこ似ていないか。わたしはまじめだ。
2巻読了。3巻は構成:富野由悠季・文:斧谷稔になる。一部、若干の加筆があるが「富野小説」の本格的なものじゃない。
あえて、富野小説の較べて印象としては、『ファウ・ファウ物語』のようなペースに似ている。これって絶版かなあ……そうだろうが、今みたところそこまで高騰はしていないようだ。1500円くらい。好きな人以外、お勧めはしづらいな。電子で復刊すればいい。
この台詞はたぶんアニメにはなかったと思う。斧谷稔文のこの3巻は、1・2とそれほど違うかというと文末が「~である」になる以外、端々の雰囲気がなんとなく以上には、それほど分かるほど違わない。が、ちょっと見過ごせない箇所もなくはなく。
この「~ませい!」というのは、最近……といっても何年か前だ、に有名になった例の「出ませい」というのと、もうひとつ忘れたくないのが『ガーゼィの翼』だったんだけど世俗でガーゼィの話題にはならんし。
二十二章。
ここで急に、気を取り直したように富野文らしい富野文が始まる。ここの、突然に著者から「~と思いたい」と持ちかけられる感じは前回、小説Vガンダム序文を挙げた。
どうしたらそんな推測が「なりたつ」んだ……。
ブレンパワード オリジナル・サウンドトラック1 を聴く。とくに「Flow」が好き。
菅野よう子アルバムもまた通しリスニングをしたいな。前回、Song to flyと信長の野望「天翔記」あたりは聴き返した。わたしは光栄ゲームの頃の、フュージョンバンド的なサウンドが今あまり聴く気になれない。
おうさっ!――のまえに、アニメではジョナサンの「バロンズゥよかったな、兄弟ができたぞ」という、感極まる台詞があるはずだが、ノベライズでは少し省略。そこで、嵩にかかって「彼女ができたぞ」とは言わないんだよな。ジョンは童貞。
まあ、アンチボディに性別はないはずだが。ネリーブレンのことはこの巻の最初の方で「彼女」と呼ばれていた。まあ、わかる。
わたしはここで『ブレンパワード』の本筋から脱落する。陳腐だと思うから。それを言ってはいけないか? でもわたしの今現在のテーマはここなんだけど。
ル・グインでもタニス・リーでもダンセイニでも、ファンタジーについては今そこの興味を追っているので、わたしの関心事にさせてもらおう。ブレンは、今日の時間中に読んでしまおうか。
ル・グインの名を出してしまうと、それは例の『馬鹿か!おまえは!』から始まる勇の一番の長台詞のことを書き込んでないとならない。その台詞はノベライズにはない、念のため。
その中の、――雄と雌との関係でもない、もっと根源的に、陰陽とかプラスマイナスぐらいはっきりと反発し合う習性をもっている。何故だよ!――とのくだりは、先日『闇の左手』を再読していて、どうしても連想していた。『闇の左手』は80-90年代日本でも傑作評価されているので直接の引用と思われても怪しくない。もっともル・グインくらい強者だと、影響を言い出せばなんにでも言えて否定できない。むしろ、読者もあまり引っ張られないように耐える。疑う。
わたしは『ブレンパワード』の事件の顚末は陳腐だと思うけど、依衣子姉さんのストーリーの結末としてはそれ以上なく好ましい。わたしはそれ以外どうでもいい。
→前回
ブレンパワード3読了。福井晴敏氏による解説まで。この「解説」が、2025年現在に読んでも全然古くない、一部は現在なお読み直されてほしいような内容で、それだけでもこの本はピックアップしたいのだった。まあそれだけでは難しいけどな。このあとどうしようか。
福井晴敏氏が……と言ったわりに、福井小説を今読む気はないけど、『∀の癒やし』を代わりに読もうか、∀やキングゲイナーの間は今飛んで『リーンの翼』へ行ってしまおうか、少し迷い。エッセイはまた別で読むが、ゲイナーにしても連載小説のそこまで全テキストを補おうとは今思っていない。わたしの手元には今ないが、手に入るはずだがな。
ブレンパワードOST2は、このあと聴いておく。ブレンは今回ここまでか。
わたしは『王の心』はアカイアー推しだと書いたが、『ブレンパワード』はクインシィ。無論だ。
依衣子がその後どうなったかは、それももうどうでもいいのだろうが、その後の生涯にわたって空をみればオルファンが滞空し続けているなら、そのオルファンの巫女のようなものがいれば比瑪(や、子供達)よりはやはり依衣子だったんじゃないかと、いくらか余分な想像もする。あと現代詩を読む。
それが誰の瞳と唇かは、「まどろんだまま旅している誰か」のことは、今まどろんでいるので目はつぶっていると思うから、瞳は見えない。「まどろんでいる誰かが、その夢の旅の果てに見ている誰か」のことだろう。なんと理屈っぽい説明だ。理屈だけど、おかげで誰を思うべきかの関心を絞れる。
夢見る者は、夢に自分のことなどは忘れていよう。そして、忘れたい。
『二人の心は、分離したカフェオレみたいに冷めてる』と語るのが常識。カフェオレがそんなに好きか?カフェオレのことはもう放っておいてやれ。わたしはそういう詩が好き。カフェオレが愛しいんだな。