『屍鬼二十五話』第二十二話。「三人のうち誰がいちばん気が迷っているか」のような問いは、わたしには質問がナンセンスな質問に思われる。
物事の正当さを比べるならそれぞれの根拠を挙げて採るべきところを選びもしようが、狂っているのに狂い度の大小もあるものか。「詭弁的だ」とわたしは反射的に感じるんだけど、このソーマデーヴァや、伝奇物語にかぎらずインド古典でよくする詭弁論のいつものではある。そのつどイラッとするだけで、そんなにめずらしいと思ってるわけではない。
第二十三話はネクロマンシー。死者の魂を招く降霊術ではなく、老いた自分の肉体を棄て新しく若々しい体に乗り移り再生する転生術の古典的な例。
「古典的」といってもこれは十一世紀だけどな。降霊術にせよ長生術にせよ、古来、世界中にはあって何でも言えば視点が定まらない。今いったのは、伝奇小説中の、のこと。
ジャンバラダッタ本第二十二話、性魔術だな……。いまわたしの言う性魔術は、『これこれの者と性交すると願いは成就するぞよ』という語りであれやこれやする、ストーリーで、これは時代を経ても、現代のノベルやコミックにもあまねく語り継がれている。それほどあくどいポルノ的に言わなくても、ボーイミーツガールのジュブナイルでも『少女の肉体に最終兵器の封印が施されている』、などの。少女型の生体ユニットなども一種の性魔術だ。ここはその詐欺話だけど、性愛と祈願成就を関連して説きつける型は古今おなじ。
その「信仰」はむろん古代からあるし、それを揶揄った小説もまた古代からある。「黄金のろば」とかか。今は、中世。
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