屍鬼二十五話
『屍鬼二十五話――インド伝奇集』ソーマデーヴァ著 上村勝彦訳。再読。隣の富野トピックの連想からと書いているがもともと再読はしたくて積んでいる。上のと同様、今あまり訳注のこまごまにかまわず通読を急ぐ。
今、第一話まで。……こんな話など十年も経って憶えているわけがない。読んだ印象と、11世紀頃との年代と。岩波文庫の『カター・サリット・サーガラ』4巻本も一応、手元にある。この「屍鬼」はヴェーターラというらしい。
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『屍鬼二十五話――インド伝奇集』ソーマデーヴァ著 上村勝彦訳。再読。隣の富野トピックの連想からと書いているがもともと再読はしたくて積んでいる。上のと同様、今あまり訳注のこまごまにかまわず通読を急ぐ。
今、第一話まで。……こんな話など十年も経って憶えているわけがない。読んだ印象と、11世紀頃との年代と。岩波文庫の『カター・サリット・サーガラ』4巻本も一応、手元にある。この「屍鬼」はヴェーターラというらしい。
これ訳文を読んでいると、既成の価値観を覆すアヴァンギャルドな美人、のように読める――大和撫子だ淑女だと思っていたらギャルが来たのような――けど、たぶん美的感覚や美学自体はやはりクラシックでより完璧な理想像だったのことだろう。
第七話まで。
『屍鬼二十五話』。以前の感想のあれこれをしだいに思い出してきたが、これは読むまえに巻末解説(上村勝彦)をざっと目を通して当たったほうがよい。
「インドの」諸々
インド古典の物語集にもいろいろあるが、まず紀元前のと、四世紀頃と、七世紀と、十一世紀と……のような時代のちがいや、インドといっても北から南まで広いのに日本人の読者は全てざっくり「インドの」と理解しがちなので、せめて「いつどこ」は念頭に置くように書いておく。これはすでにしている。
『屍鬼二十五話』に触れる途中で一回カーリダーサの方に振れて思い出したが、この『屍鬼』ではたとえば、美女は毎話のように登場するが、美女の美しさの描写にいちいち拘泥しない。髪の艶やかさ、肌の張り、目のアーモンド型、唇の半開きで吐息し、乳房や頸や腹の三本の皺や、臀部の……と「列挙式」にいちいちに比喩を尽くして描いていったりはしない。美女なら、たいへん美しかった、絶世の美女でした、と言って済む。観念的というくらい簡潔。
カター・サリット・サーガラの原型というテキストがもともと伝承として、決まっているわけではないんだろう。ただソーマデーヴァのまえにクシェーメンドラがいて、その作品による饒舌、詩的技巧に偏った失敗というのに解説では触れている。それを踏まえてこの『屍鬼』の興味はあくまで伝奇にあり、それは語り口、ストーリーテリングの妙味を読んでくれ、ということなんだ。文体のこと。わたしはそれ自体を、前回十数年まえですでに憶えていなかった。書いておこう。
語り特化
ストーリーテラーだと思うとこれが面白い。毎話のパターンがだんだんお約束になってきてセルフツッコミ(コミカル)が始まったり……。毎回、ヴェーターラからトリヴィクラマセーナ王に謎かけがかかるが、作中での「回答」には本当にそう?と思える怪しい場合が多々ある。そもそも「難問」として設定されているそれに正解なんてありはしないと思う。
トリヴィクラマセーナ王はクシャトリヤ的価値観から「各種姓の義務を守る」という基準で答えているという印象も、しなくはないけど、どうもいつもそれとはかぎらず、むしろテキトーを答えている、いかにもこじつけで「それは違うだろう」と読者には思えることもある。
これは、まず即答することがこの場の課題で、ああも言える・こうも考えられる……といちいち検討していれば「早く答えなければ殺すよ」と屍鬼から言われている。答えが正しかったかどうかは屍鬼もいちいち評価していない。この物語集は、不条理でグロテスクなシチュエーションでスピーディかつウィットな応答を楽しむためのものだと。この、「語り特化型物語」への関心はわたしは十数年前に一度それがあり、そのテーマで蒐めてもいた。
第十話まで。上で、「各種姓の義務を守る」(ダルマ)ことをクシャトリヤ的な、と言ったが、それはクシャトリヤのステレオタイプ。
それよりはトリヴィクラマセーナ王の価値観は一般世間の倫理的通念とは無縁に、あるいは一般的倫理に反しても「より難しい、ハードなチャレンジに臨んでいるものが偉い」と判定する傾きがあるようだ。
冒険的なこと、というかな。これも伝奇ジャンルだからこそ、と言えばいいだろう。スリル重視。
第十三話、『こんな設問をするやつがわるい』というより、『こんなナンセンスな話をする語り手、作者が悪い』と言ってるようで、メタ話を言い出しては伝奇が成り立たない。でもこれで一話稼ぐ。
『屍鬼二十五話』第十六話まで。
菩薩の化身が捨身しても皆が神々を非難したら神が現れてさっと生き返し、死んだ王子はめでたく立ち上がる。――さてそれは本当に有り難いのか。というのはここではその言い方ではないが、『菩薩にとっては当たり前だから、その勇気を賞讃することではない』のいう気持ちは、今もなんらか分かるだろう。……
最近では、『騎士道』のときにフランスの中世武勲詩の中で戦い死んでいった勇士たちが話のあとに全員生き返るとか、日本の僧兵の話では、殺傷の罪を自身に引き受けて戦う僧兵には、地獄に落ちても若干の救済があるなど説くことに、むごい話に救済要素を挿むことで物語本来の趣旨は薄れて台無しにしていないか……のような、現代読者として気分を禁じ得ないものがある。
だが、それはやはり聴衆の大勢が耐えられないのだろうというのは、わたしは今そんなにわからないことでもない。
菩薩行のさらに追究はこのあと第二十話にある。
『屍鬼二十五話』第二十二話。「三人のうち誰がいちばん気が迷っているか」のような問いは、わたしには質問がナンセンスな質問に思われる。
物事の正当さを比べるならそれぞれの根拠を挙げて採るべきところを選びもしようが、狂っているのに狂い度の大小もあるものか。「詭弁的だ」とわたしは反射的に感じるんだけど、このソーマデーヴァや、伝奇物語にかぎらずインド古典でよくする詭弁論のいつものではある。そのつどイラッとするだけで、そんなにめずらしいと思ってるわけではない。
第二十三話はネクロマンシー。死者の魂を招く降霊術ではなく、老いた自分の肉体を棄て新しく若々しい体に乗り移り再生する転生術の古典的な例。
「古典的」といってもこれは十一世紀だけどな。降霊術にせよ長生術にせよ、古来、世界中にはあって何でも言えば視点が定まらない。今いったのは、伝奇小説中の、のこと。
ジャンバラダッタ本第二十二話、性魔術だな……。いまわたしの言う性魔術は、『これこれの者と性交すると願いは成就するぞよ』という語りであれやこれやする、ストーリーで、これは時代を経ても、現代のノベルやコミックにもあまねく語り継がれている。それほどあくどいポルノ的に言わなくても、ボーイミーツガールのジュブナイルでも『少女の肉体に最終兵器の封印が施されている』、などの。少女型の生体ユニットなども一種の性魔術だ。ここはその詐欺話だけど、性愛と祈願成就を関連して説きつける型は古今おなじ。
その「信仰」はむろん古代からあるし、それを揶揄った小説もまた古代からある。「黄金のろば」とかか。今は、中世。
『屍鬼二十五話』解説まで、終わり。この続きカター・サリット・サーガラに行くか……行くと長いが。『鸚鵡』『十王子』も積んでいるけど、すれば何か月か作業になりそう。東洋文庫の電子書籍は仕様をみるかぎりあまりものの役に立ちそうにないので、ここは今手元にあるもので根気よく読んだほうが自分のためにはなりそうだ。