仏道の『阿頼耶識システム』

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法介 2023/10/31 (火) 06:23:40 修正

これをもって天台及び日蓮教学では第七末那識を仏の意識と考えます。

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法介 2023/10/31 (火) 06:02:04 修正

煩悩を断じ尽くし、生死の苦道も滅した常住の涅槃を得た境地が実慧解脱と智顗は申しております。そしてもともとの業を断じて「別に方便を起こして物を化す」とありますが、これは阿頼耶識の自身の過去世の悪しき業を断じ尽くすことでそれまで濁っていた第七末那識がクリアーな状態へと変わります。

智顗の弟子であった章安大師(灌頂)が智顗の『法華経』注釈をまとめた『法華文句』の中で、

「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」

と釈した「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」がこれにあたります。また『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1108では、この三種の解脱を唯識の三識にあてはめて説明されております。その部分を紹介致します。

三識に類通せば、一つに、破陀那識はすなわち六識。二つに、阿陀那識はすなわち七識。三つに、阿黎耶識はすなわち八識なり。真性の解脱はすなわち阿黎耶識、実慧の解脱はすなわち七識、方便の解脱はすなわち六識。
(※阿陀那識=末那識、阿黎耶識=阿頼耶識の意)

更に段をまたいで七識について次のように申しております。

問うていわく。摂大乗論師(無著)は、七識はこれ執見の心と説く。なんぞこれ実慧の解脱というを得んや。

答えていわく。迷を転じて解を成ず。もしは迷執を離れて、いずこにか別して実慧の解あらん。ゆえに知る、七識は非迷非解、迷解を説くを得る解のゆえに、即ち是れ実慧の解脱なり

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法介 2023/10/31 (火) 04:58:31 修正

次に「実慧解脱」について。---(第七意識の転識

もしは別教には、苦道は即ち是真性のの大涅槃にあらずと説きて、而も真性の涅槃の理あり。もしは生死の苦道は滅して、まさに真性を顕し、常住の涅槃を得て、煩悩道は即ち是れ実慧にあらざるを明かす。煩悩を断じて尽くさば、実慧はまさに円かに、業道は即ち是れ方便にあらざるを明かす。業を断じて別に方便を起こして物を化す。これすなわち十二因縁に三道は滅し、三種の解脱を得。真常の三種の解脱を弁ずといえども、なおこれ思議の相なり。

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法介 2023/10/31 (火) 04:21:10 修正

10ページ分を要約して紹介します。

まず「方便解脱」について。---(前五識・第六意識の転識

十二因縁で言えば過去・現在の三枝は、これ煩悩道。過去・現在の二枝は、これ業道。現在・未来の七枝は、これ苦道なり。いま十二因縁に三道を明かして三種の解脱を弁じ、思議・不思議の不同を分別せん。

もしは通教には、苦道は即ち是れ真性と説くといえども、すなわちこれ偏真の法性の理、煩悩即空と説くも、空は実慧にあらず。業道即空と明かすといえども、空は方便にあらず。ゆえに三種は不思議の解脱にあらざるなり。

ここで言っている「方便解脱」は、凡夫の前五識・第六意識から起こる「客観と主観」による無明(迷い)からの解脱です。これは『般若心経』で説かれる「色即是空 空即是色」による解脱です。

<凡夫の世界観> ---(方便の解脱)
 仮=「色即是空」順観の十二因縁
 空=「空即是色」逆観の十二因縁
 中=「色即是空 空即是色」

先に紹介しました凡夫の仮観における三つの真理を不思議の解脱にあらず「方便の解脱」として説き明かしております。三つの真理とは、

 客観における真理「色即是空」--- (
 主観における真理「空即是色」--- (
 実体の真理「色即是空 空即是色」--- (

で、この凡夫の世界観における「相・性・体」の真理が仮観における三つの真理、即ち「三諦」となります。

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法介 2023/10/31 (火) 04:02:41 修正

これは智顗が『維摩経玄疏』の中で述べられている言葉です。ここで智顗は次の三種の解脱を示しております。

 一に真性解脱
 二に実慧解脱
 三に方便解脱

この「三種解脱」の説明が『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1105からP.1115にかけてなされてます。

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法介 2023/10/31 (火) 03:56:18 修正

『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1102より

六識はこれ分別識。七識はこれ智障の波浪識。八識はこれ真常識。智識はこれ縁修。八識はもしは顕るれば、七識はすなわち滅す。八識は真修と名づく。任運に体は融じて常寂なり。而も、摂大乗論にいわく、「七識はこれ執見心。八識はこれ無記の無没識」と。あにこれ真修というを得んや。またいま明かすところの六識は、すなわちこれ不思議の解脱なり

あに六識・七識が滅して己りて、八識の真修を不思議の解脱となすことあらんや。所以はいかん。鴦掘経にいわく、「いわゆるかの眼根は諸如来においては常に具足して滅修することなく、了了に文明に見る。ないし意根もまたまたかくのごとし」と。

法華経に明かす父母所生の六根の清浄、自ずから湛然たるをもって十方界境を照らす。あに六識が滅して別に真の縁修あることあらんや。ゆえに経にいわく、「佛は、一切衆生は畢竟して寂滅なり、すなわち大涅槃もまた滅すべからず、一切衆生もまた滅すべからざるを知る」と。すなわちこれ六識は滅すべからず

またこの経にいわく、「解脱とはすなわち諸法なり」と。あにすなわちこれ六識と十八界の一切法ならざらんや。もし爾らば、あに、ただ八識に約して不思議の解脱を明かすを得んや。

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法介 2023/10/31 (火) 03:43:54

真理を得る為には逆観の縁起(相依性縁起)を起こすことが大事です。

そこで円教の立場からこの『唯識』を見る為に日蓮大聖人の言葉をもって世親の三性説を紹介しましたが、天台智顗はどのように『唯識』を語っている(釈している)か、紹介したいと思います。

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法介 2023/10/31 (火) 03:35:05

二乗とは声聞と縁覚の境涯を指して言った言葉です。

蔵教の声聞は九次第定で寂滅の「無余涅槃」を目指し、六道輪廻から解脱して天上界へ〝転生〟します。

通教の縁覚は「空」を覚って仏の空観(色界)に入り天界で「有余涅槃」を覚ります

この二つの涅槃の相から離れた不相が『唯識』で説く円成実性(えんじょうじっしょう)となります。。

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法介 2023/10/30 (月) 14:10:39

次に、

「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云う」

についてお話します。

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法介 2023/10/30 (月) 14:02:49 修正

「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり」

とは、「生じる」とか「滅する」といった相が無いという意味で、蔵教で説かれた此縁性縁起がこれにあたります。テーブルは天板と脚とに分解したらテーブルという物体は消えて無くなります。しかし天板と脚とに分解したでけであってそのものが消滅した訳ではありません。再び組み立てれば元のテーブルという物体が顕れます。これは生じた訳ではありません。元々あったものが仮和合して姿を変えただけで何も滅していないし生じてもおりません。

このような縁起(此縁性縁起)で対象を捉えると「相」というモノの見方が縁起というモノの観方へと変わっていきます。これがここで言う「無相」の意味です。

この無相という視点に立って世界を観たのが「仏の空観」です。

それを『唯識』では、依他起性(えたきしょう)と言います

(※無相の視点=実体を空じた世界観「色即是空 空即是色」)

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法介 2023/10/30 (月) 13:36:55 修正

この前五識と第六意識とで立ち上がる世界観を『華厳経』では、

「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」

と説かれておりまして、凡夫の心(第六意識)で立ち上がる世界(欲界)と仏の心で立ち上がる世界(色界)と真如の心で立ち上がる世界(無色界)は唯(ただ)心の一法より起こります。

無量義経』には、

「無相・不相の一法より無量義を出生す」

とありまして、これを日蓮大聖人は、

無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う

と『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で申されておられます。

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法介 2023/10/30 (月) 12:47:00 修正

内縁と言うからには外縁もありまして、蔵教の『阿含経典』で詳しく解き明かされた順観型の十二因縁が外縁の縁起となります。縁起といいましてもこのように二種の縁起があります。

 蔵教=「此縁性縁起」相(色相)を中心として起こる縁起 ---(外縁=順観)
 通教=「相依性縁起」性(心性)を中心として起こる縁起 ---(内縁=逆観)

この二つの縁起を『般若心経』では有名な次の文句で顕しております。

 此縁性縁起=「色即是空」
 相依性縁起=「空即是色」

実体は〝相〟の側面(客観)と〝性〟の側面(主観)の二つの側面(主観と客観)から立ち上がります。

 色相=客観認識
 心性=主観認識
 主観と客観=実体

これが我々凡夫の世界観です。(仮観

この世界観(仮観)を『唯識』では遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)と言います

前五識と第六意識によって立ち上がってくる世界観です。

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法介 2023/10/30 (月) 12:30:56

色界とは修行者が解脱によって「凡夫の世界観」を止滅させ意識を「仏の空観」に移行させた完全に肉体から解脱した世界です。五蘊皆空で前五識も第六意識も完全に止滅していますのでその世界観に「物質=実体」は存在し得ません。

この世界観に意識が入ると、対象の事物の実体は消滅し、変りにその事物の因果を観じ取っていきます。

これが阿頼耶識を因として起こる相依性縁起です。この縁起は心性の変化で起こる内縁の縁起となります。

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法介 2023/10/30 (月) 12:22:20 修正

仏教の世界観である三界の「欲界」は欲に支配された世界です。これは我々凡夫の世界観なのでイメージしやすい世界なのですが、色界や無色界というのがちょっとイメージしにくいかと思われます。

そこでウィキペディアで「色界」を調べてみますと、

https://ja.wikipedia.org/wiki/色界

色界(しきかい、Skt:rūpa-dhātu)は三界の一つ。色天、色行天ともいう。欲望を離れた清浄な物質の世界。

「欲望を離れた清浄な物質の世界」←なんともいい加減な説明文である。

物質があるからそれに執着して欲が生まれるのです。その物質の世界に身ををいてなんで欲望から離れた正常な世界が形成されるのですか、、、、、。

誰がこんないい加減な文章を書いたんだ、、、、。

「ウィキペディア」ってこんなもんですよ。ウィキペディアで仏教を学んでもまともな仏教観は見に付きません。論書・注釈書等の専門書や専門のサイト、また学術論文等で学ぶかお寺の門を叩いてお坊さんからちゃんと仏教を学びましょう。

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法介 2023/10/30 (月) 06:48:49

人間の「凡夫の世界観」は、感覚器官から起こる前五識とそれを統合して意識として司る第六意識によって立ち上がります。目を閉じてみてみ下さい。一瞬でその世界は止滅します。消えて無くなった訳ではありません。再び目を開ければ元の世界がそこには存在します。存在はしているけど目を閉じたら一瞬で消えます。目を閉じたあなたの中では今世界は止滅してますが、隣で目を開けている人には世界は存在しています。

解りますか。

世界って人の心が立ち上げているんです。

その心を中心にして立ち上がる世界を詳しく解き明かしたのが『唯識』という大乗仏教の教えです。

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法介 2023/10/30 (月) 06:39:07

龍樹が難解な『般若経典』をひも解いて顕した「空の理論」に対して、『解深密経』『華厳経典』をもとにして世親が顕した『唯識』は「悟りの理論」と言われます。

我々凡夫の視点で見ている世界のことを仏教では「仮観」といい、仏の視点で視る世界を「空観」と言います。さらにその先に悟りの視点で観じる「中観」という世界観があります。真如と言う言葉を仏教ではよく耳にしますがこの悟りの世界観がその「真如の世界観」にあたります。

この「凡夫の世界観」と「仏の世界観」と「真如の世界観」の三つの世界観を「欲界・色界・無色界」の三界として仏教の世界観は形成されています。

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法介 2023/10/30 (月) 06:26:04

仏教は大乗と小乗とに大きく二分されます。なぜ二分されるかと言いますと段階法で仏教は説かれているからです。小乗があっての大乗なのです。仏の教えは人間の言葉の概念から離れたところにあります。その人間の概念から離れたところに、人間が入っていかなければ仏の説法は聞くことは出来ません。

仏が人間の認識に合わせて人間の言葉の世界に降りて来て人間の言葉で法を説く姿を応身の仏と言います。しかし、この応身の仏が説く内容は、人間の世界観の真理のお話です。物理や科学や医学と同じ次元の実体に即した真理です。

本当の仏の教えとは、そのような人間の実体の世界観(仮観)から離れた仏の世界観(空観)に入っていかないと実は聞けないんです。その仏の世界観で説法する仏の姿を報身の仏と言います。

大乗仏教を起こした龍樹はこの仏の空観に入る為の手法を空の理論(空理)として詳しく解き明かされました。それを受けて世親がその仏の空観と凡夫の仮観の構造を『唯識』として詳しく解き明かしていきます。

ですから小乗はその空観に入る為に、まずは人間の実在の世界観がどのようにして立ち上がっているのかを学ぶ基礎教育にあたります。「実在の世界」の構造がわからないと世界観を仮観から空観へと変えることは出来ません。

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法介 2023/10/28 (土) 15:33:17

唯識三十頌 作者:世親 訳者:玄奘
https://ja.wikisource.org/wiki/唯識三十頌

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法介 2023/10/21 (土) 07:57:10 修正

唯識三十頌/訓読
https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html

(5)
次のは第二能変なり 是の識を末那(末那識)と名づく
彼(阿頼耶識)に依りて転じて彼をず 思量するをともとも為す

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法介 2023/10/20 (金) 05:38:07

阿頼耶識 と依他性 との関係 について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/2/23_2_1001/_pdf/-char/ja

『唯識三十頽』第5偶
「この(阿頼耶識の)転捨阿羅漢の位においてである。(tasya vyrttir arhatve)」3)
>> 5の204レス

5
法介 2023/10/20 (金) 05:19:59 修正

能蔵・所蔵・執蔵の三義について
https://talk.jp/boards/psy/1692236321
レス241-281

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法介 2023/10/08 (日) 06:44:05

施本 「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism5p.html

 業種子は、前五識・第六識・第七識・第八識の全てに影響を与える基となっている種子のことで、原因が善・悪であっても、阿頼耶識の中でたくわえられます。また、阿頼耶識においては、異なって熟されていくため、このことを「異熟習気《じっけ》」と表されます。

また、種子には六つの条件があって、このことを「種子の六義」と言います。

種子の六義

刹那滅《せつなめつ》(刹那に生滅変化すること)・果倶有《かくう》(結果と同一に存在すること)・恒随転《ごうずいてん》(生滅が常に続くが性質はずっと保持していること)・性決定《しょうけつじょう》(善・悪・無記の因果性が決まること)・待衆縁《たいしゅうえん》(因縁によって現行すること)・引自乗《いんじか》(因果は同一の性質で引き継がれること)

では、具体的に「識」によって作り出される、この世の現象世界の事物についての一連の働き、変化については、第一能変第二能変第三能変で示されます。

第一能変・・種子をたくわえる阿頼耶識において、あらゆる業(心《しん》・口《く》・意《い》の三業)の結果が、種子の様々な因縁によって、その結果が異なった形で熟し、新たな認識として生起して現行していくこと。このことを異熟《いじゅく》と言います。例えば、悪業を積み重ねて、その種子を阿頼耶識にたくわえても、その後に善業を重ねて、その善業の種子が阿頼耶識にたくわえられていけば、その因縁によっては、悪業による種子を浄化させて、先の悪業の結果も変わって熟していき、新たな認識の生起、現行をもたらすということです。この第一能変は、仏教における悪をなさず善を行ないなさいという善行奨励の理由として、輪廻についての説明でも理論的に補完されているところであると考えられます。また、先にも述べてありますように、阿頼耶識そのものは、善でも悪でもない「無記《むき》」なるものであります。

第二能変・・未那識における考え・思考のこと。思量《しりょう》とも言われる。この思量では、無意識においても常に自我意識をもたらし、自己執着(我執)して、特に四つの我についての根本煩悩にさいなまれている認識のこと。我見(自己は固定した実体としての存在があるとして、固執していること)、我痴(諸行無常・諸法無我などの仏法の真理を知らない愚かなこと)、我慢(自己について慢心していること)、我愛(自己に愛着していること)。もちろん、未那識は阿頼耶識によって強く影響を受けています。

第三能変・・前五識・第六意識における認識作用。了別《りょうべつ》と言う。眼・耳・鼻・舌・身・意によって、それぞれ対象である色・声・香・味・触・法を認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。ただし、意識は、前五識とはやや異なり、前五識の情報を受けて、すべての事物(現在・過去・未来を含めて)について認識・判断するものとして区別されています。もちろん、阿頼耶識は、前五識・第六意識に大きく影響しています。

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法介 2023/10/08 (日) 06:20:30 修正

「金 範松」論文の要点

『心・意・識説に関する研究』
― 阿頼耶識と末那識との関係を中心―  金 範松

https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=277&file_id=22&file_no=1

難陀等:まず、前五識は、第六識をもってその所依とする。なぜなら、五識が現起する時には、必ず意識が俱に起きるので眼等の根をその所依とすべきではない。五根は五識の種子であると主張する。次に、第六識は、第七識をもってその所依とする。なぜなら、この識は必ず末那に託して起こるからである。そして、第七識と第八識とは、別に所依はない。なぜなら、第七・第八はいずれも恒に相続して転じており、自力が勝れているからであるという。

 前五識→第六識
 五識→五根
 第六識→第七識
 第七識と第八識とに所依はない。

安慧等:難陀等の説を全面否定して論破する。難陀は五根を五識の種子だというが、その時、起きる過失について十難を立てて論破する。そして、前五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依がある。それは五色根(五根)と五識と同時の第六識(五俱意識)だという。第六意識は、必ず恒に一つの俱有依がある。つまり、七識である。五識と共に起こる時は、さらに五識をも俱有依とする。第七識は、必ずただ一つの俱有依がある。つまり、第八識である。ただ第八識は、恒に転変する
ことがなく、自らよく立つので俱有依は無いという。

 五識→五根× 十難を立てて論破する。
 安慧は、五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依があると主張。
 五識→五根と「五識と同時の第六識」の二つの俱有依がある。

 第六意識→七識
 五識と共に起こる時は、五識をも俱有依とする。
 第六意識→七識・五識

 七識→八識
 八識は、恒に転変することがなく、俱有依は無い。

浄月等:前の安慧の説に対して、七識については同じであるが、第八識に俱有依がないことについては、未だ理を尽くしていないと批判する。即ち第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張する。さらに、現行識にその依がある限り、種子識にもまた、現行識に依るべきだと主張する。従って第八識の現行識においては、決定して第七識をもってその所依とする。第七・第八二識は、俱に間断なく恒に相続するので互に俱有依とする。もし、有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。また、種子識においては、決定して第八現行は依る。これ第八現行は種子の住依
となるのでという。

 第八識に俱有依がないことについては、
 未だ理を尽くしていないと批判する。
 第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張。

 しかがって第八識の現行識においては、
 決定して第七識をもってその所依とする。

 第八識→第七識

 第七・第八の二識は、俱に間断なく
 恒に相続するので互に俱有依とする。

 第七⇄第八

 有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。

護法の批判:護法は、前三師の説は皆理に応じないと論破する。なぜなら、そもそも依存関係にある法には「依」と「所依」との区別があると主張する。「依」とは、広く因縁・等無間縁等の四縁に通じ、すべての有為法において因に頼り縁に託して生じ住する法を皆「依」と名づける。それは、例えば、王と臣が互いに相依る如くのものである。しかし、これを「所依」と名づけるべきではない。俱有の所依と名づけるべきものは、必ず決定・有境・為主および取自所縁の四義を俱にしなければならないこれらの条件を備えているのは内の六処(六根六境)である。然るに前三師は、何れもこれを弁別しないので間違いであるという。

画像1

第六意識は第七末那識を依とするが第七意識は第六末那識を依とはしない(不共依)

 第六意識→第七末那識(不共依の直接関係

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法介 2023/10/08 (日) 05:04:50 修正

受熏の四義
https://komajo.repo.nii.ac.jp/record/1146/files/KJ00008526339.pdf

 依何等義立熏習名。所熏能熏各具四義令種生長。故名熏習。何等名為所熏四義。一堅住性。若法始終一類相續能持習氣。乃是所熏。此遮轉識及聲風等性不堅住故非所熏。二無記性。若法平等無所違逆。能容習氣乃是所熏。此遮善染勢力強盛無所容納故非所熏。由此如來第八淨識。唯帶舊種非新受熏。三可熏性。若法自在性非堅密能受習氣乃是所熏。此遮心所及無為法依他堅密故非所熏。四與能熏共和合性。若與能熏同時同處不即不離。乃是所熏。此遮他身刹那前後無和合義故非所熏。唯異熟識具此四義可是所熏。非心所等。何等名為能熏四義。一有生滅。若法非常能有作用生長習氣。乃是能熏。此遮無為前後不變無生長用故非能熏。二有勝用。若有生滅勢力増盛能引習氣。乃是能熏。此遮異熟心心所等勢力羸劣故非能熏。三有増減。若有勝用可増可減攝植習氣。乃是能熏。此遮佛果圓滿善法無増無減故非能熏。彼若能熏便非圓滿。前後佛果應有勝劣。四與所熏和合而轉。若與所熏同時同處不即不離。乃是能熏。此遮他身刹那前後無和合義故非能熏。唯七轉及彼心所有勝勢用。而増減者具此四義可是能熏。如是能熏與所熏識倶生倶滅熏習義成。
(護法等菩薩造 / 玄奘譯『成唯識論』卷第二)*6

堅住性とは、熏習を受けるものは長期的に同体性を維持していかなければならない、という容体ならではの本質を指すものである。
繰り返し同じ内容でなければ熏習されない

無記性とは、善悪の種子を薫習されるものとして、その所熏の識は、あくまでも容体としてそれ自身が善であったり悪であったりすることはない。したがって、善とも悪とも決定しない無記の性質のものでなければならないという本質を指すものである。

阿頼耶識では意志は働かない

可熏性とは、その容体が他の別な容体に二重に支配されることを排除し、どこまでも独立的自主性をもった存在でなければならないこと、かつ常恒的に不変であるというようなものでは柔軟に熏習する有余が亡くなってしまうことから、熏習可能の余裕のある存在でなければならないという本質を指すものである。
阿頼耶識は熏習可能。熏習機能は阿頼耶識にしかない特性

能所和合性とは能熏する側と相応して離れることがない存在でなければならないという本質を指すものである。すなわち、能熏と所熏とが同時間かつ同空間を共有し、二者和合して離れないということが条件であることになる。これは他身において前後異時におけるものを斥ける特質であり、そうでないと因果関係が破綻してしまうからである。
能熏する側と能熏される側が因縁で和合していなければならない
瞬間瞬間に熏習される。タイムラグはない。第三者に熏習さることもない

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法介 2023/10/07 (土) 17:50:31

堅住性無記性可熏性和合性

『成唯識論』
https://komajo.repo.nii.ac.jp/record/1146/files/KJ00008526339.pdf

 依何等義立熏習名。所熏能熏各具四義令種生長。故名熏習。何等名為所熏四義。一堅住性。
若法始終一類相續能持習氣。乃是所熏。此遮轉識及聲風等性不堅住故非所熏。二無記性。若
法平等無所違逆。能容習氣乃是所熏。此遮善染勢力強盛無所容納故非所熏。由此如來第八淨
識。唯帶舊種非新受熏。三可熏性。若法自在性非堅密能受習氣乃是所熏。此遮心所及無為法
依他堅密故非所熏。四與能熏共和合性。若與能熏同時同處不即不離。乃是所熏。此遮他身刹
那前後無和合義故非所熏。唯異熟識具此四義可是所熏。非心所等。何等名為能熏四義。一有
生滅。若法非常能有作用生長習氣。乃是能熏。此遮無為前後不變無生長用故非能熏。二有勝
用。若有生滅勢力増盛能引習氣。乃是能熏。此遮異熟心心所等勢力羸劣故非能熏。三有増減。
若有勝用可増可減攝植習氣。乃是能熏。此遮佛果圓滿善法無増無減故非能熏。彼若能熏便非
圓滿。前後佛果應有勝劣。四與所熏和合而轉。若與所熏同時同處不即不離。乃是能熏。此遮
他身刹那前後無和合義故非能熏。唯七轉及彼心所有勝勢用。而増減者具此四義可是能熏。如
是能熏與所熏識倶生倶滅熏習義成。
 (護法等菩薩造 / 玄奘譯『成唯識論』卷第二)*6

唯識講義【29年08月03日】①受薫の四義(阿頼耶識の薫習)・清森義行
https://www.youtube.com/watch?v=FFba0GcvTfk

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法介 2023/10/01 (日) 18:29:56

末法においては、最高峰の教えである『法華経』が声聞縁覚菩薩といった三乗の智慧によって解き明かされます。その時代にあって瞑想を修行として実践しても輪廻からの解脱を目的とする「無余涅槃」は得られても、覚りを得る「有余涅槃」を得る事はありません。

有余涅槃は「無漏の種子」を備えた本已有善の修行者が仏との過去の因縁を観じ取っていく中で覚りの境地を現実の世界の中で開き顕していく涅槃だからです。そこのところはこちらで詳しくお話させて頂いておりますのでご覧になられてない方は是非目を通されてみて下さい。

法介のほ~『法華経』その③
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/17

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法介 2023/10/01 (日) 18:04:16

質問する。その証拠はどのようなものか。

答え。『摩訶止観』第六巻には、法華経より前の教えで、それを行ずる者の修行の段階が高い理由は、真実に導く手だてとしての教説だからである。完全な教えで行ずる者の修行の段階が低いのは、真実の教説だからである」とある。

止観輔行伝弘決』では、これを注釈して「『前の教えで』以下は、一時的な教えと真実な教えを判別するものである。教えが真実に近づけば近づくほど、それを行ずる者の修行段階は低くなり、教えが一時的なものになればなるほど、修行段階は高くなからである」としている。

また、『法華文句記』第九巻には「修行段階を判定するという箇所では、観察する対象が深くなればなるほど、真実の教えにおける修行段階ではそれだけ低くなることを明らかにしている」とある。

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法介 2023/10/01 (日) 17:56:46

この事を日蓮大聖人が『四信五品抄』の中で詳しく述べられておりますので現代語訳でご紹介致します。

質問する。末法時代に入って、初めて覚りを求める心を起こした修行者は、例外なく円教の戒・定・慧の三学を全て実践する必要があるのか。

答える、このことは、重要なことであるので、経文と考え合わせ、必要な個所を取り出して、あなたに送る。すなわち、五品のうち初品・第二品・第三品では、仏は紛れもなく戒と成という二つのものを制止して、修行の内容をひたすら慧も実践できなければ、信を慧の代わりとし、信という一字を究極としている。不信は一闡堤や謗法の原因であるのに対し、信は慧の原因であり、名字即の位である。

天台大師は次のように述べている。「相似即の利益を得た場合、一度死んで次に生まれても忘れることはない。名字即や観行即の利益では、次に生まれた時に、忘れてしまうが、忘れない場合もある。忘れた者も、正しく導いてくれる者に遭遇すれば、過去世の善い行いが再び効力を発揮する。もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心を失ってしまう」と。

はばかりながら、少し前の天台宗の慈覚大師円仁・智証大師円珍のお二人も、天台大師・伝教大師という正しく導いてくれる人に背いて、善無畏や不空などといった悪へと導く者に心が移ったのであろう。釈尊の時代から遠く離れた現代の学者は、慧心僧都源信の『往生要集』の序分にたぶらかされて、もともとあった法華経を信じる心を失い、阿弥陀仏を信じる一時的な教えへと入っていく。「大乗から退き、小乗を取る」と言われる者たちであった。

過去世のことから推しはかると、未来には無量劫にわたって、三悪道に生まれることになるだろう。「もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心をうしなってしまう」とは、このことである。

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法介 2023/10/01 (日) 13:41:10 修正

教えと言いますのは、高度な教え程、修行はより簡素化されていきます

なぜかと言いますと教えそのものが優れているからです。例えば今紹介しました「十八空」も蔵教の『俱舎論』では瞑想で空じていきますが、円教の『法華経』では教えで空じておりますので修行者はその教えである「経」を唱えるだけで、仮観→空観→中観といった意識の変化が起こります。

智顗の『摩訶止観』の注釈書に妙楽大師の『摩訶止観輔行伝弘決』というのがありまして、その中に「教弥実位弥下」という文句があります。解釈しますと次のようになります。

「正しく権実を判ず、教弥実なれば位弥下る。教弥権なれば位弥高し」

要訳しますと、教えが真実に近づくほど、それを行じる修行の段階はより低くなっていくといった事です。

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法介 2023/10/01 (日) 12:11:06 修正

しかしこの瞑想(止観法)で解脱出来た阿羅漢は>> 3の阿難の話から考えましてもそんなには居なかっただろうと考えられます。世親の兄である無著ですら解脱出来ずに自殺しようとしたと言い伝えられている程ですから。

初期仏教ではお釈迦さまが説かれた教えの初歩的内容(初転法輪)しか理解に至っておらず「空」においても『俱舎論』で理解する「析空」でしかありません。その為、修行法としての瞑想で十八種類の諸法を空じていかなければなりません。これを「十八空」と言います。

ブログ『福聚講』で、大智度論の「十八空」を紹介されてます。

引用させて頂きますと次のような内容になります。

(1)内空(ないくう):眼耳鼻舌身意の六根は空である。
(2)外空(げくう):色声香味触法の六境は空である。
(3)内外空(ないげくう):内の六入(眼耳鼻舌身意)、外の六入(色声香味触法)は空である。
(4)空空(くうくう):空ということも空である。
(5)大空(だいくう):十方世界は空である。
(6)第一義空(だいいちぎくう):涅槃も空である。
(7)有為空(ういくう):三界は空である。
(8)無為空(むいくう):生住滅を離れた世界も空である。
(9)畢竟空(ひっきょうくう):諸法の至竟不可得の世界も空。
(10)無始空(むしくう):無始から存在するものも空である。
(11)散空(さんくう):法として存在するものも空である。
(12)性空(しょうくう):自性は空である。
(13)自相空(じそうくう):諸法の相も空である。
(14)諸法空(しょほうくう):諸法は空である。
(15)不可得空(ふかとくくう):諸法の自性は求めても得られないということも空である。
(16)無法空(むほうくう):法が無であるということも空である。
(17)有法空(うほうくう):法があるということも空である。
(18)無法有法空(むほううほうくう):法が有るということも無いということも空である。
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俱舎論』によれば

「法の種族の義、是れ界の義なり。一の山中に、多くの銅・鉄・金・銀等の族あるを説きて、多界と名くるが如く、是くの如く一身、或は一相続に十八類の諸法の種族有るを十八界と名づく」(正蔵二九・五上)

とありまして、あたかも一つの山が多種の鉱石から成り立っているように、我々の身心は十八種の法から成り立っていると説かれております。その十八の法は心身の構成要素なので「十八界」と呼ばれます。そして『阿含経典』において「無常」や「無我」を説き示すにあたり頻繁に用いられます。さらに『大般若経』においては五蘊や十二処と共に十八界をと見ることが繰り返し説かれております。

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法介 2023/10/01 (日) 02:48:37

こちらで四諦の「三転法輪」のお話をしておりますが、

三転法輪
https://zawazawa.jp/bison/topic/14

初転法輪にあたる蔵教では、実体に即した四諦が説かれます。ここでの瞑想は寂滅を目的とした九次第定(サマタ瞑想)です。上座部ではヴィパッサナー瞑想も実践しますがサマタとは別々に行われます。初期仏教では『倶舎論』に見られるように対象を細分化することで仮和合なる縁起によって実体が立ち上がって見えるといった「此縁性縁起」による空の理解(析空)です。

通教の第二法輪で更に詳しく空が『般若経典』で説き明かされていきます。ここでは主観を空じた縁起が龍樹によって「相依性縁起」として解き明かされます(体空

この段階で瞑想の有り方も進化します。

それまではただひたすら寂滅を目指すのみだった九次第定の瞑想から、〝逆観〟という相依性の縁起を起こす事で阿頼耶識に眠っている過去の因果を深層意識で観じ取っていきます。それがサマタとヴィパッサナーの二種の瞑想を同時に行う「止観」による瞑想です。サマタ瞑想で五蘊を停止させ第六意識を止滅させて第七末那識へ意識を向かわせます。いわゆる「従仮入空観」で仏の空観(天上界)に入りそこでヴィパッサナー瞑想で〝仏との因縁〟(三周の説法参照)を観じ取っていきます。

そうやって空観(天上界)で仏の意識を観じ取っていったのが>> 4>> 5の「崔 箕杓 論文」で紹介されている内容です。

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法介 2023/10/01 (日) 01:50:24 修正

お釈迦さまは仏教の重要概念である〝空〟を「無我」という角度から説かれました。ですから初期仏教では、「自我」を滅した寂滅の境地を目指します。煩悩を断ち、身も心も無に帰す「灰身滅智」が理想の境地とされました。

仏とは果たしてそのような寂滅の境地を言うのでしょうか。

全てが無であるならばそこには自他の区別は起こりません。いわゆる「無分別」の覚りの境地ですが、自他の分別がない境地にあって他を救いたいという自身の存在があり得るのでしょうか

実は仏と言えども自我は存在しております。

人間の意識は『唯識』で言えば第六意識となります。五蘊の働きの中の「色・受・想・行・識」の最後の「識」がこの第六表層意識となります。五蘊を全て空じている仏にあってはこの凡夫の表層意識は止滅しています。「人間の意識」は前五識(五つの感覚器官)を対象として起こる意識ですが、その表層の第六意識を空じることで深層の第七意識が意識として顕れてきますこの第七深層意識の事を「末那識」と呼びます

ここに〝自我意識〟が潜んでおります。

この自我の存在を詳しく解き明かしているのが『唯識』です。

 お釈迦様が「無我」を説き、 ---(仮諦

 龍樹が「」を解き明かし、 ---(空諦

 世親が「唯識」を解明します。---(中諦

5
法介 2023/10/01 (日) 01:39:11

そして崔氏は、この『華厳経』の特徴として次のような内容をあげております。

「入法界品」を除いて、華厳時の説法には他の経典とは異なる顕著な特徴がある。第一に、「仏昇須弥頂品」第九以後は天界を上昇しながら場所が変わっていくが、「その時、世尊は威神力によって、この座から起き上がることなく、須弥山の頂上へ昇り、帝釈の宮中へと向かった」、「その時、世尊は威神力によって、菩提樹と帝釈宮とを離れることなく、夜摩天の宝荘厳殿へ向かった」というセンテンス(文)に見られるとおり、実際には釈尊は正覚を得た菩提樹から少しも動いていないと説明されている点である。第二に、法会の参席者だけでなく説法の主体が大部分、菩薩達であるという点である。ただし菩薩達は「仏陀の神通力を承けて(承佛神力)」三昧に入り、三昧から出た後に法を説く。つまり自身の智慧によって自ら説くのではなく、仏陀の智慧にインスパイア(刺激)され、仏陀の代わりに説法をするのである。このような内容は、華厳時の説法が人間界の日常的な言語伝達方式、つまり肉声を通したものではないということを示唆している。(P.30)

釈迦が正覚して行った説法は人間界の日常的な言語伝達方式、つまり肉声を通したものではなかった事がこの『華厳経』の内容から読み取れます。お釈迦さまは五蘊を空じて正覚しておりますので当然「しゃべる」という行為から離れております。(五蘊皆空

しかし、未だ自己性は備えておりますので説法をします。

これは仏といえども未だ自我を備えもっているという事になります。自我(自己性)が有るから衆生を救いたいという慈悲の心も起こります

仏には未だ自我は意識として備わっております

ここのところが分からない人達は、仏は全ての煩悩を滅しているので自我は無いと思い込みます。そしてそれが「無我」という境地だと勘違いします。そのようにお偉い学者さん達が勘違いし、そういった解説本や仏教用語解説辞書などを世に出し、それをもとに今日ではウィキペディアなどにもその勘違いによる解釈があたかも正しいかのように世の中に弘まってしまってます。

間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16

4
法介 2023/10/01 (日) 01:32:28

第一回仏典結集はお釈迦さまが入滅されて直ぐに開催されてますが、それぞれの経典が説かれた時期を確定するためには経典が説かれた場所、参席した大衆、周辺の状況、説法の内容等を漏れなく調べなければなりません。こちらの「崔 箕杓 論文」では、そういった事をふまえて次のように論を進めておられます。

https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf

おびただしい数の経典を読解して比較するという作業自体が恐ろしく膨大なものであり、歴史を記録しないインドの風土においてはそもそも歴史的な証拠というものは十分には残っていないので、非常に困難な作業となるであろう。それよりも説法の内容のなかに年齢や年月など具体的な時期を明らかにするセンテンス(文)が存在することが知られているから、それらを根拠とするほうが、量的には多くはないとはいえ客観性が高いと言うことができよう。(P.28)

そういった趣旨で崔氏は、天台教判である、「華厳鹿苑方等法華涅槃」の経典が説かれた時期によって分類分けされた五時説をまず検証されています。

天台の教判のうち五時説は、経典(群)が説かれたおおよその時期を手がかりとして説法の目的を明らかにしようとするものであり、これに対する理解が確立されれば、膨大な経典を読解し意味を把握するにあたって大きな助けを得ることができる。ただしそのためには、この時期ごとの分類がどのような根拠から成立したものであるのか、妥当性があるのかどうかが問題となるであろう。また分類が妥当であるとしても、その次には各時期ごとの特徴が何であるのかを正確に把握する必要がある。(P.28)

五時の第一はお釈迦さまが正覚された直後に説かれた『華厳経』です。

この経典の説時は冒頭において明らかに記されています。

 このように私は聞いた。ある時、仏陀は摩竭提国の寂滅道場におられ、初めて正覚を成し遂げられた。

釈尊が摩竭提国菩提樹下の寂滅道場において初めて正覚を成し遂げた直後に、この経典が説かれたことは明らかである。『華厳経』は場所を移しながら説法がなされている。旧訳である『六十華厳』によれば、最初の「世間浄眼品」から「盧舎那仏品」第二までは正覚を成就したその場で説法がなされ、「如来名号品」第三から「賢首菩薩品」第八までは普光法堂において、文殊菩薩が他の菩薩達と主に「信」について問答するという形式で説法がなされている。「仏昇須弥頂品」第九以後は、仏陀が菩提樹から離れないまま須弥山の頂上の忉利天に昇って「明法品」第十四までの説法がなされるが、この時には法慧菩薩が他の菩薩や帝釈天と問答形式によって十住菩薩の法を説く。「仏昇夜摩天宮自在品」第十五から「菩薩十無尽蔵品」第十八までは、さらに夜摩天に昇って功徳林菩薩が十行菩薩の法を説き、「如来昇兜率天宮一切宝殿品」第十九から「金剛幢菩薩十廻向品」第二十一までは、兜率天において金剛幢菩薩が十廻向地に位する菩薩の修行内容を説く。さらに仏陀が欲界の頂上である他化自在天に昇った後、金剛蔵菩薩が十地菩薩の法を説き、普賢菩薩等が菩薩の十種の神通等を説く部分が、「十地品」第二十二から「宝王如来性起品」第三十二までである。「離世間品」第三十三の説法の場所は、再び普光法堂である。善財童子が五十三の善知識と順番に出会い、法界に入っていく過程が旅行記のように描かれている最後の「入法界品」第三十四は、それ以前の諸品とは異なって仏陀が舎衛国の給孤独園に住しており、声聞衆もその場にいる。『六十華厳』ではこのように七つの場所において八つの法会が開かれるので、『華厳経』の七処八会の説法と呼ぶのである。(P.29-P.30)

こちらで三界図が紹介されておりますのでご参照ください。

https://kknews.cc/zh-hk/fo/b4x59e6.html

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法介 2023/09/30 (土) 09:41:56

解脱」という言葉が出てきましたが、初期仏教では修行者の最高位を「阿羅漢」と言いますが、阿羅漢となる為にはこの解脱を習得しなければなりません。お釈迦さまの十大弟子の中に侍者として常にお釈迦さまの説法を聴いていた多聞第一と言われた阿難がおりますが、第1回の仏典結集のさい、結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかったので、釈迦の後継者であった摩訶迦葉は、阿難の参加を認めませんでした。しかし、仏典結集当日の朝に阿難は阿羅漢果に達して無事結集へ参加します。如是我聞で始まる経典の「我は仏陀からこのように聞いた」の多くはこの阿難が聞いた話であるとされています。

仏の諸法の説法は、このような阿羅漢達が解脱によって仏の空観(色界)に入って行きそこで聞いて来たお話が経典にまとめられていきます。もちろん阿難のように直接説法をお釈迦さまから聞いた話も経典化されておりますが、それは仮設の世界における説法であって「法」としての諸法の説法は、全て空観でなされているはずです。なぜなら法(真理)というものは〝言葉〟という概念から離れたところにあるものですから。

解りやすい例が、『唯識』の元となった『解深密経』は、弥勒が説いたと記録に残っております。弥勒は天上界の兜率天にいると説かれている菩薩です。

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法介 2023/09/30 (土) 09:39:07

ヴィパッサナー瞑想は本来、五蘊を空じて仏の空観へ入って仏の智慧を観じ取っていく瞑想なので、その前提として五蘊を空じる(止滅させる)サマタ瞑想が行われるべきものなのですが、上座部でこの二つの瞑想を別々に行ったりします。なぜかと言いますと、サマタ瞑想は感覚器官を全て停止させる瞑想であるのに対してヴィパッサナー瞑想は、対象をつぶさに観察することで気づきを得る瞑想と上座部では考えられております。この場合、二つの瞑想は相反する瞑想となります。観察するには感覚器官の働き(五蘊の働き)が必要不可欠となりますので。

これは初期仏教では未だ深層意識まで詳しく解き明かされていなかったがゆえの誤った瞑想の捉え方です。

初期仏典である「パーリ仏典」には「止」と「観」について次のように書かれております。

比丘たちよ、「」を修習するとどんな利益を受けるのか。心が修習される。心を修習するとどんな利益を受けるのか。およそ貧が断じられる。比丘たちよ、「」を修習するとどんな利益を受けるのか。慧が修習される。慧を修習するとどんな利益を受けるのか。およそ無明が断じられる。比丘たちよ、貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない。比丘たちよ、実に、貧を離れることから心解脱があり、無明を離れることから慧解脱がある。(AN. I, P.61.)

ここで注目して欲しいのは「慧」即ち智慧を修習すれば無明が断じらると申しております。凡夫の心というのは迷いの心でありそれを「元品の無明」といいます。迷いの凡夫の心から「仏の智慧」を観じとる事はまずもってあり得ません。そして「無明を離れることから慧解脱がある」とあります通り、凡夫の心(第六意識)を離れなくては仏の智慧を観じ得ません。

しかし、残念ながら小乗仏教では仏の空観へ入る術が未だ解明されていませんでした。

比丘たちよ、何を証知して諸法は断じられるべきか。(中略) 無明と有愛である。(中略)何を証知して諸法は現証されるべきか。明と解脱である。何を証知して諸法は修習されるべきか。止と観である。(SN. V, P.52.)

諸法を修習するには止と観、即ち「止観」による瞑想法に依るしかないんです。

1
法介 2023/09/30 (土) 09:34:58

初期仏教では『唯識』は未だ解き明かされておらず、第六意識までの表層意識しか詳しく明かされておらず、初期仏典にもとづいて行われる瞑想は、もっぱら心を無の境地へと向かわせる「九次第定」が主流でした。

唯識』は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経』『大乗阿毘達磨経』として確立した大乗仏教の根幹をなす体系で、無著・世親の兄弟によって大成されました。その唯識では第八識まで解き明かされ、大乗仏教では深層意識へ入ってく「止観法」が瞑想の主流となっていきます。

止観の「」は心を無にする瞑想でこれをサマタ瞑想といい、「」は観察する瞑想ヴィパッサナー瞑想と言います。

『摩訶止観』を顕した天台の智顗は『天台小止観』で、

「まさに知るべし、この二法は車の双輪、鳥の両翼のごとし。もし偏えに修習すれば、すなわち邪側に堕す」

と申しておりまして、この二つの瞑想を「車の双輪、鳥の両翼」に例えて同時に行う事の重要性を説いております。サマタ瞑想で五蘊の働きを停止させ、仏の空観に入る事で仏の意識をヴィパッサナー瞑想で観じ取っていく訳です。

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法介 2023/09/29 (金) 10:52:44

四諦について

『大般涅槃経』聖行品の四諦解釈について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/70/1/70_12/_pdf

智顗の「四悉檀」解釈
https://soka.repo.nii.ac.jp/record/40370/files/daigakuinkiyou0_41_13.pdf

天台智顗の「四種四諦」について
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=11393&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

三転十二行相
四諦の真理は「3度繰り返される」ことで完成に至ると説かれてある。
「示転、勧転、証転」
・示;これが四諦であると知識で知って実践
・勧;これが四諦であると理解して実践
・証;これが四諦であると見極めて実践し、修める。

三転法輪各説
https://www.mmba.jp/archives/38423

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法介 2023/09/29 (金) 10:49:28

説一切有部の等至の体系における静慮の重視 村上 明宏
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40138678/kbk048-16-murakami.pdf

Majjihma-Nikāya(以下MN.)『聖求経(Ariya-pariyesana-suttanta)』にお
ける「アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの伝承」では釈尊が無碍安穏の涅槃を求め、無所有処を実践成就しているアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、その無所有処を体験して捨て去ったと伝承される(44)。そして、無所有処を捨て去ったその後に、非想非非想処を実践成就しているウッダカ・ラーマプッタのもとを訪れ、その非想非非想処を体験して捨て去ったと伝承される(45)。無碍安穏の涅槃のためには、無所有処も非想非非想処も十分では無い、ということである。

 ここで四無色定の中でも無所有処・非想非非想処についてのみ言及されているが、この二つに関しては四無色定の中でも上地とされているから、この無所有処と非想非非想処を否定的に見る見解は説一切有部が無色定より静慮を重視する根拠の一つであると推測される。

2-3.理由その⑶――第四静慮が「不動」とされることに由る――

 MN.『聖求経』において、釈尊が無所有処・非想非非想処を捨て去ったその後、マガタ国を遊行し、ウルヴェーラーのセーナーニーガマに入って密林に坐り(46)、無碍安穏の涅槃に至ったとされる(47)。そこでは、無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定において、生(jāti)・老(jarā)・病([P]byādhi,[S]vyādhi)・死(maran・a)・愁([P]soka,[S]㶄oka)・煩悩([P]san・kilesa,[S]sam・ kle㶄a)の過患(ādīnava)を知って、無碍安穏の涅槃に至ったとされる。そして「私の解脱は不動である(akuppā me vimutti)」という智([P]Jān・a,[S]jñāna)と見([P]dassana,[S]dar㶄ana)が生じたと説かれる。無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定によって無碍安穏の涅槃を得たということである。そして、解脱智見に至って「不動(akopya)」であると認識したのである。

 この「不動」に関しては、第四静慮も「不動(āneñjya)」であるとされる。しかし、その「不動」については「無碍安穏の涅槃を得た」という場合、ʻakopyaʼであり、「第四静慮の不動」は ʻāneñjyaʼ である。 第四静慮における ʻāneñjyaʼ の「不動」についてはAKBh.「世間品」において、次のように説かれる。

 第四静慮は内災(ādhyātmika-apaks・āla)を離れたものである(rahitatva)から不動(āneñja)であると世尊によって説かれた(48)。(AKBh. p.190.23)

AKBh.「定品」においても、同様のことが次のように説かれる。

また、三つの静慮は動揺を伴う(sa-iñjita)と世尊によって説かれた。災患を伴う(sa-apaks・āla)からである。

しかし、八つの災患(apaks・āla)を手放したもの(muktatva)であるから、第四のもの(第四静慮)は不動(āniñja)である(49)。(11ab)(AKBh.p.441.10-12)

 初静慮から第三静慮までは「動揺を伴う」けれど、第四静慮には八災患が無いから「不動(āniñja)」であると説かれる。この ʻāneñjyaʼ で示される第四静慮の「不動」は身・心ともに不動であることを意味すると考えられる。それは第四静慮において「不動」の語として用いられる ʻāneñjaʼ ʻ āniñjaʼ ʻāneñjyaʼ の語形について、AKV.では、次のように説明されるからである。不動(ānejya)とは、㲋ej-、震える(kampana)というこの語根(dhātu)より、ānejyaというこの[語]形である。しかし、āniñjya と誦すとき、㲋in・g- ‒という別の語源(prakr・ti)のこの[語]形であると見るべきである(50)。(AKV.p.344.3-5)