人の認識は、主観と客観とからなりますが、唯識ではその主観を見分と言い、客観を相分と言います。
この見分と相分とによって「実体」が立ち上がります。
「実体」とは、そのものの本当の姿。実質。正体のことで、認識の対象がもつ性質、状態、作用、関係などの根底に横たわってこれを根拠づけながら、同一性を保って自存するものを人間が言語によって定義づけした〝概念〟になります。
我々人間はこの「概念」で様々なモノを捉えております。
しかし、この人間が言葉で定義づけした概念によるところの「実体」は、そのモノの真実の姿を捉えた内容ではありません。
この概念は人間が勝手に考えて対象のモノにあてはめた言わば人間視点による勝手な人間解釈に過ぎず、対象のモノの本当の姿はそのモノがそのモノとなり得た因果で観ないと本当の姿は見えてはきません。
唯識では一人一宇宙を説きます。
これは人が認識している世界は自身の心が造りがしている事を言った言葉です。『華厳経』で説く、
「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」
といった文句によるところです。
そういった昭和の学者さんの解釈で『唯識』を学ぶとこちらの動画解説のように、
【nTechチャンネル】量子力学で語る唯識
「宇宙は無い」といったおかしな事を胸を張って言いだします。
そのおかしな主張の根幹思想にあるのが横山先生の誤った唯識解釈です。
横山先生もそうですが、こういった主張をされる方々は概ね「客観の混同」に陥っております。
昭和の大先生方が陥った解釈の誤りの最大の原因に、仏教の重要概念である「空」の解釈問題があげられます。
龍樹が『中論』で顕した空理を中村先生が自身の著書『龍樹』で詳しく解説されております。龍樹が説いた空は「相依性縁起」だったとする先生の見解はお見事ではあるものの、それは空の持つ四大意義の第二義をひも解いたに過ぎません。『中論』の更に深層では第三義、第四義を龍樹は説いておりそれは仏教が中国に渡って天台智顗が「析空・体空・法空・非空」として詳しくひも解いております。
その内容についてはこちらで詳しく紹介しております。
「空」の理論 https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
ネットで析空と体空の違いを調べてみてください。初議と第二義であるこの二空の違いですらまともに解説出来ている文献は見当たりません。
如何に昭和の大先生方が空理に暗かったかが分かるかと思います。
以下に続きます。
法介説法『唯識の四分について』 https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/25
法蔵の唯識説への対応 石橋真誠 (五重唯識観について) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/32/2/32_2_954/_pdf/-char/ja
以下のリンク先へ続きます。
法介説法『空と唯識』 https://zawazawa.jp/Bukipedia/topic/26
二無心定の成立 福田 琢
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/同朋大学/同朋仏教/同朋仏教 30号(1995年7月)/同朋仏教30 004福田 琢「二無心定の成立」.pdf
四分 https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体) 2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観) 3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我) 4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分 上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。 ●証自証分 上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
『成唯識論』の縁起思想 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識) 法界縁起(因果俱時の縁起)
【大乗仏教】唯識派 唯識二派 https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
仏教認識論 https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様 『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
『十如是事』では次のように仰せです。
我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり
この「凡夫の三身」を体顕する修行が勤行(法華経の読誦)です。十如是の三編読みで>> 3を体顕します。
勤行の後のお題目の唱題行はその体の「凡夫の三身」と用の「仏の三身」が『南無妙法蓮華経』で一つに融け合い(融合)、境と智が冥合した「境智冥合」を体顕する儀式です。
これによって体の仏と用の仏とが一体となって当体蓮華の真実の仏(本仏)が顕れて凡夫の身のまま即身で仏と成ります。
これを即身成仏と言います。
通相三観の仮一切仮が方便の解脱にあたり、空一切空が実慧の解脱、中一切中が真性の解脱となります。
<円融三観> ①+A+壱=仮一切仮 ---(方便の解脱) ②+B+弐=空一切空 ---(実慧の解脱) ③+C+参=中一切中 ---(真性の解脱)
これは相(仮観)・性(空観)・体(中観)の三つの世界観を阿頼耶識の三因でそれぞれ開いて顕れる世界観です。その世界観が欲界、色界、無色界の三界の世界観として凡夫の一身に顕われます。
方便の解脱=欲界 ---(応身) 実慧の解脱=色界 ---(報身) 真性の解脱=無色界 ---(法身)
これが体の仏である「凡夫の三身」です。
天台智顗が顕した円融三諦、即ち一心三観は次の内容となっております。
<円融三諦> 「仮一切仮」 「空一切空」 「中一切中」
これは蔵教・通教・別教でひも解かれた凡夫の世界観(蔵教)、仏の世界観(通教)、如来の世界観(別教)を別相三観として開き(三乗の教え)、
【別相三観】
<凡夫の世界観>---(三観) 客観(仮観)=有 ---① 主観(空観)=無 ---② 実体(中観)=亦有亦無 ---③
<仏の世界観>---(三諦) 相(仮諦)=色即是空(非有)---A 性(空諦)=空即是色(非無)---B 体(中諦)=色即是空 空即是色(非有非無=空)---C
<如来の世界観>---(三身) 縁因仏性(応身)=曼荼羅本尊(亦有亦無)---壱 了因仏性(報身)=法華経(非有非無)---弐 正因仏性(応身)=南無妙法蓮華経(亦有亦無・非有非無)---参
それを次のように枠組みを超えて再編成した内容となります。
【通相三観】
<円融三観> ①+A+壱=仮一切仮 ②+B+弐=空一切空 ③+C+参=中一切中
三種の不思議解脱の最後の真性の解脱を説明する前に『諸法実相抄』の
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。
ではその「妙法蓮華経」の三身とは何かと言いますと、
曼荼羅御本尊 ---応身---仮諦 法華経 ---報身---空諦 南無妙法蓮華経 ---法身---中諦
となります。
これは次に示す三因仏性でもあります。
曼荼羅御本尊 ---縁因仏性 法華経 ---了因仏性 南無妙法蓮華経 ---正因仏性
本来は阿頼耶識に眠っているこの三つの仏性を日蓮大聖人が仏と仏縁を持たない末法の衆生でも阿頼耶識から拾い上げれるように三つの修行の〝因〟として凡夫が認識出来る「色界」に相・性・体として顕して下さったのです。
凡夫の世界(色界)は相・性・体で成り立っている世界ですので。
<凡夫の世界観(仮観)の真理(仮諦)> 相(仮)=色即是空 性(空)=空即是色 体(中)=色即是空 空即是色
空観(天上界)で仏の説法を聞く為には、九次第定とはまた別の行法が行われたと考えられます。
それが三昧という観法です。
『観無量寿経』ではその三昧法が16観法として説かれております。
この二種の瞑想は共に「九次第定」です。蔵教の声聞は色界禅定で実体を空じています(第六意識の止滅)。
通教の縁覚は更に無色界禅定で深層意識(末那識・阿頼耶識)をも寂滅させます。 . . この瞑想(九次第定)で空観に意識として入っても仏の説法は聞けません。どうなるかと言いますと、 . . 8.阿弥陀経(その①) https://butudou.livedoor.blog/archives/17786229.html
↑このようになります。
蔵教では「空の理論」や唯識の「覚りの理論」までは説かれておりませんので蔵教の声聞はひたすら寂滅するのみで空観に入る事もありません。転生で天上界へ向かいます。---(生静慮)
通教で龍樹によって「空」が詳しく解き明かされ、解脱を習得した阿羅漢達が仏の空観(天上界)に転生ではなく意識として入っていきます。---(定静慮)
初期仏教で説かれる「九次第定」の色界禅定の初禅では客観を止滅させます。それが「析空」です。
二禅では「体空」によって主観が止滅します。
三禅で「主観と客観」によって起こる〝感情(心の乱れ)〟が起きなくなります(人空)。
そして四禅で仏の空観にはいります。
空理で捉えると次のようになります。
声聞=色即是空(此縁性縁起)--- 析空 縁覚=空即是色(相依性縁起)--- 体空 菩薩=色即是空 空即是色 --- 人空(析体の二空を空じた空)
五姓各別では、声聞の覚りの種を持った「声聞定姓」と縁覚(独覚)の覚りの種を持つ「独覚定姓」、菩薩の覚りの種を持つ「菩薩定姓」といった感じでそれぞれの境涯に即したそれぞれの「覚りの種」の存在が重要視されます。これこそが「種子説」でいうところの〝種〟そのものです。
ではこの三乗の境涯のそれぞれの覚りが何かと言いますと、声聞に対して蔵教で説かれた実体に即した真理 ---(此縁性縁起)、縁覚に対して通教で説かれた実体を空じた真理 ---(相依性縁起)、そして菩薩に対しては別教で而二不二が説かれ此縁性縁起と相依性縁起を合わせた「色即是空 空即是色」がそれぞれその種にあたります。
声聞の覚りの種=色即是空(此縁性縁起)--- 仮諦 縁覚の覚りの種=空即是色(相依性縁起)--- 空諦 菩薩の覚りの種=色即是空 空即是色 --- 中諦
これは凡夫の相(仮観)・性(空観)・体(中観)における真理となる「凡夫の三諦」です。
この「五性各別」で問題視しているのは無漏の種子があるか無いかという問題です。
では「無漏の種子」ってなんなのでしょう。
「五性各別」の中の菩薩種姓は、大乗の修行により大菩提を得て大涅槃を証して成仏する者なのですがこれは有余涅槃となります。不定種姓は、小乗の修行から大乗の修行に転向(廻心向大)して成仏する者。無性有情は、修行により人天の果を得ることもあるが成仏はできない者である。
声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓にはそれぞれの証果をもたらす無漏種子があり、不定種姓には声聞・独覚・菩薩のいずれかの無漏種子があるが、無性有情には無漏種子がないとされる。これによれば、成仏できるのは大乗も菩薩の無漏種子を持つ菩薩種姓と不定種姓のみであり、定性二乗と無性有情は成仏できないということになります。
徳一の考えは『法華経』は、この定性二乗と無性有情のような無漏種子がない者であっても成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるといったものでした。
法相宗で説く「五性各別」とは、修道論の観点から声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定種姓・無性有情の五つに分類し、声聞種姓・独覚種姓は、小乗の修行によりそれぞれ阿羅漢果・独覚果を得るのですが、無余涅槃なので灰身滅智して成仏には至らないと考えます。これを「定性二乗」と言うのですが、実はこれこそが『唯識三十頌』の第七頌、
「阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し」
で言う「出世道」にあたります。
この論争のポイントとなるのは「三一権実諍論」とも言われるように三乗の教えと一乗の教え、どっちが権教(仮の教え)でどっちが実教(真実の教え)かといった事なのですが、『法華経』では開三顕一が説かれており、声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯に対して説かれた蔵教・通教・別教の三種の教えは最終的に一仏乗である『法華経』へ集約されます。ですからその一仏乗の『法華経』を実践すれば声聞であれ縁覚であれ菩薩であれ皆、「薬草喩品第五」の「三草二木」の喩えどおりに平等に等しく仏の智慧を授かって成仏の覚りを得ていきます。
天台宗の最澄はこの『法華経』に基づいて「一乗真実三乗方便」を主張しますが、法相宗の徳一は、五性各別(ごしょうかくべつ)の説に基づいて、三乗の教えこそが真実の教えであり『法華経』は方便として説かれた教えであるとする「三乗真実一乗方便」を主張し両者は三乗・一乗のいずれが真かをめぐって真っ向から対立し激しく衝突しました。
自分のさとりだけを求める小乗の心をひるがえして大乗に向かうことを「廻心向大」と言うのですが、天台宗や華厳宗では一切皆成の立場からすべての二乗が廻心して成仏することを主張します。
一方、法相宗では「五姓各別」の立場から二乗に決定性と不定性の二種があり、決定性の二乗は廻心向大することがなく、不定性の二乗は無余涅槃に入る直前に廻心して大乗の菩薩になるとします。
「二乗作仏」という仏教用語をご存知でしょうか。
声聞と縁覚の二乗は成仏出来ないという意味の言葉です。平安時代初頭に「天台宗」の最澄と「法相宗」の徳一の間で五年間にわたって繰り広げられた、仏教史上まれにみる規模の教理的問題における討議がなされ、「三一権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などと言われたりしております。
両者が激しく対立し、重ねて批判の応酬が為された論題の中にこの「二乗作仏」に関する問題があります。
じつは『唯識三十頌』の第七頌に示されている「出世道」もこの「二乗作仏」が深く関係しております。
この阿羅漢にあっては末那識は識無辺で寂滅されます。
滅定は「滅尽定」のことでして、無所有処に入った修行者が無余涅槃として無色界の第四有頂天へ生まれ出ます。ですので滅尽定の境地に入った者にも末那識は寂滅しており存在し得ません。
ですから「阿羅漢と滅定には末那識は無い」となりますが「出世道」とはなにを指しての言葉なのか、ここの解釈がこの『唯識三十頌』の中で最も難解なところとなります。
実は先に紹介しました「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」がこの「出世道」と深く関わってきます。
唯識三十頌の第七頌に
唯識三十頌 https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
(7) 有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる 阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し
とありまして、これは第七末那識について説明されている項目です。
阿羅漢と滅定と出世道には末那識は無いと世親が申しております。
ここで言う「阿羅漢」についてですが、小乗仏教では「仏」について詳しく解き明かされておらず、その時代において修行者が目指したのは「仏の境地」ではなく、全ての煩悩を寂滅させた阿羅漢という境地でした。
上記の内容を日蓮大聖人がどのように釈(解釈)しておられるかを次にご紹介致します。
その前に
麦や鹿野園の「空=仮=中」の三諦の理解はあの池田大作大先生の三諦論と全く同じ解釈となります。
池田先生の三諦論 https://syozou.blog.jp/archives/23428790.html
これはたんなる科学のお話です(実体に即した真理=析空)。
唯識三十頌 その② へ続く https://zawazawa.jp/bison/topic/20
又、次のようにも答えております。
三種涅槃に類通せば、一つに、法身。二つに、般若。三つに、解脱なり。真性の解脱は即ち法身。実慧の解脱は即ち摩訶般若。方便の解脱は即ち解脱なり。ゆえに涅槃経にいわく、「諸佛菩薩は、調伏するところの衆生の処に随うを、名づけて解脱となす」と。もしは煩悩を断じて生死を離るるを解脱となさば、二乗となんぞ異ならん。いま明かさく、大乗には、解脱して五道に生じてその身を示現す。自ずらすでに無縛なれば能く他縛を解す。この三徳は不縦不横にして三目のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大涅槃を成ず。三種の解脱と、三道、三識、三佛性、三般若、三種菩提、三大乗、三佛、三涅槃、三宝も、またかくのごとし。みな不縦不横にして世の伊字のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大解脱と名づく。すなわちこれ、大涅槃の百句の解脱、法華には一切の解脱を明かせるなり。
それに対して智顗は次のように答えています。
答えていわく。別義に、経論にはときにこの説を作すものあり。円通了義の経なる般若と涅槃とは、並びに因果に通ず。ゆえに智度論(大智度論)にいわく、「もしは如法の観佛と般若と涅槃とは、これ三則一相、それ実に異なりあることなし」と。また涅槃の三徳は不縦不横、あに般若は果に至らずというを得んや。
この場合、仏の智慧である般若は覚りに至る為の「因」にあたります。ですから問者は因位にある般若と果位にある涅槃が類通すると混同して乱立するではないかと突っ込んでいる訳ですね。因と果がそのまま=で類通するのはおかしな事だと。
問うていわく。もしは三種の解脱を明かして三種の般若に類通せば、なんぞまた三種の解脱を用って三種の涅槃に類通するを得んや。般若はこれ因の名、涅槃はこれ果の称、これすなわち因と果と混乱の過ちならん。
問者の言い分では、三種の解脱を仏の智慧(般若)に類通するならば、とありますのでその通りやってみましょう。真如の「法」が〝法身〟なのに対し、仏の「智慧」は〝報身〟です。その仏の智慧として説かれたのが『法華経』です。ではその『法華経』を般若(仏の智慧)として三種の解脱と類通させますと面白い結果が得られます。
<仏の智慧(法華経)の三身> 真性の解脱=法身 ---(妙法蓮華経=中) 実慧の解脱=報身 ---( 寿量品 =空) 方便の解脱=応身 ---( 方便品 =仮)
十如是の仮諦・空諦・中諦の三編読みです。
ここまでの内容に対し『維摩経玄疏』では、問者の突っ込みが入ります。
その内容は次のようなものです。
そして『維摩経玄疏』の解説は三種を涅槃に類通させ、真性の解脱を性浄の涅槃とし、実慧の涅槃を円浄の涅槃とし、方便の解脱を方便浄の涅槃とします。その意味するところは、>> 16の内容を組して考えますと、
性浄の涅槃 =八識による解脱 円浄の涅槃 =七識による解脱 方便浄の涅槃=六識による解脱
となる訳ですが、これに>> 18の内容を組しますと次のような類通となります。
性浄の涅槃 =八識による解脱 ---(法身如来) 円浄の涅槃 =七識による解脱 ---(報身如来) 方便浄の涅槃=六識による解脱 ---(応身如来)
更に『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1110(維摩経玄疏)では、この三種解脱を三身に類通させて説明されております。類通とは「共通のものとして類別する」といった意味になります。
三身の法身に類通せば、一つに、法身佛。二つに、報身佛。三つに、応身佛。なり。真性の解脱は即ち是れ法身の毘盧遮那佛。性浄の法身なり。実慧の解脱は即ち是れ報身の盧遮那佛。浄満の法身なり。方便の解脱は即ち是れ応身の釈迦牟尼佛。応化の法身なり。
ここでまず着目て欲しいのが、三種が三つとも〝法身〟と記されている点です。ここでは法身の中の三身、即ち三身如来と三種解脱とを類通させておられる訳です。また、真性を「毘盧遮那佛」とし実慧を「盧遮那佛」としている点も見逃せません。
仏教学の多くの学者さん達は、この毘盧遮那佛と盧遮那佛を同じ仏だと適当なことを申したりしますが、この二仏は明らかに意味が異なります。
毘盧遮那佛=法身 盧遮那佛=報身 釈迦牟尼佛=応身
といった仏の三身となります。仏の三身と言いましてもここでは、「三身の法身に類通せば」と申しておられますので「法」としての「如来の三身」を意味しております。
人の認識は、主観と客観とからなりますが、唯識ではその主観を見分と言い、客観を相分と言います。
この見分と相分とによって「実体」が立ち上がります。
「実体」とは、そのものの本当の姿。実質。正体のことで、認識の対象がもつ性質、状態、作用、関係などの根底に横たわってこれを根拠づけながら、同一性を保って自存するものを人間が言語によって定義づけした〝概念〟になります。
我々人間はこの「概念」で様々なモノを捉えております。
しかし、この人間が言葉で定義づけした概念によるところの「実体」は、そのモノの真実の姿を捉えた内容ではありません。
この概念は人間が勝手に考えて対象のモノにあてはめた言わば人間視点による勝手な人間解釈に過ぎず、対象のモノの本当の姿はそのモノがそのモノとなり得た因果で観ないと本当の姿は見えてはきません。
唯識では一人一宇宙を説きます。
これは人が認識している世界は自身の心が造りがしている事を言った言葉です。『華厳経』で説く、
「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」
といった文句によるところです。
そういった昭和の学者さんの解釈で『唯識』を学ぶとこちらの動画解説のように、
【nTechチャンネル】量子力学で語る唯識
「宇宙は無い」といったおかしな事を胸を張って言いだします。
そのおかしな主張の根幹思想にあるのが横山先生の誤った唯識解釈です。
横山先生もそうですが、こういった主張をされる方々は概ね「客観の混同」に陥っております。
昭和の大先生方が陥った解釈の誤りの最大の原因に、仏教の重要概念である「空」の解釈問題があげられます。
龍樹が『中論』で顕した空理を中村先生が自身の著書『龍樹』で詳しく解説されております。龍樹が説いた空は「相依性縁起」だったとする先生の見解はお見事ではあるものの、それは空の持つ四大意義の第二義をひも解いたに過ぎません。『中論』の更に深層では第三義、第四義を龍樹は説いておりそれは仏教が中国に渡って天台智顗が「析空・体空・法空・非空」として詳しくひも解いております。
その内容についてはこちらで詳しく紹介しております。
「空」の理論
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5
ネットで析空と体空の違いを調べてみてください。初議と第二義であるこの二空の違いですらまともに解説出来ている文献は見当たりません。
如何に昭和の大先生方が空理に暗かったかが分かるかと思います。
以下に続きます。
法介説法『唯識の四分について』
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法蔵の唯識説への対応 石橋真誠 (五重唯識観について)
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法介説法『空と唯識』
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法介説法『唯識の四分について』
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二無心定の成立 福田 琢
http://echo-lab.ddo.jp/libraries/同朋大学/同朋仏教/同朋仏教 30号(1995年7月)/同朋仏教30 004福田 琢「二無心定の成立」.pdf
四分
https://www.yuishiki.org/四分の教え/
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。
https://note.com/hiruandondesu/n/n689adb194a88
●自証分
上記の主観的契機(見分)を更に知る自己認識契機です。相分と見分とを二極化する前の段階であり、識それ自体が見られる側(客観)と見る側(主観)に二極化し、その対立の上に感覚や思考などの様々な認識作用が成立するとされます。
●証自証分
上記の自証分を更に分割したもので、自証分の奥にその働きを確証するもう一つの確証作用を立てます。自己認識を更に知る契機です。証自証分を確証するのは自証分であるとし、無間遡及を回避しています。
『成唯識論』の縁起思想
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
唯識では阿頼耶識縁起、華厳では法界縁起などが説かれていくことになる。
阿頼耶識縁起(転識)
法界縁起(因果俱時の縁起)
【大乗仏教】唯識派 唯識二派
https://note.com/hiruandondesu/n/n1172680a7a41
六世紀の初頭にナーランダー出身の徳慧(グナマティ)は西インドのカーティアワール半島にあるヴァラビーに移り、彼の弟子である安慧(スティラマティ)に至って、この地の仏教学は最盛期を迎えたと言われます。同じ頃、ナーランダーにおいては護法(ダルマパーラ)が活動していましたが、安慧(スティラマティ)と護法(ダルマパーラ)の間には唯識説の解釈に相違がありました。
前者は阿頼耶識が最終的には否定されることで、最高の実在(光り輝く心)が個体において現成し、主観と客観とが分かれない境地へ至れるとします。
後者は阿頼耶識を実在とみなし、それが変化して主観と客観とが生じるという説をたてます。覚りを得ても阿頼耶識そのものが否定されるのではなく、その中にある煩悩の潜在力が根絶されるのみです。阿頼耶識(の種子)が変化したものとしての主観と客観は最終的にも存在することになります。
仏教認識論
https://note.com/hiruandondesu/n/n12419e2866ef
『倶舎論』 客体(見られる側)=モノのあり様
『唯識論』 主体(見る側) =認識のあり様(主観と客観)
唯識はこの主体である見る人の心のあり様を説いた教えです。
『十如是事』では次のように仰せです。
我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり
この「凡夫の三身」を体顕する修行が勤行(法華経の読誦)です。十如是の三編読みで>> 3を体顕します。
勤行の後のお題目の唱題行はその体の「凡夫の三身」と用の「仏の三身」が『南無妙法蓮華経』で一つに融け合い(融合)、境と智が冥合した「境智冥合」を体顕する儀式です。
これによって体の仏と用の仏とが一体となって当体蓮華の真実の仏(本仏)が顕れて凡夫の身のまま即身で仏と成ります。
これを即身成仏と言います。
通相三観の仮一切仮が方便の解脱にあたり、空一切空が実慧の解脱、中一切中が真性の解脱となります。
<円融三観>
①+A+壱=仮一切仮 ---(方便の解脱)
②+B+弐=空一切空 ---(実慧の解脱)
③+C+参=中一切中 ---(真性の解脱)
これは相(仮観)・性(空観)・体(中観)の三つの世界観を阿頼耶識の三因でそれぞれ開いて顕れる世界観です。その世界観が欲界、色界、無色界の三界の世界観として凡夫の一身に顕われます。
方便の解脱=欲界 ---(応身)
実慧の解脱=色界 ---(報身)
真性の解脱=無色界 ---(法身)
これが体の仏である「凡夫の三身」です。
天台智顗が顕した円融三諦、即ち一心三観は次の内容となっております。
<円融三諦>
「仮一切仮」
「空一切空」
「中一切中」
これは蔵教・通教・別教でひも解かれた凡夫の世界観(蔵教)、仏の世界観(通教)、如来の世界観(別教)を別相三観として開き(三乗の教え)、
【別相三観】
<凡夫の世界観>---(三観)
客観(仮観)=有 ---①
主観(空観)=無 ---②
実体(中観)=亦有亦無 ---③
<仏の世界観>---(三諦)
相(仮諦)=色即是空(非有)---A
性(空諦)=空即是色(非無)---B
体(中諦)=色即是空 空即是色(非有非無=空)---C
<如来の世界観>---(三身)
縁因仏性(応身)=曼荼羅本尊(亦有亦無)---壱
了因仏性(報身)=法華経(非有非無)---弐
正因仏性(応身)=南無妙法蓮華経(亦有亦無・非有非無)---参
それを次のように枠組みを超えて再編成した内容となります。
【通相三観】
<円融三観>
①+A+壱=仮一切仮
②+B+弐=空一切空
③+C+参=中一切中
三種の不思議解脱の最後の真性の解脱を説明する前に『諸法実相抄』の
されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。
ではその「妙法蓮華経」の三身とは何かと言いますと、
曼荼羅御本尊 ---応身---仮諦
法華経 ---報身---空諦
南無妙法蓮華経 ---法身---中諦
となります。
これは次に示す三因仏性でもあります。
曼荼羅御本尊 ---縁因仏性
法華経 ---了因仏性
南無妙法蓮華経 ---正因仏性
本来は阿頼耶識に眠っているこの三つの仏性を日蓮大聖人が仏と仏縁を持たない末法の衆生でも阿頼耶識から拾い上げれるように三つの修行の〝因〟として凡夫が認識出来る「色界」に相・性・体として顕して下さったのです。
凡夫の世界(色界)は相・性・体で成り立っている世界ですので。
<凡夫の世界観(仮観)の真理(仮諦)>
相(仮)=色即是空
性(空)=空即是色
体(中)=色即是空 空即是色
空観(天上界)で仏の説法を聞く為には、九次第定とはまた別の行法が行われたと考えられます。
それが三昧という観法です。
『観無量寿経』ではその三昧法が16観法として説かれております。
この二種の瞑想は共に「九次第定」です。蔵教の声聞は色界禅定で実体を空じています(第六意識の止滅)。
通教の縁覚は更に無色界禅定で深層意識(末那識・阿頼耶識)をも寂滅させます。
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この瞑想(九次第定)で空観に意識として入っても仏の説法は聞けません。どうなるかと言いますと、
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8.阿弥陀経(その①)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17786229.html
↑このようになります。
蔵教では「空の理論」や唯識の「覚りの理論」までは説かれておりませんので蔵教の声聞はひたすら寂滅するのみで空観に入る事もありません。転生で天上界へ向かいます。---(生静慮)
通教で龍樹によって「空」が詳しく解き明かされ、解脱を習得した阿羅漢達が仏の空観(天上界)に転生ではなく意識として入っていきます。---(定静慮)
初期仏教で説かれる「九次第定」の色界禅定の初禅では客観を止滅させます。それが「析空」です。
二禅では「体空」によって主観が止滅します。
三禅で「主観と客観」によって起こる〝感情(心の乱れ)〟が起きなくなります(人空)。
そして四禅で仏の空観にはいります。
空理で捉えると次のようになります。
声聞=色即是空(此縁性縁起)--- 析空
縁覚=空即是色(相依性縁起)--- 体空
菩薩=色即是空 空即是色 --- 人空(析体の二空を空じた空)
五姓各別では、声聞の覚りの種を持った「声聞定姓」と縁覚(独覚)の覚りの種を持つ「独覚定姓」、菩薩の覚りの種を持つ「菩薩定姓」といった感じでそれぞれの境涯に即したそれぞれの「覚りの種」の存在が重要視されます。これこそが「種子説」でいうところの〝種〟そのものです。
ではこの三乗の境涯のそれぞれの覚りが何かと言いますと、声聞に対して蔵教で説かれた実体に即した真理 ---(此縁性縁起)、縁覚に対して通教で説かれた実体を空じた真理 ---(相依性縁起)、そして菩薩に対しては別教で而二不二が説かれ此縁性縁起と相依性縁起を合わせた「色即是空 空即是色」がそれぞれその種にあたります。
声聞の覚りの種=色即是空(此縁性縁起)--- 仮諦
縁覚の覚りの種=空即是色(相依性縁起)--- 空諦
菩薩の覚りの種=色即是空 空即是色 --- 中諦
これは凡夫の相(仮観)・性(空観)・体(中観)における真理となる「凡夫の三諦」です。
この「五性各別」で問題視しているのは無漏の種子があるか無いかという問題です。
では「無漏の種子」ってなんなのでしょう。
「五性各別」の中の菩薩種姓は、大乗の修行により大菩提を得て大涅槃を証して成仏する者なのですがこれは有余涅槃となります。不定種姓は、小乗の修行から大乗の修行に転向(廻心向大)して成仏する者。無性有情は、修行により人天の果を得ることもあるが成仏はできない者である。
声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓にはそれぞれの証果をもたらす無漏種子があり、不定種姓には声聞・独覚・菩薩のいずれかの無漏種子があるが、無性有情には無漏種子がないとされる。これによれば、成仏できるのは大乗も菩薩の無漏種子を持つ菩薩種姓と不定種姓のみであり、定性二乗と無性有情は成仏できないということになります。
徳一の考えは『法華経』は、この定性二乗と無性有情のような無漏種子がない者であっても成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるといったものでした。
法相宗で説く「五性各別」とは、修道論の観点から声聞種姓・独覚種姓・菩薩種姓・不定種姓・無性有情の五つに分類し、声聞種姓・独覚種姓は、小乗の修行によりそれぞれ阿羅漢果・独覚果を得るのですが、無余涅槃なので灰身滅智して成仏には至らないと考えます。これを「定性二乗」と言うのですが、実はこれこそが『唯識三十頌』の第七頌、
「阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し」
で言う「出世道」にあたります。
この論争のポイントとなるのは「三一権実諍論」とも言われるように三乗の教えと一乗の教え、どっちが権教(仮の教え)でどっちが実教(真実の教え)かといった事なのですが、『法華経』では開三顕一が説かれており、声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯に対して説かれた蔵教・通教・別教の三種の教えは最終的に一仏乗である『法華経』へ集約されます。ですからその一仏乗の『法華経』を実践すれば声聞であれ縁覚であれ菩薩であれ皆、「薬草喩品第五」の「三草二木」の喩えどおりに平等に等しく仏の智慧を授かって成仏の覚りを得ていきます。
天台宗の最澄はこの『法華経』に基づいて「一乗真実三乗方便」を主張しますが、法相宗の徳一は、五性各別(ごしょうかくべつ)の説に基づいて、三乗の教えこそが真実の教えであり『法華経』は方便として説かれた教えであるとする「三乗真実一乗方便」を主張し両者は三乗・一乗のいずれが真かをめぐって真っ向から対立し激しく衝突しました。
自分のさとりだけを求める小乗の心をひるがえして大乗に向かうことを「廻心向大」と言うのですが、天台宗や華厳宗では一切皆成の立場からすべての二乗が廻心して成仏することを主張します。
一方、法相宗では「五姓各別」の立場から二乗に決定性と不定性の二種があり、決定性の二乗は廻心向大することがなく、不定性の二乗は無余涅槃に入る直前に廻心して大乗の菩薩になるとします。
「二乗作仏」という仏教用語をご存知でしょうか。
声聞と縁覚の二乗は成仏出来ないという意味の言葉です。平安時代初頭に「天台宗」の最澄と「法相宗」の徳一の間で五年間にわたって繰り広げられた、仏教史上まれにみる規模の教理的問題における討議がなされ、「三一権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などと言われたりしております。
両者が激しく対立し、重ねて批判の応酬が為された論題の中にこの「二乗作仏」に関する問題があります。
じつは『唯識三十頌』の第七頌に示されている「出世道」もこの「二乗作仏」が深く関係しております。
この阿羅漢にあっては末那識は識無辺で寂滅されます。
滅定は「滅尽定」のことでして、無所有処に入った修行者が無余涅槃として無色界の第四有頂天へ生まれ出ます。ですので滅尽定の境地に入った者にも末那識は寂滅しており存在し得ません。
ですから「阿羅漢と滅定には末那識は無い」となりますが「出世道」とはなにを指しての言葉なのか、ここの解釈がこの『唯識三十頌』の中で最も難解なところとなります。
実は先に紹介しました「二乗の有余・無余の二つの涅槃の相」がこの「出世道」と深く関わってきます。
唯識三十頌の第七頌に
唯識三十頌
https://yuishiki30.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html
(7)
有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる
阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し
とありまして、これは第七末那識について説明されている項目です。
阿羅漢と滅定と出世道には末那識は無いと世親が申しております。
ここで言う「阿羅漢」についてですが、小乗仏教では「仏」について詳しく解き明かされておらず、その時代において修行者が目指したのは「仏の境地」ではなく、全ての煩悩を寂滅させた阿羅漢という境地でした。
上記の内容を日蓮大聖人がどのように釈(解釈)しておられるかを次にご紹介致します。
その前に
麦や鹿野園の「空=仮=中」の三諦の理解はあの池田大作大先生の三諦論と全く同じ解釈となります。
池田先生の三諦論
https://syozou.blog.jp/archives/23428790.html
これはたんなる科学のお話です(実体に即した真理=析空)。
唯識三十頌 その② へ続く
https://zawazawa.jp/bison/topic/20
又、次のようにも答えております。
三種涅槃に類通せば、一つに、法身。二つに、般若。三つに、解脱なり。真性の解脱は即ち法身。実慧の解脱は即ち摩訶般若。方便の解脱は即ち解脱なり。ゆえに涅槃経にいわく、「諸佛菩薩は、調伏するところの衆生の処に随うを、名づけて解脱となす」と。もしは煩悩を断じて生死を離るるを解脱となさば、二乗となんぞ異ならん。いま明かさく、大乗には、解脱して五道に生じてその身を示現す。自ずらすでに無縛なれば能く他縛を解す。この三徳は不縦不横にして三目のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大涅槃を成ず。三種の解脱と、三道、三識、三佛性、三般若、三種菩提、三大乗、三佛、三涅槃、三宝も、またかくのごとし。みな不縦不横にして世の伊字のごとくなるを秘密蔵と名づけ、大解脱と名づく。すなわちこれ、大涅槃の百句の解脱、法華には一切の解脱を明かせるなり。
それに対して智顗は次のように答えています。
答えていわく。別義に、経論にはときにこの説を作すものあり。円通了義の経なる般若と涅槃とは、並びに因果に通ず。ゆえに智度論(大智度論)にいわく、「もしは如法の観佛と般若と涅槃とは、これ三則一相、それ実に異なりあることなし」と。また涅槃の三徳は不縦不横、あに般若は果に至らずというを得んや。
この場合、仏の智慧である般若は覚りに至る為の「因」にあたります。ですから問者は因位にある般若と果位にある涅槃が類通すると混同して乱立するではないかと突っ込んでいる訳ですね。因と果がそのまま=で類通するのはおかしな事だと。
問うていわく。もしは三種の解脱を明かして三種の般若に類通せば、なんぞまた三種の解脱を用って三種の涅槃に類通するを得んや。般若はこれ因の名、涅槃はこれ果の称、これすなわち因と果と混乱の過ちならん。
問者の言い分では、三種の解脱を仏の智慧(般若)に類通するならば、とありますのでその通りやってみましょう。真如の「法」が〝法身〟なのに対し、仏の「智慧」は〝報身〟です。その仏の智慧として説かれたのが『法華経』です。ではその『法華経』を般若(仏の智慧)として三種の解脱と類通させますと面白い結果が得られます。
<仏の智慧(法華経)の三身>
真性の解脱=法身 ---(妙法蓮華経=中)
実慧の解脱=報身 ---( 寿量品 =空)
方便の解脱=応身 ---( 方便品 =仮)
十如是の仮諦・空諦・中諦の三編読みです。
ここまでの内容に対し『維摩経玄疏』では、問者の突っ込みが入ります。
その内容は次のようなものです。
そして『維摩経玄疏』の解説は三種を涅槃に類通させ、真性の解脱を性浄の涅槃とし、実慧の涅槃を円浄の涅槃とし、方便の解脱を方便浄の涅槃とします。その意味するところは、>> 16の内容を組して考えますと、
性浄の涅槃 =八識による解脱
円浄の涅槃 =七識による解脱
方便浄の涅槃=六識による解脱
となる訳ですが、これに>> 18の内容を組しますと次のような類通となります。
性浄の涅槃 =八識による解脱 ---(法身如来)
円浄の涅槃 =七識による解脱 ---(報身如来)
方便浄の涅槃=六識による解脱 ---(応身如来)
更に『天台宗教聖典Ⅱ』のP.1110(維摩経玄疏)では、この三種解脱を三身に類通させて説明されております。類通とは「共通のものとして類別する」といった意味になります。
三身の法身に類通せば、一つに、法身佛。二つに、報身佛。三つに、応身佛。なり。真性の解脱は即ち是れ法身の毘盧遮那佛。性浄の法身なり。実慧の解脱は即ち是れ報身の盧遮那佛。浄満の法身なり。方便の解脱は即ち是れ応身の釈迦牟尼佛。応化の法身なり。
ここでまず着目て欲しいのが、三種が三つとも〝法身〟と記されている点です。ここでは法身の中の三身、即ち三身如来と三種解脱とを類通させておられる訳です。また、真性を「毘盧遮那佛」とし実慧を「盧遮那佛」としている点も見逃せません。
仏教学の多くの学者さん達は、この毘盧遮那佛と盧遮那佛を同じ仏だと適当なことを申したりしますが、この二仏は明らかに意味が異なります。
毘盧遮那佛=法身
盧遮那佛=報身
釈迦牟尼佛=応身
といった仏の三身となります。仏の三身と言いましてもここでは、「三身の法身に類通せば」と申しておられますので「法」としての「如来の三身」を意味しております。