カオスドラマX

Gray Traveller / 751

751
わったん 2026/10/26 (月) 22:32:49 修正

画像1

「お茶、どうぞ」

コトリ、と小さな音を立ててマグカップが置かれる。
立ち昇った柔らかな湯気が二人の間を薄く隔て、その向こうには、憂鬱にも似た表情を崩さない青年の顔があった。
湯気の向こうで揺れる視線を見つめながら、アトリは静かに席へ腰を下ろす。

「ありがとうございます」

旅を経験していたであろうに、その手首はあまりにも細かった。かつて幾つもの道を歩き、幾つもの景色を越えてきた者の手とは思えないほどに。
彼女はそんな手を、自身の服の裾の中へそっと隠した。
見られたくないのか、それとも、見せる必要がないと思ったのか。
互いに腰を掛け、ようやく二人の間に対話の形が整った。

「……」

「……」

沈黙だけが、温かな陽気の中へ静かに溶けていく。
窓から差し込む光は穏やかだった。
冷たい都市の景色とは対照的な、柔らかな昼の光。
その中で、青年はアトリを見つめ続けていた。

「……私が何者か、お尋ねにならないのですか?」

青年が、陽気の中へ声を紡ぐ。その声音は静かで、どこか慎重だった。
対するアトリは、彼の警戒を解くように、陽射しよりも柔和な笑みを浮かべて首をやや傾げる。

「ユンフの友達、なんですよね」
「それなら、貴方は彼の思い出です」

「……」

一瞬、青年の瞳が僅かに揺れた。
問いに対する答えとしては、あまりにも真っ直ぐだった。けれど、その言葉には奇妙な温度があった。

「ごめんなさい、そう言う事を聞きたかったんじゃないよね」

「いえ……きっと、聞きたかった言葉の一つだと思います」
「……」
「何故、私をご存じなのでしょうか」

その問いに、アトリは一度だけ視線を落とした。
そこには、長い旅路を思い返すような静かな時間が流れる。

「彼の彩った旅路」
「其処に記された軌跡の曲線」
「『安寧の煌めき』」
「あの時、貴方を通じてユンフが都市で撒いた種が芽吹いて」
「その大きな花は、彼にとってとても大きな出来事になったんです」
「大切な、大切な思い出」
「私を起こす為に、その思い出をしずくに変えて」
「……」

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  • 752
    わったん 2026/10/26 (月) 22:33:07 >> 751

    「……そうですか……」

    「それと、会いに来てくれた人が居たんです」
    「流れてきた記憶の最後の方に位置する人で」
    「この世界に戻ってきたもう一人の旅人」
    「その人からも、ユンフの旅と、そして垣間見てきた物語を聞きました」

    「……」

    「……貴方にとって、彼はどんな人?」

    緩やかな風が窓の隙間から入り込む。
    青年の前髪は揺れ、その憂鬱にも等しい瞳の奥底に、
    ある人物とのやり取りが映り込んだ。
    そうして其処で語られた言葉を一つ一つ思い出していくと、
    青年の表情は穏やかなものへと変化していった。

    「……温かな人……」
    「花を愛でる焔を抱えている」
    「利己的で、何処までも一途で」
    「口下手なクリスタルキャラバンです」

    「――……ふふっ……」

    アトリの口から、小さな笑いが零れた。
    その笑いには懐かしさがあった。
    まるで、その人物を知っている者だけが共有できる、ささやかな記憶の温度だった。

    「都市という世界で、何処までも異質で」
    「誰よりも異端でした」
    「ですが、その異なる性質に、誰もが彼の焔に照らされ」
    「心を通わせながらも、自身の成したい欲望(りそう)に沿って」
    「善性を育んでいました」
    「……だからこそ、私は彼が好きです」
    「幻想体という枠組みでありながら、私を『友』と評してくれた事」
    「そしてその枠組みに居ながらも、私一個人はその『友』の為に」
    「貴方の元へと参りました」

    「……別の世界、なんですよね。『都市』という場所は」
    「なら、どうやって私達の世界に?」

    「私を研究対象とする施設の技術力」
    「私という素体、幻想体であるが故の力」
    「都市に歪みを生み出した、地下に流れる河の揺らめき」
    「其処から生じた扉の先」
    「彼が残した『方向標』の軌跡」

    そこまで聞いて、アトリの表情が僅かに曇る。
    遠く離れた世界を繋いだのは、偶然などという言葉では済まされないほど多くのものだった。

  • 753
    わったん 2026/10/26 (月) 22:33:23 >> 751

    「……どうしてそこまで……」

    「……どうしてなんでしょうね……」
    「ただ、ただ……」
    「そうしたいと、思ったからじゃないでしょうか」

    「……」

    「彼を助けたいと願う我々の気持ち」
    「絶望に侵食された世界の中で、嘘偽りの無い希望を与えてくれた彼に」
    「私達はただ、寄り添いたいと思っただけなんです」

    アトリは、その言葉を静かに受け止めていた。
    自分の知らない場所でも、ユンフを覚えている人間がいる。
    それだけで、胸の奥に僅かな灯火が生まれたようだった。

    「……貴方のような人と、ユンフは友達になれたんですね」

    「彼を慕う者は多いです」
    「私はそのうちの一人に過ぎません」
    「他にも彼に応えたいと思う人は多く」
    「都市の世界でも彼の為にと動いている者はいます」

    「……ユンフは……今……」
    「元気に、してる?」

    小さな声は、不安を彩っていた。

    「……」

    「それを、伝えにきたんですよね」
    「気を使わないでください、安寧の煌めきさん」
    「貴方が来たという事は、きっと、彼の身に何かあったってことぐらい」
    「察する事は出来るから」

    「……」
    「彼自身は、まだ健在です」
    「しかし彼の魂は、都市に於いて観測不可能となっています」

    「どういうこと?」

    「『ユンフ』という感情の側、彼を構成する肉体そのものは、生きているでしょう」
    「貴方との思い出を失った彼は、内側に秘めた感情の殻の中が空虚になり」
    「その空虚を埋めるように別の人格が構成されました」
    「貴方の知るユンフさんは、既に都市という世界には居ません」

    「……」

    「今ではその軌跡は穢れ、都市に於いて異質であったその物語は」
    「もう、都市という世界に染まりきった中身の無い過去」
    「彼は、沈んでしまいました」

  • 754
    わったん 2026/10/26 (月) 22:33:39 >> 751

    都市におけるユンフの現状。
    それを受け止めようと幾度も文字を咀嚼する。
    アトリはその快活さを失いながらも、
    決して笑みだけは崩さぬようにと、目を伏せた。
    その笑みを浮かべるアトリを、青年は変わらぬ憂鬱めいた瞳で見つめ、
    何故その笑みを崩さないのか不思議そうにさえした。

    「……また、沈んでしまったんだね……」

    「何故、そのような哀し気な笑みを浮かべるのでしょうか」
    「明るさの象徴ではなく、崩れそうなものを両手で支えるような笑み」

    「……笑っておきたいんだ」
    「私は、まだ、彼が帰ってくるって」
    「信じているから」

    「……」

    「きっと、きっと」
    「ユンフはまだ、戦っているんだと思う」
    「私を護る為に、自分の築き上げたものを放り投げてでも」
    「私の為という、自分の為に」
    「……」

    苦痛にさえ感じる虚勢の笑み。
    だが、其処には確かに信じる者だけが出来る瞳があり、
    絶望に屈しない希望を秘めていた。
    彼女もまた、彼女自身の想いを肯定すべく、
    彼の帰りを待っている。
    そう感じ取った青年は、細めた視線を下ろして目を伏せる。

    「彼、優しいんだ」
    「何処までも利他的で、自分の幸せなんて二の次にして」
    「いつも沈んだ瞳で、平気そうな顔して……」
    「人の為に、自分を内包する」
    「だから、自分の色を持たなくても、人の思い出に絵具を注ぐの」
    「それが、彼だけの持つ焔だったから」

    声が弾む。

    「……」

    「そんな彼がね、私を見て、笑ってくれたんだ」
    「笑ってくれるだけじゃない」
    「色んな、色んな表情を見せてくれるの」

    「……お聞きしても?」

    青年に応えるように、アトリは頷く。
    胸の奥から一枚ずつ絵を取り出すように、言葉を紡いだ。

  • 755
    わったん 2026/10/26 (月) 22:34:02 >> 751

    「……」
    「焚き火の揺らめきに、肩越しのまなざしが紛れていた」
    「剣を研ぐ彼の横顔に、魔法より確かな光を見た」
    「森の中で手を取り合った一瞬が、今も心の地図に刻まれている」

    「……」

    「落葉の絨毯に残された足跡を残して、燥ぐ私を柔和に見つめてくれたり」
    「畔の潮風に揺らめく鳥を見て欲しくて、差した指の先を優しそうに見てくれたり」
    「手紙を急かすモグの気を逸らす為に、具合悪い演技をして全然気づいてもらえてなかったり」
    「お父さんに撫でまわされている私を見て、何処か安堵している瞳を覗かせたり」
    「……私が彼を守った時、何処までも辛そうな顔をしてくれたり」
    「……瘴気の中で、私の名前を呼んでくれたり」
    「……私という存在に、彼の罪を被せてくれたり」
    「……私と一緒に、旅をしたいって、言ってくれた」
    「其処を通じて、彼の利己は思い出を築いていって」
    「憂鬱という深い深い海から、初めて飛びっきりの笑顔を浮かばせた」
    「その全てが、他の誰でもない、私に向けられた表情」
    「私だけの、彼」

    その最後の言葉だけは、ひどく静かだった。
    所有欲ではない。
    誰かに奪われたくないという意味でもない。
    数え切れない人間と出会い、数え切れない思い出を残したユンフという男の中で、たった一人の少女へ向けられたもの。
    その事実を、アトリは何より大切に抱えていた。

    「……」

    「生きる意味なんてない、なんて顔してたんだよ」
    「でも、私と一緒に居る時、それは優しい焔に変わって、色んな思い出を描いていくの」
    「そして、思い出を抱えていきたいっていう願いを持った彼は」
    「いつか来る未来に、私を添えてくれた」
    「利他的だった彼が、願った自分の為の思い出」
    「私は、そんな彼が帰ってこないなんて、思わない」
    「私が哀しい思いをするなんて、絶対に赦さないって思うだろうから」
    「それが、彼の成したい事」
    「方向標の先に立つ、私」

    「……」

    「安寧の煌めきさん」
    「ユンフの現状を伝えるだけだったら、きっと貴方達は来なかったと思います」
    「教えて」
    「私に何が出来るのか」
    「彩りたいの」
    「彼の為の色を」

    「……」
    「……」
    「もう一度、彼を引っ張りあげましょう」
    「貴方の想いで」
    「貴方の詩で」
    「貴方の勇気で」