- Gray Traveller
- 751

「お茶、どうぞ」
コトリ、と小さな音を立ててマグカップが置かれる。
立ち昇った柔らかな湯気が二人の間を薄く隔て、その向こうには、憂鬱にも似た表情を崩さない青年の顔があった。
湯気の向こうで揺れる視線を見つめながら、アトリは静かに席へ腰を下ろす。
「ありがとうございます」
旅を経験していたであろうに、その手首はあまりにも細かった。かつて幾つもの道を歩き、幾つもの景色を越えてきた者の手とは思えないほどに。
彼女はそんな手を、自身の服の裾の中へそっと隠した。
見られたくないのか、それとも、見せる必要がないと思ったのか。
互いに腰を掛け、ようやく二人の間に対話の形が整った。
「……」
「……」
沈黙だけが、温かな陽気の中へ静かに溶けていく。
窓から差し込む光は穏やかだった。
冷たい都市の景色とは対照的な、柔らかな昼の光。
その中で、青年はアトリを見つめ続けていた。
「……私が何者か、お尋ねにならないのですか?」
青年が、陽気の中へ声を紡ぐ。その声音は静かで、どこか慎重だった。
対するアトリは、彼の警戒を解くように、陽射しよりも柔和な笑みを浮かべて首をやや傾げる。
「ユンフの友達、なんですよね」
「それなら、貴方は彼の思い出です」
「……」
一瞬、青年の瞳が僅かに揺れた。
問いに対する答えとしては、あまりにも真っ直ぐだった。けれど、その言葉には奇妙な温度があった。
「ごめんなさい、そう言う事を聞きたかったんじゃないよね」
「いえ……きっと、聞きたかった言葉の一つだと思います」
「……」
「何故、私をご存じなのでしょうか」
その問いに、アトリは一度だけ視線を落とした。
そこには、長い旅路を思い返すような静かな時間が流れる。
「彼の彩った旅路」
「其処に記された軌跡の曲線」
「『安寧の煌めき』」
「あの時、貴方を通じてユンフが都市で撒いた種が芽吹いて」
「その大きな花は、彼にとってとても大きな出来事になったんです」
「大切な、大切な思い出」
「私を起こす為に、その思い出をしずくに変えて」
「……」
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「……そうですか……」
「それと、会いに来てくれた人が居たんです」
「流れてきた記憶の最後の方に位置する人で」
「この世界に戻ってきたもう一人の旅人」
「その人からも、ユンフの旅と、そして垣間見てきた物語を聞きました」
「……」
「……貴方にとって、彼はどんな人?」
緩やかな風が窓の隙間から入り込む。
青年の前髪は揺れ、その憂鬱にも等しい瞳の奥底に、
ある人物とのやり取りが映り込んだ。
そうして其処で語られた言葉を一つ一つ思い出していくと、
青年の表情は穏やかなものへと変化していった。
「……温かな人……」
「花を愛でる焔を抱えている」
「利己的で、何処までも一途で」
「口下手なクリスタルキャラバンです」
「――……ふふっ……」
アトリの口から、小さな笑いが零れた。
その笑いには懐かしさがあった。
まるで、その人物を知っている者だけが共有できる、ささやかな記憶の温度だった。
「都市という世界で、何処までも異質で」
「誰よりも異端でした」
「ですが、その異なる性質に、誰もが彼の焔に照らされ」
「心を通わせながらも、自身の成したい欲望(りそう)に沿って」
「善性を育んでいました」
「……だからこそ、私は彼が好きです」
「幻想体という枠組みでありながら、私を『友』と評してくれた事」
「そしてその枠組みに居ながらも、私一個人はその『友』の為に」
「貴方の元へと参りました」
「……別の世界、なんですよね。『都市』という場所は」
「なら、どうやって私達の世界に?」
「私を研究対象とする施設の技術力」
「私という素体、幻想体であるが故の力」
「都市に歪みを生み出した、地下に流れる河の揺らめき」
「其処から生じた扉の先」
「彼が残した『方向標』の軌跡」
そこまで聞いて、アトリの表情が僅かに曇る。
遠く離れた世界を繋いだのは、偶然などという言葉では済まされないほど多くのものだった。
「……どうしてそこまで……」
「……どうしてなんでしょうね……」
「ただ、ただ……」
「そうしたいと、思ったからじゃないでしょうか」
「……」
「彼を助けたいと願う我々の気持ち」
「絶望に侵食された世界の中で、嘘偽りの無い希望を与えてくれた彼に」
「私達はただ、寄り添いたいと思っただけなんです」
アトリは、その言葉を静かに受け止めていた。
自分の知らない場所でも、ユンフを覚えている人間がいる。
それだけで、胸の奥に僅かな灯火が生まれたようだった。
「……貴方のような人と、ユンフは友達になれたんですね」
「彼を慕う者は多いです」
「私はそのうちの一人に過ぎません」
「他にも彼に応えたいと思う人は多く」
「都市の世界でも彼の為にと動いている者はいます」
「……ユンフは……今……」
「元気に、してる?」
小さな声は、不安を彩っていた。
「……」
「それを、伝えにきたんですよね」
「気を使わないでください、安寧の煌めきさん」
「貴方が来たという事は、きっと、彼の身に何かあったってことぐらい」
「察する事は出来るから」
「……」
「彼自身は、まだ健在です」
「しかし彼の魂は、都市に於いて観測不可能となっています」
「どういうこと?」
「『ユンフ』という感情の側、彼を構成する肉体そのものは、生きているでしょう」
「貴方との思い出を失った彼は、内側に秘めた感情の殻の中が空虚になり」
「その空虚を埋めるように別の人格が構成されました」
「貴方の知るユンフさんは、既に都市という世界には居ません」
「……」
「今ではその軌跡は穢れ、都市に於いて異質であったその物語は」
「もう、都市という世界に染まりきった中身の無い過去」
「彼は、沈んでしまいました」
都市におけるユンフの現状。
それを受け止めようと幾度も文字を咀嚼する。
アトリはその快活さを失いながらも、
決して笑みだけは崩さぬようにと、目を伏せた。
その笑みを浮かべるアトリを、青年は変わらぬ憂鬱めいた瞳で見つめ、
何故その笑みを崩さないのか不思議そうにさえした。
「……また、沈んでしまったんだね……」
「何故、そのような哀し気な笑みを浮かべるのでしょうか」
「明るさの象徴ではなく、崩れそうなものを両手で支えるような笑み」
「……笑っておきたいんだ」
「私は、まだ、彼が帰ってくるって」
「信じているから」
「……」
「きっと、きっと」
「ユンフはまだ、戦っているんだと思う」
「私を護る為に、自分の築き上げたものを放り投げてでも」
「私の為という、自分の為に」
「……」
苦痛にさえ感じる虚勢の笑み。
だが、其処には確かに信じる者だけが出来る瞳があり、
絶望に屈しない希望を秘めていた。
彼女もまた、彼女自身の想いを肯定すべく、
彼の帰りを待っている。
そう感じ取った青年は、細めた視線を下ろして目を伏せる。
「彼、優しいんだ」
「何処までも利他的で、自分の幸せなんて二の次にして」
「いつも沈んだ瞳で、平気そうな顔して……」
「人の為に、自分を内包する」
「だから、自分の色を持たなくても、人の思い出に絵具を注ぐの」
「それが、彼だけの持つ焔だったから」
声が弾む。
「……」
「そんな彼がね、私を見て、笑ってくれたんだ」
「笑ってくれるだけじゃない」
「色んな、色んな表情を見せてくれるの」
「……お聞きしても?」
青年に応えるように、アトリは頷く。
胸の奥から一枚ずつ絵を取り出すように、言葉を紡いだ。
「……」
「焚き火の揺らめきに、肩越しのまなざしが紛れていた」
「剣を研ぐ彼の横顔に、魔法より確かな光を見た」
「森の中で手を取り合った一瞬が、今も心の地図に刻まれている」
「……」
「落葉の絨毯に残された足跡を残して、燥ぐ私を柔和に見つめてくれたり」
「畔の潮風に揺らめく鳥を見て欲しくて、差した指の先を優しそうに見てくれたり」
「手紙を急かすモグの気を逸らす為に、具合悪い演技をして全然気づいてもらえてなかったり」
「お父さんに撫でまわされている私を見て、何処か安堵している瞳を覗かせたり」
「……私が彼を守った時、何処までも辛そうな顔をしてくれたり」
「……瘴気の中で、私の名前を呼んでくれたり」
「……私という存在に、彼の罪を被せてくれたり」
「……私と一緒に、旅をしたいって、言ってくれた」
「其処を通じて、彼の利己は思い出を築いていって」
「憂鬱という深い深い海から、初めて飛びっきりの笑顔を浮かばせた」
「その全てが、他の誰でもない、私に向けられた表情」
「私だけの、彼」
その最後の言葉だけは、ひどく静かだった。
所有欲ではない。
誰かに奪われたくないという意味でもない。
数え切れない人間と出会い、数え切れない思い出を残したユンフという男の中で、たった一人の少女へ向けられたもの。
その事実を、アトリは何より大切に抱えていた。
「……」
「生きる意味なんてない、なんて顔してたんだよ」
「でも、私と一緒に居る時、それは優しい焔に変わって、色んな思い出を描いていくの」
「そして、思い出を抱えていきたいっていう願いを持った彼は」
「いつか来る未来に、私を添えてくれた」
「利他的だった彼が、願った自分の為の思い出」
「私は、そんな彼が帰ってこないなんて、思わない」
「私が哀しい思いをするなんて、絶対に赦さないって思うだろうから」
「それが、彼の成したい事」
「方向標の先に立つ、私」
「……」
「安寧の煌めきさん」
「ユンフの現状を伝えるだけだったら、きっと貴方達は来なかったと思います」
「教えて」
「私に何が出来るのか」
「彩りたいの」
「彼の為の色を」
「……」
「……」
「もう一度、彼を引っ張りあげましょう」
「貴方の想いで」
「貴方の詩で」
「貴方の勇気で」