1789年に即位したフェルナンド6世は、反君主主義的思想に対して厳しい姿勢を示した。精神防壁法に代表される異端・無神論・共和主義思想の出版・所持・教授を禁ずる法の発布、大学の哲学部・政治学部における「君主制度と神の調和性」の教育強化など、思想に関する政策を多く生み出した。しかし晩年においてアメリカ地域における共和思想の流入や精神防壁政策が先住エリート層やクリオージョ(植民地白人貴族)知識人層などの反発を招き、アルゼンチン(1810年頃)やウルグアイ(同様)など南アメリカ地域では多くの国の独立を許すことになるなど大規模な領土喪失を経験したため、後世にて言論統制・思想弾圧と合わせて批判されることとなる。
1820年に病死したフェルナンド6世に変わりカルロス4世が即位した。カルロス4世は、前代フェルナンド6世の厳格統制体制に一定の限界を見出し、秩序を保ちつつ知識・経済・社会の開放に取り組み「帝国リベラル秩序(Orden Imperial Liberal)」と呼ばれる新時代を開いた。1839年に大文化調和勅令を発布し本国・副王領を問わず、教育における地域文化・言語の尊重を公式に認可したことで、ナワトル語での神学講義、クレオール文学の出版許可が可能になった。カルロス4世は芸術保護に熱心だったことで知られ、ガラスが多様されたグラナダのヴェステルマルク王立植物園が造営されるなど建築・絵画分野は大きく発展を遂げた。
1847年にカスティーリャ北部にて伝統貴族らによる反乱が勃発したものの、この時期に再整備が進められた近代的な国軍が3週間で鎮圧を達成した。クリオージョによる極東進出が進み、1857年にインドネシアの小スンダ諸島獲得を目指して侵攻し(小スンダ戦争)、1854年にイランの国内混乱に乗じて侵攻しホルモズガーンとブーシェフルを割譲させた(スペイン・イラン戦争)。
1859年にカルロス4世が崩御した後、早死した長男に代わり次男がフェリペ5世として即位した。イギリスにて発生した産業革命をいち早く取り入れ全国で工業化を奨励した。工業州整備令によりヌエバ・エスパーニャ副王領のグアナフアトやモンテレイは帝国機関製造の中心地となり、今日における複合工業地帯を形成した。また、帝国横断鉄道法が制定されアメリカ大陸鉄道やイベリア鉄道などの敷設が進めたり、各地に技術学校を設置するなど工業化に邁進した。対外政策においては、アジアでの中国王朝衰退を受けて1871年に澳門を99年間租借した(西清通商友好条約)したのみで拡張は小さく留められた。