帝国史(スペイン史) wiki
1516年にスペイン王位にカール5世が即位するとハプスブルク家によるスペイン統治の時代が始まった。ナスル朝滅亡と時を同じくしてスペイン女王イザベル1世は「大洋の向こう側」の探索を積極的に支援し新大陸の発見・征服を開始した。またナポリやネーデルラントなど各地に領地を獲得しスペインの黄金時代を築いた。 1670年に後継者問題が懸念されていたカルロス2世と王妃との間にトラウゴット(のちのフェリペ4世)が生まれ、継承権問題が回避された。 1700年にカルロス2世が逝去すると、フェリペ4世がスペイン王に即位し帝国領であったメキシコシティやリマ、サンティアゴなどに帝国大学を設立するなど改革を進めた。更にトラウゴットは、アステシア=ハプスブルク家を創始し今日まで続くアステシア家の基礎を築いた。対外政策として1640年に独立したポルトガル王国へ再侵攻して再び支配下に置いた。 1750年にカルロス3世が即位し亡きフェリペ4世の改革を引き継ぎ、啓蒙専制体制を導入や帝国の官僚制度・徴税・交通網の一新などを進めた。1753年法を制定し、副王領における中央行政官制度を導入して腐敗した在地貴族層の裁量を制限することに成功した。更に帝国議会制度を強化し、マドリードへ各副王領代表を集め帝国の関しての法制度整備に取り掛かった。初の帝国憲章草案「秩序的法と信仰的秩序の原理」が提出されたものの、カルロス3世の治世では制定されることはなかった。経済においては通商院による副王領都市開発が行われ、グアダラハラ、サクラメント、マニラを結ぶ定期運航制度導入による三角貿易の要を形成した。副王領においては資源開発が官庁主導で行われ中南米先住民やクレオールが技術者・管理者として登用された。
1789年に即位したフェルナンド6世は、反君主主義的思想に対して厳しい姿勢を示した。精神防壁法に代表される異端・無神論・共和主義思想の出版・所持・教授を禁ずる法の発布、大学の哲学部・政治学部における「君主制度と神の調和性」の教育強化など、思想に関する政策を多く生み出した。しかし晩年においてアメリカ地域における共和思想の流入や精神防壁政策が先住エリート層やクリオージョ(植民地白人貴族)知識人層などの反発を招き、アルゼンチン(1810年頃)やウルグアイ(同様)など南アメリカ地域では多くの国の独立を許すことになるなど大規模な領土喪失を経験したため、後世にて言論統制・思想弾圧と合わせて批判されることとなる。 1820年に病死したフェルナンド6世に変わりカルロス4世が即位した。カルロス4世は、前代フェルナンド6世の厳格統制体制に一定の限界を見出し、秩序を保ちつつ知識・経済・社会の開放に取り組み「帝国リベラル秩序(Orden Imperial Liberal)」と呼ばれる新時代を開いた。1839年に大文化調和勅令を発布し本国・副王領を問わず、教育における地域文化・言語の尊重を公式に認可したことで、ナワトル語での神学講義、クレオール文学の出版許可が可能になった。カルロス4世は芸術保護に熱心だったことで知られ、ガラスが多様されたグラナダのヴェステルマルク王立植物園が造営されるなど建築・絵画分野は大きく発展を遂げた。 1847年にカスティーリャ北部にて伝統貴族らによる反乱が勃発したものの、この時期に再整備が進められた近代的な国軍が3週間で鎮圧を達成した。クリオージョによる極東進出が進み、1857年にインドネシアの小スンダ諸島獲得を目指して侵攻し(小スンダ戦争)、1854年にイランの国内混乱に乗じて侵攻しホルモズガーンとブーシェフルを割譲させた(スペイン・イラン戦争)。 1859年にカルロス4世が崩御した後、早死した長男に代わり次男がフェリペ5世として即位した。イギリスにて発生した産業革命をいち早く取り入れ全国で工業化を奨励した。工業州整備令によりヌエバ・エスパーニャ副王領のグアナフアトやモンテレイは帝国機関製造の中心地となり、今日における複合工業地帯を形成した。また、帝国横断鉄道法が制定されアメリカ大陸鉄道やイベリア鉄道などの敷設が進めたり、各地に技術学校を設置するなど工業化に邁進した。対外政策においては、アジアでの中国王朝衰退を受けて1871年に澳門を99年間租借した(西清通商友好条約)したのみで拡張は小さく留められた。
1887年にフェリペ5世の長男がカルロス5世として即位した。第一次世界大戦において「剣が交わる時、我らは祈る。神に選ばれた帝国は、神の時を待つ」と宣言し、一貫して中立体制を堅持した。国内において帝国という体制に不満を示す声が上がり始めていたが、晩年のカルロス5世は本格的に対処する前、1921年に崩御した。 1921年に即位したフェルナンド7世は、信仰憲章を制定して事態の収拾に取り掛かるが大衆秩序の動揺は止まることなく1924年の議会において早々にアジアの拠点であったフィリピンを手放すなど失政を重ねた。第二次世界大戦においても中立を貫くが、国内では連合支持と枢軸支持による論争が激化した。更に1944年にはヌエバ・エスパーニャ副王領とグアテマラ総督領との間で武力衝突が発生し国内には緊張が走った。 こうした帝国の危機に対してテクノクラート・工学士官らによる実務改革派が台頭し、帝国宰相府を構築した。1950年の帝国実在化運動を皮切りに帝国を現代国家として変容させるべきとする思想が拡大した。 こうした中、フェルナンド7世は政治への関心を失い、1950年頃から占星を趣味として宮廷にこもりきりになった。時の宰相府は皇帝の機能不全による帝国崩壊を危惧して皇后のイサベル・アナスタシア・フォン・アルコ=ツィンネベルクと結託してフェルナンド7世を事実上退位させ、イサベルが摂政となり帝国の改革に取り組んだ(イサベル・アナスタシアの摂政帝政。1951~1965)。 イサベルは、近代諸国におくれる形で1953年に男女普通選挙制度を整備し、女性の参政権が承認された。更に来の地域別・身分別による官僚制度を廃止。帝国全体で統一的な「帝国行政職制度」を導入し、各地で不満の種を生み出していた官僚層の世襲性・聖職化を排除した。 1965年にフェルナンド7世が病により崩御した後、若干17歳のカルロス6世が即位した。カルロス6世はイサベル皇后の改革を肯定し、1975年まで皇后を摂政として起用した。1960年代初めにかけての皇后摂政期に始まった近代的官僚制度と法体系の改革を受け継ぎ、実質的な立憲君主制体制を推進したが、保守派や伝統を重んじる体制派の説得により完全な立憲君主制とはならず今日まで続く皇帝と政府の二重体制が築かれた。 地方自治を推進し、ヌエバ・エスパーニャ副王領やヌエバ・シチリア副王領、ヌエバ・タラゴナ副王領など広大な地域に対して段階的な自治権拡大政策を実施したり地域言語や文化の復興政策を推進し、民族間の緊張緩和を図った。また、カルロス6世は社会保障制度の拡充に力を入れ、帝国全土の豊富な資源を資金源として医療保険、年金制度の全国的拡充に着手し、福祉国家の基盤を整備した。外交政策は第二次世界大戦以降から変わらずどの陣営にも属さない中立政策を採用し続け、冷戦下において各国とのバランス外交を進めて中立性の維持に努めた。
1977年に摂政を務めたイサベルが死去すると、カルロス6世はこれまでの外交政策を転換し他国との協調を目指し内乱により疲弊しつつあったバルカン諸国に接近し「地中海連邦構想」を進めた。1981年にアリカンテにて条約を締結し、地中海連邦はヨーロッパの経済圏として成立した。しかし、足並みはそろわず1985年には地中海連邦加盟国が立て続けに内戦状態となり、カルロス6世は初期こそ軍派遣を示唆したものの、在留邦人や連邦移民の受け入れのための船団護衛を目的とした限定的な派遣にとどまった。カルロス6世の弟(のちのフェリペ6世)は、これを弱腰と批判して軍はこれに便乗する形でカルロス6世に反発した。地中海連邦内戦(第二次連邦内戦)は帝国に対して多民族国家の欠点を露呈させる形となり、カルロス6世はこれまで行ってきた改革をもってしてもなお、広大な副王領・多民族・多言語・多制度国家である帝国の統治情報の非対称性・意思決定の遅延・公共政策の歪みといった問題が再発する可能性は捨てきれず、統治の新たな手法を模索することとなったがカルロス6世の治世においてそれが実現することはなかった。 1991年にカルロス6世は、持病の悪化を理由に皇帝から退位し、新たに弟(フェリペ6世)が皇帝として選出された。フェリペ6世は「1991年問題」と名付けられた統治の難題に対して、当時急速な発展を見せていたインターネットやAIなど情報産業を用いた国家管理システムの開発により解決を試みた。1995年の帝国情報統合法による帝国全土の情報統計・報告・調査を情報省へ一元化。更に国民一人一人に対してIDカードが配布され、個人情報・社会信用・行政履歴・経済活動データを結び付け管理する「国民登録番号制度」が1997年に開始された。また、制度実験として政策評価・社会モニタリングのためのAI的助言機構の試験導入を大学・研究機関・企業と連携して実施されるようになり、統治にAIを用いる仕組みが急速に形成されていった。 フェリペ6世は初期から中期にかけて旧連邦からの移民を保護し、取り込むべく旧王家の末裔と婚約して支持の獲得を狙った。しかし旧連邦寄りの政策が目立ったことで国内の反移民感情を強め、各地で迫害が激化した。エーギル危機やナバラ紛争などにおいては連邦内戦にて経験を積んだ移民が迫害を嫌って反帝国に転じて、ゲリラ戦闘で帝国軍を苦しめた結果、フェリペ6世はこれまでの方針から一転して旧連邦移民の隔離政策を進め「鮮血帝」と呼ばれるまでに国民感情は悪化した。 2022年にフェリペ6世は唐突に病死し、紆余曲折ありカルロス6世の孫にあたる長女サビーネが17歳で皇帝に即位した(イサベル1世以来約600年ぶりの女王)。
不適切なコンテンツとして通報するには以下の「送信」ボタンを押して下さい。 現在このグループでは通報を匿名で受け付けていません。 管理者グループにはあなたが誰であるかがわかります。
どのように不適切か説明したい場合、メッセージをご記入下さい。空白のままでも通報は送信されます。
通報履歴 で、あなたの通報と対応時のメッセージを確認できます。
1516年にスペイン王位にカール5世が即位するとハプスブルク家によるスペイン統治の時代が始まった。ナスル朝滅亡と時を同じくしてスペイン女王イザベル1世は「大洋の向こう側」の探索を積極的に支援し新大陸の発見・征服を開始した。またナポリやネーデルラントなど各地に領地を獲得しスペインの黄金時代を築いた。
1670年に後継者問題が懸念されていたカルロス2世と王妃との間にトラウゴット(のちのフェリペ4世)が生まれ、継承権問題が回避された。
1700年にカルロス2世が逝去すると、フェリペ4世がスペイン王に即位し帝国領であったメキシコシティやリマ、サンティアゴなどに帝国大学を設立するなど改革を進めた。更にトラウゴットは、アステシア=ハプスブルク家を創始し今日まで続くアステシア家の基礎を築いた。対外政策として1640年に独立したポルトガル王国へ再侵攻して再び支配下に置いた。
1750年にカルロス3世が即位し亡きフェリペ4世の改革を引き継ぎ、啓蒙専制体制を導入や帝国の官僚制度・徴税・交通網の一新などを進めた。1753年法を制定し、副王領における中央行政官制度を導入して腐敗した在地貴族層の裁量を制限することに成功した。更に帝国議会制度を強化し、マドリードへ各副王領代表を集め帝国の関しての法制度整備に取り掛かった。初の帝国憲章草案「秩序的法と信仰的秩序の原理」が提出されたものの、カルロス3世の治世では制定されることはなかった。経済においては通商院による副王領都市開発が行われ、グアダラハラ、サクラメント、マニラを結ぶ定期運航制度導入による三角貿易の要を形成した。副王領においては資源開発が官庁主導で行われ中南米先住民やクレオールが技術者・管理者として登用された。
1789年に即位したフェルナンド6世は、反君主主義的思想に対して厳しい姿勢を示した。精神防壁法に代表される異端・無神論・共和主義思想の出版・所持・教授を禁ずる法の発布、大学の哲学部・政治学部における「君主制度と神の調和性」の教育強化など、思想に関する政策を多く生み出した。しかし晩年においてアメリカ地域における共和思想の流入や精神防壁政策が先住エリート層やクリオージョ(植民地白人貴族)知識人層などの反発を招き、アルゼンチン(1810年頃)やウルグアイ(同様)など南アメリカ地域では多くの国の独立を許すことになるなど大規模な領土喪失を経験したため、後世にて言論統制・思想弾圧と合わせて批判されることとなる。
1820年に病死したフェルナンド6世に変わりカルロス4世が即位した。カルロス4世は、前代フェルナンド6世の厳格統制体制に一定の限界を見出し、秩序を保ちつつ知識・経済・社会の開放に取り組み「帝国リベラル秩序(Orden Imperial Liberal)」と呼ばれる新時代を開いた。1839年に大文化調和勅令を発布し本国・副王領を問わず、教育における地域文化・言語の尊重を公式に認可したことで、ナワトル語での神学講義、クレオール文学の出版許可が可能になった。カルロス4世は芸術保護に熱心だったことで知られ、ガラスが多様されたグラナダのヴェステルマルク王立植物園が造営されるなど建築・絵画分野は大きく発展を遂げた。
1847年にカスティーリャ北部にて伝統貴族らによる反乱が勃発したものの、この時期に再整備が進められた近代的な国軍が3週間で鎮圧を達成した。クリオージョによる極東進出が進み、1857年にインドネシアの小スンダ諸島獲得を目指して侵攻し(小スンダ戦争)、1854年にイランの国内混乱に乗じて侵攻しホルモズガーンとブーシェフルを割譲させた(スペイン・イラン戦争)。
1859年にカルロス4世が崩御した後、早死した長男に代わり次男がフェリペ5世として即位した。イギリスにて発生した産業革命をいち早く取り入れ全国で工業化を奨励した。工業州整備令によりヌエバ・エスパーニャ副王領のグアナフアトやモンテレイは帝国機関製造の中心地となり、今日における複合工業地帯を形成した。また、帝国横断鉄道法が制定されアメリカ大陸鉄道やイベリア鉄道などの敷設が進めたり、各地に技術学校を設置するなど工業化に邁進した。対外政策においては、アジアでの中国王朝衰退を受けて1871年に澳門を99年間租借した(西清通商友好条約)したのみで拡張は小さく留められた。
1887年にフェリペ5世の長男がカルロス5世として即位した。第一次世界大戦において「剣が交わる時、我らは祈る。神に選ばれた帝国は、神の時を待つ」と宣言し、一貫して中立体制を堅持した。国内において帝国という体制に不満を示す声が上がり始めていたが、晩年のカルロス5世は本格的に対処する前、1921年に崩御した。
1921年に即位したフェルナンド7世は、信仰憲章を制定して事態の収拾に取り掛かるが大衆秩序の動揺は止まることなく1924年の議会において早々にアジアの拠点であったフィリピンを手放すなど失政を重ねた。第二次世界大戦においても中立を貫くが、国内では連合支持と枢軸支持による論争が激化した。更に1944年にはヌエバ・エスパーニャ副王領とグアテマラ総督領との間で武力衝突が発生し国内には緊張が走った。
こうした帝国の危機に対してテクノクラート・工学士官らによる実務改革派が台頭し、帝国宰相府を構築した。1950年の帝国実在化運動を皮切りに帝国を現代国家として変容させるべきとする思想が拡大した。
こうした中、フェルナンド7世は政治への関心を失い、1950年頃から占星を趣味として宮廷にこもりきりになった。時の宰相府は皇帝の機能不全による帝国崩壊を危惧して皇后のイサベル・アナスタシア・フォン・アルコ=ツィンネベルクと結託してフェルナンド7世を事実上退位させ、イサベルが摂政となり帝国の改革に取り組んだ(イサベル・アナスタシアの摂政帝政。1951~1965)。
イサベルは、近代諸国におくれる形で1953年に男女普通選挙制度を整備し、女性の参政権が承認された。更に来の地域別・身分別による官僚制度を廃止。帝国全体で統一的な「帝国行政職制度」を導入し、各地で不満の種を生み出していた官僚層の世襲性・聖職化を排除した。
1965年にフェルナンド7世が病により崩御した後、若干17歳のカルロス6世が即位した。カルロス6世はイサベル皇后の改革を肯定し、1975年まで皇后を摂政として起用した。1960年代初めにかけての皇后摂政期に始まった近代的官僚制度と法体系の改革を受け継ぎ、実質的な立憲君主制体制を推進したが、保守派や伝統を重んじる体制派の説得により完全な立憲君主制とはならず今日まで続く皇帝と政府の二重体制が築かれた。
地方自治を推進し、ヌエバ・エスパーニャ副王領やヌエバ・シチリア副王領、ヌエバ・タラゴナ副王領など広大な地域に対して段階的な自治権拡大政策を実施したり地域言語や文化の復興政策を推進し、民族間の緊張緩和を図った。また、カルロス6世は社会保障制度の拡充に力を入れ、帝国全土の豊富な資源を資金源として医療保険、年金制度の全国的拡充に着手し、福祉国家の基盤を整備した。外交政策は第二次世界大戦以降から変わらずどの陣営にも属さない中立政策を採用し続け、冷戦下において各国とのバランス外交を進めて中立性の維持に努めた。
1977年に摂政を務めたイサベルが死去すると、カルロス6世はこれまでの外交政策を転換し他国との協調を目指し内乱により疲弊しつつあったバルカン諸国に接近し「地中海連邦構想」を進めた。1981年にアリカンテにて条約を締結し、地中海連邦はヨーロッパの経済圏として成立した。しかし、足並みはそろわず1985年には地中海連邦加盟国が立て続けに内戦状態となり、カルロス6世は初期こそ軍派遣を示唆したものの、在留邦人や連邦移民の受け入れのための船団護衛を目的とした限定的な派遣にとどまった。カルロス6世の弟(のちのフェリペ6世)は、これを弱腰と批判して軍はこれに便乗する形でカルロス6世に反発した。地中海連邦内戦(第二次連邦内戦)は帝国に対して多民族国家の欠点を露呈させる形となり、カルロス6世はこれまで行ってきた改革をもってしてもなお、広大な副王領・多民族・多言語・多制度国家である帝国の統治情報の非対称性・意思決定の遅延・公共政策の歪みといった問題が再発する可能性は捨てきれず、統治の新たな手法を模索することとなったがカルロス6世の治世においてそれが実現することはなかった。
1991年にカルロス6世は、持病の悪化を理由に皇帝から退位し、新たに弟(フェリペ6世)が皇帝として選出された。フェリペ6世は「1991年問題」と名付けられた統治の難題に対して、当時急速な発展を見せていたインターネットやAIなど情報産業を用いた国家管理システムの開発により解決を試みた。1995年の帝国情報統合法による帝国全土の情報統計・報告・調査を情報省へ一元化。更に国民一人一人に対してIDカードが配布され、個人情報・社会信用・行政履歴・経済活動データを結び付け管理する「国民登録番号制度」が1997年に開始された。また、制度実験として政策評価・社会モニタリングのためのAI的助言機構の試験導入を大学・研究機関・企業と連携して実施されるようになり、統治にAIを用いる仕組みが急速に形成されていった。
フェリペ6世は初期から中期にかけて旧連邦からの移民を保護し、取り込むべく旧王家の末裔と婚約して支持の獲得を狙った。しかし旧連邦寄りの政策が目立ったことで国内の反移民感情を強め、各地で迫害が激化した。エーギル危機やナバラ紛争などにおいては連邦内戦にて経験を積んだ移民が迫害を嫌って反帝国に転じて、ゲリラ戦闘で帝国軍を苦しめた結果、フェリペ6世はこれまでの方針から一転して旧連邦移民の隔離政策を進め「鮮血帝」と呼ばれるまでに国民感情は悪化した。
2022年にフェリペ6世は唐突に病死し、紆余曲折ありカルロス6世の孫にあたる長女サビーネが17歳で皇帝に即位した(イサベル1世以来約600年ぶりの女王)。