1887年にフェリペ5世の長男がカルロス5世として即位した。第一次世界大戦において「剣が交わる時、我らは祈る。神に選ばれた帝国は、神の時を待つ」と宣言し、一貫して中立体制を堅持した。国内において帝国という体制に不満を示す声が上がり始めていたが、晩年のカルロス5世は本格的に対処する前、1921年に崩御した。
1921年に即位したフェルナンド7世は、信仰憲章を制定して事態の収拾に取り掛かるが大衆秩序の動揺は止まることなく1924年の議会において早々にアジアの拠点であったフィリピンを手放すなど失政を重ねた。第二次世界大戦においても中立を貫くが、国内では連合支持と枢軸支持による論争が激化した。更に1944年にはヌエバ・エスパーニャ副王領とグアテマラ総督領との間で武力衝突が発生し国内には緊張が走った。
こうした帝国の危機に対してテクノクラート・工学士官らによる実務改革派が台頭し、帝国宰相府を構築した。1950年の帝国実在化運動を皮切りに帝国を現代国家として変容させるべきとする思想が拡大した。
こうした中、フェルナンド7世は政治への関心を失い、1950年頃から占星を趣味として宮廷にこもりきりになった。時の宰相府は皇帝の機能不全による帝国崩壊を危惧して皇后のイサベル・アナスタシア・フォン・アルコ=ツィンネベルクと結託してフェルナンド7世を事実上退位させ、イサベルが摂政となり帝国の改革に取り組んだ(イサベル・アナスタシアの摂政帝政。1951~1965)。
イサベルは、近代諸国におくれる形で1953年に男女普通選挙制度を整備し、女性の参政権が承認された。更に来の地域別・身分別による官僚制度を廃止。帝国全体で統一的な「帝国行政職制度」を導入し、各地で不満の種を生み出していた官僚層の世襲性・聖職化を排除した。
1965年にフェルナンド7世が病により崩御した後、若干17歳のカルロス6世が即位した。カルロス6世はイサベル皇后の改革を肯定し、1975年まで皇后を摂政として起用した。1960年代初めにかけての皇后摂政期に始まった近代的官僚制度と法体系の改革を受け継ぎ、実質的な立憲君主制体制を推進したが、保守派や伝統を重んじる体制派の説得により完全な立憲君主制とはならず今日まで続く皇帝と政府の二重体制が築かれた。
地方自治を推進し、ヌエバ・エスパーニャ副王領やヌエバ・シチリア副王領、ヌエバ・タラゴナ副王領など広大な地域に対して段階的な自治権拡大政策を実施したり地域言語や文化の復興政策を推進し、民族間の緊張緩和を図った。また、カルロス6世は社会保障制度の拡充に力を入れ、帝国全土の豊富な資源を資金源として医療保険、年金制度の全国的拡充に着手し、福祉国家の基盤を整備した。外交政策は第二次世界大戦以降から変わらずどの陣営にも属さない中立政策を採用し続け、冷戦下において各国とのバランス外交を進めて中立性の維持に努めた。