16章の、何がといってともかくステーションのアミューズメントで殺人ヴァーチャルをさせているといって、みんなでアベニールを叩きにいくところは、今読んでも当時にも、読者も「そうだ、そうだ」と納得するよりは、話がクサくてげんなりする気分になるかもしれない。わたしは、フール・ケア以下槌田艦長らの絡み方のほうが何だかいやらしくて、大人げないと思う。
それはそれとして、この小説当時の1995年という時勢は考えて思い出してみないと、公平でもない。テレビの見すぎとかアニメじゃないとか言われたのが10年は昔だが、より現実に少年の銃乱射事件とビデオゲームの直接関係が明らかにされたり、放送映像の規制論議やらになる〈年の順序〉というのは大まかに把握してはいても正確に因果順で憶えてはいない。
だから、
- 1995年にしては早いか、
- 1995年頃ならまさにその問題の真っ只中か、
- 1995年にしては遅れているか
という目線で一歩引いてみたい。富野由悠季は殺人ヴァーチャルにそれほど怒れる人かというと、当人がガンダムはじめ戦争アニメの筆頭当事者であるし、凄惨でグロテスクなエヴァ的映像につべこべ言えるほどVガンダムやオーラバトラー戦記(92年完結)が健全だったこともなかっただろう。
おおざっぱに映像規制の当時の動きと、世相や放送局に対してアニメ作家各々の態度などまた細かくなるだろうが、わたしは「演出家としてはファンだが無責任な態度はいただけない」ような分裂した感想を点々と思ったあたりだった。そこまでで、今後触れない。
通報 ...
投稿するにはメンバーである必要があります。
上のは流石にあやふやな言い方すぎたので、この際すこし時代的・歴史的概観を補っておこうと思った。わたしは今、富野「小説」を読んでいるところでアニメ史のような関心が深いわけではないがあれば役に立つ。
新書。総論として手引にする。氷川竜介さんの記事のあれこれはわたしは常にお世話になっているが編集監修解説を除いて「著書」は案外手元になかった。
個別話題、わたしは富野論よりこのテーマに興味がある。藤津亮太さんの著書も読んだことがない。
もう数年はほとんどアニメも映画もTVも、ネット動画も観てもいないのに今更アニメの歴史に詳しくなろうとは思わない。昨年までの続きで、殺人または戦争、の話に興味がある。
メディアの暴力性についての批判の経緯などは、評論家や教育家の本は今いい。歴史や心理学的な基盤に遡って詳しいのは、
これは先日挙げたばかりだが、やはり内容が良い。この流れではとくに1995年というのがリアルタイムだ。この本は有名だったらしいが、心理学にも知覚や認知や行動や動物や社会や教育や、実験や比較やというジャンルがこまごまあって書名も知らない。
演出家としては云々は富野ではなくて真下耕一『EAT-MAN 殺しの遺伝子』が念頭にあった。真下監督は文筆家ではないんだ。