ル・グインの作品は、わたしは十数年か前までに集中して読んだことがあって既訳はおおかた既読、英語ではアースシー(ゲド戦記)一連までは触れてる。手元にある。そのあと、ル・グイン自体になんというか苦手意識ができて、側に置かなくなった。
最近になっておもにソード&ソーサリー方面からファンタジーの古典的系譜などを追い返して「1970年代、80年代頃」というあたりまで時代を下ってくると、結局どうしても一部にル・グインの連想をするか、当時の同時代作家の雰囲気を知っておきたくなる。で思い返そうとすると、読んだはずなのに全然思い出せないことがわかり、ル・グイン今後再読してみることには決めた。
ただ今現在それでなくても併読が積みまくって渋滞している最中だから、今は作業場だけ立てておいて本格的にはまた先にするつもり。富野由悠季がそろそろ壁になってきたからそのあとくらい。
ル・グインの邦訳事情は、訳者によって訳の良し悪し(好み)が結構あることは知ってる。英文を読むつもりなら、それも古いペーパーより電子書籍なら新たに買い直したほうが絶対いい。
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『ロカノンの世界』前回、小尾美佐訳。この文庫本の解説(小谷真理)にある、ル・グィンの少女時代のルーツ(本人談)には
文筆の仕事に入って三十代頃に、ロカノン時点でインスパイア元になったのが
こういう書き方をSFでできるんだ!というコードウェイナー・スミスのショックはわかる(1961年)、のは前回書いた。ロード・ダンセイニについても、ダンセイニの初期のペガーナ神話や一連の幻想短編に没頭した気持ちはわかる。スミス自身の創作動機はまたそれともべつなことも言え(心理戦の研究)、ダンセイニも後期の作品(ジョーキンズやミステリ作品)を含めればだいぶ話は違ってくると思う。それを言ってル・グィンがダンセイニやスミスの徹底コアだとはかぎらない、アメリカ・インディアンの歌はわたしも昨年あらためて親しんだ。今はル・グィンの話。
ル・グインが河合隼雄の読者だとはかぎらないという読み方を今ならする、というわたしの態度のこと。
ル・グインのルーツについての談話はおおよそ『夜の言葉』エッセイ集に載っている。