ル=グウィン作品の再読作業場。
蔵書マップ(作成中)
- 1966 Rocannon's world / ロカノンの世界 ■
- 1966 Planet of exile / 辺境の惑星
- 1967 City of Illusions / 幻影の都市
- 1968 A Wizard of Earthsea / 影との戦い
- 1969 The Left Hand of Darkness / 闇の左手
- 1971 The Tombs of Atuan / こわれた腕環
- 1979(89) The language of the night / 夜の言葉
- 1971 The Lathe of Heaven / 天のろくろ
- 1972 The Farthest Shore / さいはての島へ
- 1972 The Word for World is Forest / 世界の合言葉は森 ←今ここ
- 1974 The Dispossessed / 所有せざる人々
ル・グインの作品は、わたしは十数年か前までに集中して読んだことがあって既訳はおおかた既読、英語ではアースシー(ゲド戦記)一連までは触れてる。手元にある。そのあと、ル・グイン自体になんというか苦手意識ができて、側に置かなくなった。
最近になっておもにソード&ソーサリー方面からファンタジーの古典的系譜などを追い返して「1970年代、80年代頃」というあたりまで時代を下ってくると、結局どうしても一部にル・グインの連想をするか、当時の同時代作家の雰囲気を知っておきたくなる。で思い返そうとすると、読んだはずなのに全然思い出せないことがわかり、ル・グイン今後再読してみることには決めた。
ただ今現在それでなくても併読が積みまくって渋滞している最中だから、今は作業場だけ立てておいて本格的にはまた先にするつもり。富野由悠季がそろそろ壁になってきたからそのあとくらい。
ル・グインの邦訳事情は、訳者によって訳の良し悪し(好み)が結構あることは知ってる。英文を読むつもりなら、それも古いペーパーより電子書籍なら新たに買い直したほうが絶対いい。
『ロカノンの世界』前回、小尾美佐訳。この文庫本の解説(小谷真理)にある、ル・グィンの少女時代のルーツ(本人談)には
文筆の仕事に入って三十代頃に、ロカノン時点でインスパイア元になったのが
こういう書き方をSFでできるんだ!というコードウェイナー・スミスのショックはわかる(1961年)、のは前回書いた。ロード・ダンセイニについても、ダンセイニの初期のペガーナ神話や一連の幻想短編に没頭した気持ちはわかる。スミス自身の創作動機はまたそれともべつなことも言え(心理戦の研究)、ダンセイニも後期の作品(ジョーキンズやミステリ作品)を含めればだいぶ話は違ってくると思う。それを言ってル・グィンがダンセイニやスミスの徹底コアだとはかぎらない、アメリカ・インディアンの歌はわたしも昨年あらためて親しんだ。今はル・グィンの話。
ル・グインが河合隼雄の読者だとはかぎらないという読み方を今ならする、というわたしの態度のこと。
ル・グインのルーツについての談話はおおよそ『夜の言葉』エッセイ集に載っている。
盗心
『辺境の惑星』。この作中の心話能力は前作ロカノンの世界から続く要素だとは、作中に書いてあるがわたしは少し時間が空くとすでにもう前作の内容を忘れた。
SF小説……遠未来のスペオペ中にとくにそれが主題的な扱いや説明なくテレパシーが登場することはよくある。ヴァンスでもディックでもスミスでも……まあ思い出すかぎり誰でもだから、古典的要素としてそれはいい。
テレパシー能力の使い方、断りなく他人の思考を覗き見る=聴心したり、他人の意志に干渉し、支配することについては、作家や、作品によって扱う態度に差がある。当然のこととして、カリスマ、ヒプノティズム、フェミニズムの話題とは接しやすい。
最近読んでいた中では、ヴァズカーなどは何度かやってみたが他人の脳内は反吐が出るほどカオスで辟易するタイプ。滅多にやらないのは自分が疲れるからで、べつに相手の自由を尊重してではない。神林長平のサイファの菊月虹なんかの態度にも似ている。
PAマキリップのサイベルや、たぶんレーデルルも、サイキックでプライバシーを破られると問答無用で激怒する。女性だからではなく個人の尊厳を侵害されたからだ、と、少なくとも作者は言いたいところだろう。マキリップのは先輩作家の、ちょうどル・グインあたりの影響という印象がする。
『辺境の惑星』読了。つぎ『影との戦い』。アースシーのようなシリーズにはこだわらない、執筆年順にいくが、手元に全部あるとはかぎらないし、今は邦訳を読んでいる。
『幻影の都市』をさっそく忘れていた。そちら用意しておく。
文化制限法
ハイニッシュシリーズではおおよそ各世界の土着の現地民との接触が話題で、その際、現地社会の文化的水準を大幅に超えるような科学技術や物品を持ち込むことは法律で禁止されている。これは強いモラルで、建前や空文ではなく、破るのは無法者で外道扱い。
上の心話と、これはハイニッシュシリーズの挙げられる特徴のひとつだろう。それとアンシブルと。
なぜそれが禁止されているのかは、現地の文化を「保護」するのような曖昧な意味だけでなく、たとえば先ほどの『辺境の惑星』でもランディンの人々も強力な武器を持ち込んでいないが、たとえ自らの存亡がかかっていても火砲などを作ろうとしない。現地部族のいつくかが毒矢や毒槍を使っていることがわかってはじめて毒の使用もタブー解禁された。
ガールとの戦いではアガトも矢傷を負う。毒の可能性に恐怖感を覚えるいっぽう、
トバールのような各部族からガールが戦術を学習していることは語られており、仮にランディンから文化が流出すると取り返しのつかないことになる、という。これはハイン人類共通の強力な規範なのだが、本当に妥当で尊ばれることなのかや、ル・グイン作品以外ではどうか等は追々読もう。
ル・グイン発だとはかぎらないけど影響力はあり、後発の世代の作家には無批判に踏襲することがあるのは知っている。
宇宙文明モラルの他の例だと、宇宙に無造作にレプリケーターを播種・拡散してはいけない、のような規範も思い浮かぶ。グレッグ・イーガンを読んでいた頃に見たか。行く所の星系に乱脈に生命播種して周る文明という古典SFも多く、古い世代の作家ほどそういう規範を持たないということもある。
超未来なのに剣や弓矢で戦い、古式ゆかしい攻城戦をするアクション的な面白さの理由はいわずもがな。
最近読んだ中ではジャック・ヴァンスの「奇跡なす者たち」など。……ヴァンスの50~60年代作品あたりに文化制限法のようなモラルはざっと見て思い当たらない。技術退行しているから未来兵器もないのは、今のテーマには当たらない。
これはいい表現だ。メモしておこう。このところ別室でずっとその話をしている気がする。――ということは、わたしの連想上にあったんだ。
「運動習性」という訳語はわたしの感覚だと今いちな響き。富野トピの方でピックアップしてた「行動規範」というと、それも意味曖昧な誤解をまねく気もする。富野文だとそれでなくても何が言いたいのかわからないだろう。「知覚モード」はそれしかない。1960年代の人がどういう言葉遣いに慣れているかは読みながら想像しないとならない。
『幻影の都市』読むかんじ、上で微かにふれたル・グインがダンセイニのリスペクトしているのは前期作品で、後期についてはわからない、……のようなことはないな。べつにダンセイニだけのことではないけど、「嘘」については普通じゃないほど踏み込んでいるだろう。なめてはいけない。
おおざっぱに解くと、『われわれは嘘をついていますよ』と言い張るシングの態度と、『ジョーキンズを信じてはいけない』と念を押して話を始めるダンセイニのジョーキンズもののスタイルの連想、のこと。それは違うかというと、根はおなじだ。しかも遡れば中世や、紀元前からあるとも、去年わたしはそのような興味の一連。
『幻影の都市』山田和子訳、読了。ほぼ一日で読んでるだろう、最近にない熱中度だ。このつぎ、あらためて『影との戦い』。
こんなテンションだと逆に、レビューなんかダラダラ書いてる暇ないよな。わたしは以前読んだ気分を思い出すだけでいっぱいいっぱいだ。今読んでも、〈SFはこうでなくては〉とふつふつと湧くものがある一方、〈こんな頑張らないとSF書いてはいけないのか〉ともう既にげんなりする感じもあり……いま誰向けにそんなことするんだよ。とにかく、このへんのル・グインは激熱。
通読では、これは前回の「シングは心話(テレパシー)で嘘をつくことができる」というのに、いかにも似ている。人間には、心と心の交感では真実しか伝えられない。
七章「ハヤブサは飛ぶ」のカモメの最期のところは、今読むと他に連想するものがある。わたしは、この三月頃にハイネを読み返していたがその『精霊物語』に引用されている白鳥の乙女アーデルツの話の顛末に、似てるといえば印象が似ている。思い出すようだ。それは古代デンマークとあるけど……男女も逆だけど。とくにそれが直接の発想元だろうということではなくて、こういう型はあるよね、という。
『影との戦い』読了。今これ読んでいるのは2009年の少年文庫版。旧い版とは処々だいぶ変更修正があるようだ、それはアースシー以外の諸々も、新装再刊の機会に修正とたびたび書いてあるから今後もそうだろう……電子で追い直せば最新に近くなると思うが、わたしは次回からは英語の原文にする。このさき、どうせもう一回は周りそうだから、そのときはまた。
この作中の「イフィッシュ島」というのはコロニー落としに使われそうな島の名前だ。そんなことは読者は誰でも思うだろうし、わたしも読み返せばそのつど思っているかもしれない。「タオン風の竪琴」というタオンは、アースシーの地図ではハブナーより北、エンレイド諸島のちょっと東にある島だが、わたしは最近タオンのハヴォル君の名前を見ててなんとなく連想していた。つづき、つぎは『闇の左手』。
『闇の左手』早々からまたこれだ、――お前は『信じろ、信じろ』という。だがなぜ信じる必要があるのか? ――では、『信じるな』とでも言えばいいのか。あるいはほかに?
シフグレソルというのはまだよくわからないが、LとRを区別できないあたり何だか日本人読者には親しみのある星人のようにも思える。
上のアルガーベンの言いぐさは、わたしは今インド古典の物語集『屍鬼二十五話』を隣に開いていて、そのクシャトリヤとヴェーターラがする応答なんかにむしろ似た感じを覚えていて、「狂気の王」というほど狂ってるとも愚かとも感じない。言ってることはわかるわのように思えてしまうな。
ここでは、ダンセイニのジョーキンズものの印象をたびたび蒸し返しているけど、ここでまたダンセイニに戻ってはいつまで経っても話が進まない。とはいうものの、べつに何急いでいるわけでもなし、その気分が昂じてくるのを待ってまた読み返せばいい。
このあたりはやはり隣の富野通読にも連想しそうだ。考え方ではなく、同じ字句が出てくるからだが。光と闇、と言い出せば宮崎駿を連想しそうなくらいの意味で。それは、1980年代や90年代のことで何がどういう経緯を辿っているにせよ年代は憶えている。
18章「氷原の上で」ここにまたまとまった発言があるが、これはまた「エクーメンのスローガンについて」を言っているところで、ここに列べて書き抜きするよりは本文を読み返したほうがいい。邦訳より英語原文でないとややわかりにくいかもしれないくらいだ。
エクーメンの方針についてのことで、それが必ずしも主人公アイの信念だとも、真理だとも作者のル・グインの考えだとも言ってはいないが、ここにメモしておくのは、プラグマティックかどうか、政治的か神秘的か、目的は手段を選ばずか、というワードがどっと列ぶので、余所でまたそれを見たらここを思い返してもよい、等々。
『闇の左手』読了、つぎ『こわれた腕環』
これも日本語訳が難しげ。原文を覗いていないが、faithかな。
ちらちら見ているが、『闇の左手』の印象が新しいうちに『夜の言葉』を先に行ったほうがいいかな……。実のところ、作品年譜の順といっても正確な初出順というわけでなく、いつも怪しいものだし。とはいえ、たとえ作者自身の自作評であっても、それが全てだと思ってるわけではないというのが今わたしだけどね……。「ル・グインによるル・グイン評」というと、それが権威だと思ってしまう人もいるのだ、わたしは、わたしの関心がそうではない。ル・グイン本人にしても、その文を書いてるときと、10年後にもう一度チェックしたときとで言うことが変わっている。その前後関係というかな。
それはそれとして、二、三作別のタイトルを挟むと前に読んだのの細かい諸点はもう忘れてしまうから、だ。順当にいくと『夜の言葉』まで6冊先になる。そう考えれば、そっちを先にしよう。
コスモロジーか。このまえの氷川氏の「世界観主義」よりは響きの良い言葉だな。わたしは使うならそっちのほうがいいが、言えば結局ネタ元がばれそうだ。同じこというのに皆ちがう言い方するのか? これも後で読もう。前に読んでいるのかもしれない。
『こわれた腕環』7章まで。
このあいだ「The Winter Players」(冬物語)のときに、「ル・グインがオマージュ元」のようにはあまり気にしなくていいとは書いたが、続けて読んでいればたしかに似ていると思って無理はない。神殿の巫女のというよりは、男を狩りたててわくわくするところだな……ただ、それも直接のフォロー関係というよりは、両者に共通の祖型というか伝統型のようなものはすぐに思いつくわけだし。
タニス・リーは先行作家のパロディとか古い物語型のリテリングを、むしろ好んで面白がってる人だと思うけど、リーとル・グイン作品のテーマ自体は全然違う、真逆かもしれないくらい性格は違うし。ハイニッシュ・ユニバースみたいな世界構築がリーにできるはずがない。歴史小説の時代考証なんかは苦手で無理なことをやっているようだった。リーのエッセイは、電子版の小説のまえがきに寄せてる文章くらいしか今は読んだことない。
『こわれた腕環』読了。『夜の言葉』を、既に開いているのでそれを続ける。
原題は『アチュアンの墓所』だがなんで邦題になったんだろう。アチュアンが通らなかったのかな。初版はこれ1976年だがその頃まだそんな感じなのか……それをいうと「ゲド戦記」というタイトルからよく言われることだが。日本でも、本作の絶大な影響は今さら言うまでもなく、レビューなんか書くことがねえ。むしろ常識レベルの古典というのは、普及するほどに、現在の世の中本当に読み継がれているのか怪しくなるほどで……わたしは何度でも読み返してよいと思う。ただし、次回はいいかげん原書を読もう。
『夜の言葉』いま6節まで。わたしは一昨年末から昨年前半まで、ヴァンス、ダンセイニ、フリッツ・ライバー、ケネス・モリス……とここに挙がっている名前の作家をちょうど読んだり読み返ししていて、モリス集の『ダフォディルの花』の巻末解説にたしかこの、ル・グインがダンボール入りのエピソードがあり、こういう一連だったか……の大ざっぱなイメージを取り戻したような憶えがあるけど、べつにわたし自身が今ル・グインの信者だからこのような再読をしているわけではない。
このあいだ言っていることとやっていることがすでにちぐはぐじゃないか、なんでル・グインの話を「わたしが信じなければならないのか」、正しいかどうかは問題ではない、など前回のアルガーベンみたいな物わかりの悪さで反抗したくなる。そもそもル・グインに反抗してどうするんだよな……。『あらゆる規範に反抗せよ』というタニス・リーに対しても反抗する、のようだと、もうだいぶ訳がわからなくなり、反逆意思を保ち続けるよりひたすら無力で抑鬱になる。だいたい2025年の日本にいてどこのどいつに共有するような話なのだ、ファンタジー論など、など。
それはともかく、わたしはもう5年くらいか、トールキンを読み返したい気持ちなのに、反面で薄っすらとトールキン敬遠感が覆って手がつかない自覚があって、ここまで戻るならやっぱりトールキンは一回戻っておこう。損とか得は関係ない。「一生に何回周回できるか」を自分でスコアにしてもいいくらいのことだろう、古典なんて……。
まあこういう過程がル・グイン疲れること……作品自体はそうでもないような。にもかかわらず、ゲド戦記通過したらそれ関連書籍をこのたびすでにニ冊積んでる。自殺か。
そういえば、アニメ映画版の「ゲド戦記」の話をこのあいだしていたのに、それはサントラ音楽の話だけでル・グイン原作ということはすっかり忘れていたようだった。それは寺嶋民哉のほうの興味だったからね。
それはC.W.ニコル原作「風を見た少年」のつながりだったのだけど、「ゲド戦記」の音楽は作曲家のキャリアではそれらからの関連の方が強くて、『なんでアースシーがアイリッシュなのか…』のことははっきり言って、ない。それとまたべつに、わたしは「テルーの唄」の詞がまたあまり好きではなく、日本人の詞で誰だったらル・グインも黙らせるだろう……谷山浩子あたりなら文句ないんじゃない?……と思ったらこれ谷山浩子の曲じゃないか! とか、今は何年ぶりだったかわからないが、記憶も変になっていた。
2015年頃を終わりにフォローしていないけど、寺嶋音楽による『カレワラ』というのも今頃興味あるなあ……。また憶えておこう。
交響曲獺祭みたいなものを連想するが、わたしの興味はそういうの。
これも先日、ジョン・ウィリアムズの2枚組ベストを聴いたらジョン・ウィリアムズが日本のガンダム等あれこれの印象の混ぜこぜに聴こえてしまい、(逆に)参るという感覚になっていた。わたしは最近は習慣的に音楽自体を聴かないのだがたまたまこの1年、数えてみれば6人の日本人作曲家によるウィリアムズの何かを聴いており(90-00年代頃)、そんなの言い出せば本当にきりがない。もはや当たり前すぎる、そういうことを「批評」とも言わない。
昨年以前の関心が「ソード&ソーサリー」だったので60-70年代まで来たときにムアコックを開いていて、そのエルリックの序文でムアコックがトールキン他について突っ張らかったことを書いており、読んでいるわたしはでも、そういうエルリックのほうが始まって二、三話ですでにマンネリしているような気持ちだった。いま三巻で停まっている。
そのエルリックに当時のめっているのが訳者の井辻朱美氏で、日本国内のFTでは80-90年代頃のこれで……というようなマッピングを今頃にまた追い直している感じなんだ。ジャンル史を網羅したいわけじゃない。リーなりル・グインなり一人の作家史を通しているほうがその記憶には強くなる。推しがあることが強い。
loyalty
これ言っていることはわかるけど、作中に「忠誠」という言葉は憶えているけど、今ひとつ日本語のそれとそぐわない気がしていた。英語でなんだ? 終章のところで『誠実さの欠けた、』というのに「faithかな」と言ってはいたけど、faithを忠誠と訳しはしないだろう。あれこれいうまえに原文探す気ないのか……。
王に対する忠誠心、私にたいする個人的忠誠心か……。loyalでいいのかな。
『闇の左手』が性についての話だというのは、わたしはむしろすっかり忘れていた。そういえばル・グインはフェミニズム作家だったな。どういう順序で読んでいるのかしらん。でもここのログを読んでも、テレパスとか心話でウソをつくとかの箇所をそのつどピックアップしていると思う。
「異種とのコミュニケーション」みたいなことは、わたしはどうでもいい。平和や共存を唱えたい作家や読者は、いてもいなくてもいいよ。どうせ何とでも馴れ合ってるだろう。
ざっと見たところ、loyalty でいいみたいだ。今、単語が何だったかだけの興味なので、それはそれでよし。
1979年文。現在の中心的な問題は搾取です……
この忌むべき状況の源は
わたしは今こうした文書に対し、その内容自体について批判を加えるような態度でない。まず作家や古典の本文を読み返すことに現在の重点があるのだが、それでも「統合と無欠…」のような言葉を見るだけで(とくに意味もなく)薄ら笑いが口に浮かぶようなアイロニーを含んで眺めてしまうのだった。なんで、という理由もない、反射的・習い性として、皮肉に見ている。
『夜の言葉』(1979)より。ル・グインは『かもめのジョナサン』を挙げるたびに叩いているみたい。この文章のあとはザミャーチンの『われら』に続く。
ここで連想しているのは魔法の使い方について。
夜の言葉(同時代ライブラリー111, 1992版)読了。このエッセイ集には新旧バージョンがある。
次、『天のろくろ』(1971)。ル・グイン作品についてわたしは今、それほどここに書き込んでいるようでもないと思うが、やはり量が厖大化していくのは目に見えているので、今後の方針として作品ごとにトピックを立てていこう。……整理/管理をまめにすればその方がよい。
作業場の体裁を立て直して発進するのは(すでに別の場所で)慣れているのでするとなれば躊躇うことではないし、手を下せば一気にしてしまう。早い。
とはいえ、今これだけでふーーっと息をついてしまうようだぜ。十王子物語も立てて始めておこうか。
『天のろくろ』読了。次は『さいはての島へ』
この「コスモロジー」はもっと昔なら「ヴェルトアンシャウウンク」と言っているところ、今ちょうどエリアーデの宗教学概論(1949)を開いていたところではそれだった。エリアーデは、今でも結局なにかと参照はするし、まだ当分分量は積んでいるんだからそれもトピックを立てて再読するか。
わたしは今、自分ですることには「世界観」とか、ましてや「世界線」のような俗っぽい言葉を使いたくない。俗っぽいと思っている。当時の時代感がわかるという意味で挙げた。
『さいはての島へ』読了。次は、『世界の合言葉は森』