「予言者から得る答えのような有用なものがほしかったのだ。そんな答えはだめだ、ミスタ・アイ。その箱も、その機械も、みんなだめだ。お前の乗りものも、みんなペテンだ、いかさまだ。お前は、信じろ、信じろという、お前の話、お前のメッセージ、みんな信じろという。だがなぜ信じる必要があるのか? 耳をかたむける必要があるのか? かりに天空の星々の中に、怪物どもがうようよと住んでいる八千の世界とやらがあるとしても、それがなんだというのだ? そんなものに用はない。われらは、われらが道を選び、長年それに従ってきたのだ。カルハイドはいま、新紀元、偉大なる新世紀の淵に立っている。われらはわれらが道を行くのみだ」
『闇の左手』早々からまたこれだ、――お前は『信じろ、信じろ』という。だがなぜ信じる必要があるのか? ――では、『信じるな』とでも言えばいいのか。あるいはほかに?
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シフグレソルというのはまだよくわからないが、LとRを区別できないあたり何だか日本人読者には親しみのある星人のようにも思える。
上のアルガーベンの言いぐさは、わたしは今インド古典の物語集『屍鬼二十五話』を隣に開いていて、そのクシャトリヤとヴェーターラがする応答なんかにむしろ似た感じを覚えていて、「狂気の王」というほど狂ってるとも愚かとも感じない。言ってることはわかるわのように思えてしまうな。
ここでは、ダンセイニのジョーキンズものの印象をたびたび蒸し返しているけど、ここでまたダンセイニに戻ってはいつまで経っても話が進まない。とはいうものの、べつに何急いでいるわけでもなし、その気分が昂じてくるのを待ってまた読み返せばいい。
このあたりはやはり隣の富野通読にも連想しそうだ。考え方ではなく、同じ字句が出てくるからだが。光と闇、と言い出せば宮崎駿を連想しそうなくらいの意味で。それは、1980年代や90年代のことで何がどういう経緯を辿っているにせよ年代は憶えている。
18章「氷原の上で」ここにまたまとまった発言があるが、これはまた「エクーメンのスローガンについて」を言っているところで、ここに列べて書き抜きするよりは本文を読み返したほうがいい。邦訳より英語原文でないとややわかりにくいかもしれないくらいだ。
エクーメンの方針についてのことで、それが必ずしも主人公アイの信念だとも、真理だとも作者のル・グインの考えだとも言ってはいないが、ここにメモしておくのは、プラグマティックかどうか、政治的か神秘的か、目的は手段を選ばずか、というワードがどっと列ぶので、余所でまたそれを見たらここを思い返してもよい、等々。
『闇の左手』読了、つぎ『こわれた腕環』
これも日本語訳が難しげ。原文を覗いていないが、faithかな。