かとかの記憶

王の心 / 38

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katka_yg 2025/06/20 (金) 00:04:09 修正

第七の物語 完
上で、いつかはやがてもうどうなってもいい王の心にもなるのだろうかとグラン王の心中を思い、リアリズムと脱俗とか、ガールズの今後に思いを馳せまくるじじいの霊魂のことを思ったが、この章の読後になお『ああ、この後どうなるのであろうか』と思えばそれは既に目撃する必要のない歴然としていることのとき、それはもうどうなってもいいくらいだから、完、なのであると言ってみる。

時の観方という流れでは、エイシェトの時点を見ることができた。
「通読上はすごい展開」と上で書いたのは、贖罪問題の提起はされてもそこに新たな物の見方だの言葉の使い方は、オリファーではないが容易に思いつかないと思う。討論では打破できないそこに何十年も停滞することはありうる。これは、ファンタジー小説を書くという機会があったから、ストーリー創作の上でできたことだろう。

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  • 39
    katka_yg 2025/06/20 (金) 00:09:28 修正 >> 38

    さて言うまでもない話をまだ続けると、この七話の仕立て自体は、手塚治虫を挙げなくても、モデルになっていそうな物語の連想はあるだろう。富野小説には、『リーンの翼』中に火山地帯の悪地に住んで孤独に逼塞して年月を暮らした老人が登場したことがある。

    カロッダのことを思うだけで精いっぱいで、最も身近な人々を犠牲にしてきたグラン王の悔恨については、『シーマ・シーマ』ではアーデアス王への同じ糾弾でもあった。その怨讐は単に「罰する」という形で答えは出なかったことだ。

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    katka_yg 2025/06/20 (金) 00:50:08 修正 >> 39

    また細かいところで、この章のうちグラン王は、血が繋がっているらしき少女エイシェトの心持ちにたびたび感心する、命のありようについてよほど高いところを感得していると思うのだがそれを、さすがわが娘よ、と思うことは自分に戒める。

    そう思ってしまえば、傲岸不遜である。

    かつてむごい境遇に追いやってしまった娘に対してその娘を誇ることは、グラン王にできなかったというこれはVガンダムで、ハンゲルグからウッソに対して言った言葉に似ている。あまりに優れた子供の業績をみて「それでこそ息子だ」と言ってしまっては父親が不遜な言い方になってしまうだろう。かといって、そんな育て方をしたことを今更申し訳なかったと謝ってはウッソの立場がないし、ただ、「私の息子はこんなに出来が良い」と素直に言えないハンゲルグにはウッソは寂しさを感じた。
    それはそうだろうし、父と子が対等関係で会話するには、ウッソにもまだ幼さはあると訴えたいものはわかる。小説Vではその場面のあとに、ハンゲルグ・ミューラ・ウッソの家族の時間も短いながらあったが、それはもう取り戻せなかったと思う。小説F91でマイッツァーからセシリーに対しても幾らか似たようなことを言った。カロッゾもだと思うが、ロナ家に居てはこうは育たなかったろうとの。

    エイシェト・アルクアとの夢の邂逅はグラン王が死後にようやく誰かとまともに話をした機会でもあり、冥界や世界についての悩みに誰かがようやく応答してきた時でもあった。笛吹やフール・ケアの時はそれでも遠く別れていく時で、オノレは心痛む別れをして一人帰ってきたのだろうし……。一時の邂逅のあと、グラン王はもう一度同じ感慨に打たれたときは、

    『さすが、わが娘である』

    と躊躇いなく言っている。