「プラクティカルとかプラグマティックとか」というのはオカルトの文脈で気になる人がいると思うが、リーの作品の文中にあるのは珍しいなと思った。オカルトの思想自体は、作中でいつもその話はしている。90年代からは考え方が変わるのか、こういうことは文章に書かずに作品自体の枠に溶け込ませるような実験をしている。
このあいだのソーントーン・サイクルのときに思ったのは日本のFTはこういうところの消化が苦手で上手くいかなかったみたいだ。違う話に逸れてしまい、結局はファンタジーでもなくなってしまう。「マジック・リアリズム」というときも似たような印象を覚え、それは古川小説のときだった……。どっちも、その後の経緯をわたしはまだ追っていない(現在の仕事まで追ってない)。そういうFT史の興味でこれから辿れるのか。
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小説家というのは、朝から晩まで小説やファンタジーのことを考えているだろうから、その実作での実践については人並みならず長時間考えているはずだ。「思ったほど上手くいかなかった」ことはきっとあるだろうし、「それとは別のことを試みている」も、その人なりにいつだってそうだ。「なぜそこに情熱を続けて傾けているのか」には、それがわかれば興味のもてるところ。
ソーントーンの話は、2巻の最初の舟の上でジリオンが唐突にその話をまくし立てるところ。「魔法っていうのはプラグマティックなのよ」のような理屈を言い立てるが、作中で以後もそういう「魔法の書かれ方」はしていない。魔法について喋ったが作中で魔法は使われていなかったという感想だった。古川作品の印象は、作中でマジック・リアリズムについて書いているけど作品自体はマジック・リアリズムはしてない。それは、ちぐはぐだなと思ったことで、べつに誰もがその興味でなければならないとは思ってない。
マジカルな実践か、その語りについて知るには、マジックリアリズム小説よりも魔術そのものを知るほうがいい。「これは魔法の模倣」と思いながらすることに、真摯さや、信じることについても保留がつかないと思えるかな。
その実践と、「商業路線で売らなければならない」という言い分がどのように折り合いがつくのかもわたしにはいまだにわからないこと。タニス姉貴の初期作品はとにかく作者本人が楽しそうだ。