かとかの記憶

神林長平 周回 / 28

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katka_yg 2025/09/17 (水) 13:03:43 修正

この世は自分のために創られたと信ずる権利

「人はだれでも、この世は自分のために創られたと信じる権利がある。創っていると信じる権利があると言い直してもいいかもしれない」
(宇宙探査機 迷惑一番, 1986)

これは神林作品で絶えずくり返すことだが、神林作品以外の世間一般で必ずしもこう言い切るわけではない。「そんな権利はない」という人や、社会のほうは珍しくない。

〈タルムードにあったじゃない。『人はだれでも、この世は自分のために創られたと信ずる権利がある』と。この世はあなたのために創られた幻だって信ずる権利はあるわ。でもあくまでも信じる権利、なのであって、真実はそうじゃないってことよ。なにを信じようとあなたの勝手よ。でも現実は、あなたがいようがいまいがたいしたちがいはないわ〉
(七胴落とし, 1983)

タルムードにあったじゃない――という、麻美が作中ここでなんで唐突にタルムードを言い出すのか、本当にタルムードにあるのかはわからないと前回言っていた。

七胴落とし katkaさんの感想 - 読書メーター
七胴落とし。読み返すたび引っかかるのは、作中、麻美が三日月くんに絡むのに〈タルムードにあったじゃない?…〉と唐突に引用するところです。麻美がタルムードなど読んでいることが奇妙なのか…案外そうでもないのか、ともかく三日月に通じるとは思えません。わたしは、83年頃に神林先生がどこからそれを引いて来たのか不思議なのですが、何かの孫...
読書メーター

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  • 29
    katka_yg 2025/09/17 (水) 13:25:20 修正 >> 28

    狂ってるのは世界だ

    『ほとんど最初の一年は狂っていた』
    「おれは一時間だった。長岡駅を出たときだ。出張で東京からもどってきたところだという記憶はあるんだ」
    『それ以上に、火星の、あいつのことが強く思い出された。おれも似たようなものだ』
    「そのとき、な。どちらが本当か、一時間ほど突っ立ってたよ」
    『おれは入院した。会社はくびだ。保険屋だった。偽りの記憶だ』
    「擬似記憶、疑似体験がTIPに入っているんだ」
    『TIPに入っているのかどうかはわからない。しかしTIPを自覚すると、おれは正気になった。狂ってるのは世界のほうだ
    「冷静だな」
    『狂った世界でも世界は世界だからな。気のもちようでどうにでも生きられる』
    (機械たちの時間, 1987)

     おれは完全に狂っている。
     この世界を基準にすれば、まちがいなくおれは狂っている。だがそれを決めるのは世界じゃない。表か裏か。どっちが表でもいいのだ。両方表にはなれない。正しいのはそれだけだ。どっちが表かを決めるのはおれだ。
     おれは正気だ。世界が狂っている。崩壊しようとしている。正気の証だ。
    (同上)

     タクシーで帰ろうと、三上は外へ出てタクシーを探した。患者待ちのタクシーがいてもよさそうだったが、見つからなかった。
     そのかわり、バスが列をなして待っていた。バス乗り場という標識が立っている。
     まさかな、と思いながら、開いているドアからバスに乗ると、「どちらまで」と運転手が言って、メーターをたおした。
     こりゃあ、大型だなと思い、広い車内の中ほどの席に腰をおろして、狂っているのは世界のほうだと三上は気づいた。
    (過負荷都市, 1988)

     ケイ・ミンはぞっとする。もしそうなったら、自分は狂うかもしれない。そのときは、自分の精神を平静に保つ方法は一つだ。すなわち、狂っているのは自分ではない、世界のほうなのだと、そう思うしかない。でもそれこそは、とケイ・ミンは思う。精神に異常をきたした者がやっていることではないか
    (永久帰還装置, 2001)

     数回、自殺を試みた。実際にたぶん死んだのだとは思うが、気がつくと、十六の春だ。それは、死んだことにはならない。失敗と言うべきだろう。自分を殺すことを試みても、だめだ。
     死ぬべきは、殺すべきは、自分ではなく世界のほうなのだ
    (ラーゼフォン, 2002)

    病的なのは世界のほうだ。おれたちの頭じゃない
    (アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風, 2009)

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    katka_yg 2025/09/17 (水) 13:31:31 修正 >> 29

    「あなたは、この世のすべてが自分のために創られた、とでも思っているの」
    (永久帰還装置)

    傍若無人さ。ちょっとの言い換えで「脳天気」になる。「脳天気と正義」については前回

    だからといって自分や父のことも小さな、どうでもいい存在なのだ、とは感じなかった。自分と自分の属している世界だけは特別だ。他から見ればまったく特殊ではないにしても、そんな客観的な世界とは独立して存在する。世界が自分のために創られたかどうかは別にして、自分の世界というのは確かにあるのだ。頭ではそう考えたこともあった。しかしその事実を肌で感じたのは生まれて初めての経験だった。視座によって世界は変わるとは思っていた。考え方、物の見方だ。しかしいまのように、眼の位置という意味での視点をちょっと上にしただけで、こんなに世界がちがって感じられるという発見はレムエルには驚きだった。
    (猶予の月, 1992)

    これは「実在」について、というべき。「実存」かな。

    「だれでも同じさ。好きでこの世に生まれてきたやつはいない。人間にできるのは、この世が好きになれるか、嫌いなままでおわるか、だ」
    (ルナティカン, 1988)

    切りがないそうした妄想を断ち切るには、わたしは、自分がいまなにを望んでいるのか、すなわちどのような世界に生きたいと望んでいるのか、そうした自分の望み、願い、祈りを基準に生きるしかないだろう。
     ようするに、狂っているのは自分か、それともそれ以外のなにかなのか、そのどちらをわたしは望むのか、ということだ。
    (ぼくらは都市を愛していた, 2012)

  • 31

    というか、ユダヤの宗教の教義の解釈にそんな文章があるとは、わたしには一見して信じがたくて、あるとしたらそれはどういう意味で言われるのかは別に興味はあった。が、何を調べるべきかは定まらなくてその後忘れていた。