狂ってるのは世界だ
『ほとんど最初の一年は狂っていた』
「おれは一時間だった。長岡駅を出たときだ。出張で東京からもどってきたところだという記憶はあるんだ」
『それ以上に、火星の、あいつのことが強く思い出された。おれも似たようなものだ』
「そのとき、な。どちらが本当か、一時間ほど突っ立ってたよ」
『おれは入院した。会社はくびだ。保険屋だった。偽りの記憶だ』
「擬似記憶、疑似体験がTIPに入っているんだ」
『TIPに入っているのかどうかはわからない。しかしTIPを自覚すると、おれは正気になった。狂ってるのは世界のほうだ』
「冷静だな」
『狂った世界でも世界は世界だからな。気のもちようでどうにでも生きられる』
(機械たちの時間, 1987)
おれは完全に狂っている。
この世界を基準にすれば、まちがいなくおれは狂っている。だがそれを決めるのは世界じゃない。表か裏か。どっちが表でもいいのだ。両方表にはなれない。正しいのはそれだけだ。どっちが表かを決めるのはおれだ。
おれは正気だ。世界が狂っている。崩壊しようとしている。正気の証だ。
(同上)
タクシーで帰ろうと、三上は外へ出てタクシーを探した。患者待ちのタクシーがいてもよさそうだったが、見つからなかった。
そのかわり、バスが列をなして待っていた。バス乗り場という標識が立っている。
まさかな、と思いながら、開いているドアからバスに乗ると、「どちらまで」と運転手が言って、メーターをたおした。
こりゃあ、大型だなと思い、広い車内の中ほどの席に腰をおろして、狂っているのは世界のほうだと三上は気づいた。
(過負荷都市, 1988)
ケイ・ミンはぞっとする。もしそうなったら、自分は狂うかもしれない。そのときは、自分の精神を平静に保つ方法は一つだ。すなわち、狂っているのは自分ではない、世界のほうなのだと、そう思うしかない。でもそれこそは、とケイ・ミンは思う。精神に異常をきたした者がやっていることではないか。
(永久帰還装置, 2001)
数回、自殺を試みた。実際にたぶん死んだのだとは思うが、気がつくと、十六の春だ。それは、死んだことにはならない。失敗と言うべきだろう。自分を殺すことを試みても、だめだ。
死ぬべきは、殺すべきは、自分ではなく世界のほうなのだ。
(ラーゼフォン, 2002)
病的なのは世界のほうだ。おれたちの頭じゃない。
(アンブロークン アロー 戦闘妖精・雪風, 2009)
傍若無人さ。ちょっとの言い換えで「脳天気」になる。「脳天気と正義」については前回。
これは「実在」について、というべき。「実存」かな。