神の降臨
「55 シュムラ・ドウの首」(旧)
「35 シュムラ・ドウの首」(新)
前巻、コモン人の信仰態度「理由はない」からの直接展開。
『聖戦士の出現は、正義か悪かの判定の基準であって、聖戦士が荷担しない軍が敗北を喫するのは、バイストン・ウェルの世界での理であった。』につづき、
地上人の言う神話に近い信仰をもって迎えられている伝承なのである。
バイストン・ウェルには、神に対しての信仰はない。
命を産み育てるバイストン・ウェルという世界そのものに対して敬虔な心は持っていても、バイストン・ウェルの人々は、その心を信仰という形に育てなかったのであった。(旧)
その代り、彼等は、世界そのものに対して、本能的な恐れを抱いていた。……と続く。神がないので「神話」とはいわないが、概念は神話相当の「伝承」をもつ、までは本文中の表現にある。
われわれ地上人的な読者からすればバイストン・ウェルのそれを「神話」と呼んでも大して差し支えないが、コモン人にはその語では理解しない、というだけだ。「理由はない、知っている。信じているのだ」というほどの態度を「敬虔」と呼んでも差し支えない、も同じ。
個人としてのコモン人の信念の持ち方はばらつきがある。世界の意思の公正なる体現として映る、これは、地上人にとっての神に近い。「近い」も取り払ってしまえば、
神の降臨である。
に続く。
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そこまで言って「宗教ではない」と言い張るのはいい加減、難しいと思うが、作品執筆当時の空気も感じられなくはない。1986年頃、『リーンの翼』のシリーズは『小説Zガンダム』と同時進行くらいの執筆だと思う。
完全版では、『コモン界には、一神教的な神という概念はなく、百仏、千の仏という概念である森羅万象それぞれの事象に神性が宿ると考えられているのだから、』と、たぶん妥当ではあるけど、新旧を較べれば言い方はずっと弱くなっている。
『神性が宿る』と『神である』は違う。『神の降臨である。』はとんでもなく強い。
コモンは多神教だから、空飛ぶ聖戦士はその神格の一柱に見えた、という言い方だ。またそれについては、迫水には「八百万の神」も自分の口で説明できなかったよ、というところ。旧版が惜しい。だがリーンの翼を世界の神とまで言い切ってしまうと完全版の後篇に続かなくなってしまうかもしれない。
余談
リーンの翼を神と言い切ってしまうと完全版後篇に続かないというのは、バイストン・ウェルの人々にとっては神のごとき世界の意思の体現者として顕現するには違いないけれども、もう一方では、人に使われる「道具」としての在り方をやめることはないから。
道具または「機械」とまでは言いうるかどうか。これは後でジャコバ・アオンの言い分などを読んで考え合わせてみたい。