旅の盲女のこと
このトピックは直近には前回、水上勉『はなれ瞽女おりん』(1974)についての印象、連想を書き留めるところからだった。旅の途上で雪深い村に逗留している頃、村の老婆がやってきてこのようにいう。原文を引いておく。
六十六部や瞽女さまは、小さくて習いなさった経文を、よくそらんじて、詠みもされ、芸もなされてうらやましい。だすけ、家もない見えぬ眼の、旅のあけくれ。この世の苦労という苦労の、一切をひきうけなされて、み仏さまの代身ごと生きておられまする。その六十六部、瞽女さまの、心美しい旅があればこそ、おららのような者もこのように息災に生きておられまする。人間は千差万別の顔かたち、心かたちをして生きておりまするけれど、み仏は、みなその軀に同じ一つの仏性をあたえられ、うちなる仏に心気づかずして、極道する者は極道をなし、働くものは働きして生きておりまするが、人間世界はみな平等。他人に陽があたる時は、わが身に陰がき、他人に陰くれば、わが身に陽があたるは家の表と裏をみてもわかる道理。けれども、六十六部、瞽女さまだけは、陽があたれば、その陽を他人にあずけられ、年じゅう陰の地を暗い苦を背負うてひたすら旅なさる。これみな、おららの罪業、諸悪にみちた暗い軀の、悪の血をひき吸うて下さるみ仏でなくて何でござりましょう。瞽女さま、ありがとうござります。どうぞ力おとしなく、息災に旅さつづけてくんなまんし。五十子平の婆さまが、これこのようにおまんを仏と思うて手をあわせますぞ、……
おりんは、こんな考え方をそれまでに聞いたことがなく、淋しく物悲しい思いながら、後々までこのときの印象を記憶に留めていた。小説中のエピソードで老女がそう言って拝んだというが、これがとくにこの小説の主題ではない。
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わたしは宇宙説話中の雑想中、「盲目のカテジナについての宇宙伝説」などという他愛ない空想していてその連想から。たまたま、「旅する盲女」だからという理由。
『おりん』は、和田薫作曲の音楽詩劇からの話のつづきで、水上勉作品をたどっているところでも今べつにない。「迫水とカテジナ」を同じ線上で連想する人は現在はそんなにいないはずだから、それなりに「まさか」と思える発想だとは思う。