古代オリエント集(アッカド)
エリアーデのシュメールの章すぐに済んだ。筑摩古典に戻り、アッカド。「エヌマ・エリシュ(天地創造物語)」から。本文は長いので今は解説まで。
この章の訳者は、後藤光一郎・矢島文夫・杉勇。
エヌマ・エリシュ
『宗教学概論』の中で、
こうした季節的な儀礼はいずれも、象徴的なくりかえしに先立っておこなわれる。その若干の例を挙げよう。バビロニア人の場合、新年祭アキートゥ akitu(十二日間続く)の間に、マルドゥーク Marduk 寺院で創造詩篇『エヌマ・エリシュ』Enuma Elish を数回詠唱する。それは口誦呪術とそれに伴う儀礼によって、マルドゥークと海の怪物ティアマトとの闘い、すなわちかのはじめの時におこなわれ、最後に神が勝利を収めて、カオスに終止符をうつ闘いを再現する手段なのである。
(第十一章 聖なる時間と永遠再始の神話/153 宇宙創成の年ごとのくりかえし)
とあったが、寺院でこれを朗誦するのが何の意味のある儀礼なのか、よくわからなかった。その解説はこちらの「エヌマ・エリシュ」解説に詳しい。
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彼らが→神々が→ラハムとラハムが
この導入部について、『このような代名詞からはじまり名詞、固有名詞へという順序は古代オリエントの修辞法』とある。シュメールのときには全然気づかなかったが、面白いのでこれも憶えておこう。
朗誦するわけでもなくて現代語の文章では仰々しくてくどいが、わざと、劇的な雰囲気を演出するのにはおもしろい。
ここでのこれは、必ずしも「面白いから」や「効果」のことではなく、当時の文がそういう定型になっているということだろう。口誦だからもあるが……追って読む。
第Ⅱ粘土板まで。
第Ⅲ粘土板まで。これ、じっくり読んでて、たしかにこのテキスト用の記号だらけの上に、原文の意を留めるためにあえてぎこちなく見えるほど、きっと逐語的な翻訳で、読むために流麗な文章とは言いかねるけど、この長いリピート部があえてタブレットにくり返し書いてあるものが、朗誦するときの感情というかリズムが、ふっと蘇るような、それも掴みかねるような不思議な感覚になる。
今は手元に書き込むことが多いので全体の話がわからなくなるが、つらっと読み流すとかえって何も感じないだろうとここまで読んでいればわかる。シュメール語の音韻的な質がわからないとこの気分的なものはだめか……。「神話のエピソードを知りたい」わけでは今、ない。
Ⅳ71から
呪文(呪詛)について、「心にもないことを言う」との表現は魔術の話として目をひかれる。もっともシュメール語と翻訳の日本語の差がわからなくては、読者としてはひそかに思っているだけで口にできないことだが……。
英訳と対照すると「偽りを発した」という以外の修辞的な意味はないみたいだけど。根も葉もない言いがかりを飛ばす、はわたしの最近の読書や思案の中でもとくに興味のあるところ。
このあとの、「かれ」なのか「彼女」なのか異文があって定まらないなどは、当時にしてもすでに、原文の伝える物語の意味がよく分からなくなっているということだろう。
わたしは楔形文字のことは読めないが原文の音(のイメージ)を辿りたければオンラインで読める。ウィキペディアから頁下部のリンクにある。今これで十分ではないか?
第Ⅳ粘土板まで。
第Ⅴ粘土板まで。
第Ⅵ、Ⅶ粘土板まで。エヌマ・エリシュおわり。このあと『ギルガメシュ叙事詩』は、このまえその矢島訳電子版を購入したのでそちらを読む。イシュタルの冥界下りも併収。
やはり時間がかかったが、後でもう一度、通し読みしよう。今夜はここまで。
全章の通読一回おわり。エリアーデ『世界宗教史』は21-22まで今読んだ。