主体と主観
この「はじめに」の中に、
いわば翻訳者はこの場合編集者でもあり、まあ多かれ少なかれそれらのばらばらな材料から首尾一貫したイメージを浮き上がらせるためには、かなり主体的な再構成をせざるをえない。
いま本文の文脈はあえて切って、最近筑摩世界体系のシュメールの部で、クレイマーについて、
彼の研究上の特色、すなわちシュメール語を読む際にそれの文法の詳細な分析よりはむしろ自身の主観によって理解することが多いという点(これは文学作品を「なめらかに」読むために有効ではあるが)を鋭く批判して、多くの点でクレイマーの解釈とは異なる見解を提出した A. Falkenstein,
(「イナンナの冥界下り」解説から)
わたしは今回、クレイマーの自伝からシュメールの内容を読み返し始めているので言われていることの想像はできるように思う。日本語の文章では自ら「主体的」というか、「自身の主観による」といわれるかでは読者の印象は違うだろう。それも、このジャンルの学者は全員がそれをよくよくわかって言っているに違いない。
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