かとかの記憶

古代オリエント / 14

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ギルガメシュ叙事詩

矢島文夫訳、このたびは上記の電子版。今、読み始め、第一の書板まで。

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    第三の書板まで。

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    katka_yg 2025/10/14 (火) 23:27:09 修正 >> 14

    主体と主観

    この「はじめに」の中に、

    いわば翻訳者はこの場合編集者でもあり、まあ多かれ少なかれそれらのばらばらな材料から首尾一貫したイメージを浮き上がらせるためには、かなり主体的な再構成をせざるをえない。

    いま本文の文脈はあえて切って、最近筑摩世界体系のシュメールの部で、クレイマーについて、

    彼の研究上の特色、すなわちシュメール語を読む際にそれの文法の詳細な分析よりはむしろ自身の主観によって理解することが多いという点(これは文学作品を「なめらかに」読むために有効ではあるが)を鋭く批判して、多くの点でクレイマーの解釈とは異なる見解を提出した A. Falkenstein,
    (「イナンナの冥界下り」解説から)

    わたしは今回、クレイマーの自伝からシュメールの内容を読み返し始めているので言われていることの想像はできるように思う。日本語の文章では自ら「主体的」というか、「自身の主観による」といわれるかでは読者の印象は違うだろう。それも、このジャンルの学者は全員がそれをよくよくわかって言っているに違いない。

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    第六の書板まで。

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    第十の書板まで。

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    ギルガメシュ叙事詩終わり。本書の解説の内容はこのたび、わたしは既に再三くり返しの内容になっているのでざっと読む。

    叙事詩自体の感想といえば、このストーリーを現代に知らない人はいない……一般教養としては、大体知っているだろう。わたしはこれがどんな場面で朗誦なり、演じられたものかの想像をする。それといつも思うのは、古代には人口に膾炙したという物語が文明の興廃とともに一度は忘れ去られたということの、驚き。それも名を変え遠くは近世まで残存していたとも聞くが。二千年、三千年間の時間の経緯を想像してまた呆然とすることも。それはこの叙事詩について思うときたびたび。今夜これだけ。