『ハリー・ポッター』シリーズを読んだ結果、魔法学校を書き始めた日本のラノベがあるのかは知らない。なくはないだろう。「魔法は学校で習うもの」という不自然でないほどの認識はもともと行き渡ってたかもしれない。わたしは『ゲド戦記』を読んでいてさえ「魔法は学校で教えたくない」のような一定の距離感はある。ダンセイニのラモン・アロンソ(『魔法使いの弟子』)か、バルバヤートとシャイナみたいな内弟子を思い描くほう。
小野不由美の十二国記は、タニス的ではないと思う。わたしは読み返してなくて久しいが……近くにある。まず思い出す印象はバイストン・ウェルみたいなものの方に似ている。キャラクターは憶えていないが、まず世界地図と社会構造が設けられてありその上でシミュレーションする、世界観先行ならその族ではない。今の話の流れなら、どっちかというとル・グウィンのコスモロジーの兄弟に思える。
最近『火狩りの王』を読みさしていたけど、こういうものは日本人が日本人を咀嚼してくり返しが進んでいるものだろうと思う。あえて海外FTの影響を云々はいらない。
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リーの世界創作(コスモロジー)
視覚映像文化、日本アニメ史における世界観主義のことについては氷川竜介氏の近著のどれかを読めば説いてある。ここでは小説、日本ではなく海外FTを含めていうとき、ル・グウィンが自分のファンタジー観・文学観について語った『夜の言葉』からコスモロジーという言葉をそれに当てている。
1940年代生まれくらいの同世代ではたとえば、マキリップなどは先輩ル・グウィンのようなお手本にはよく従っていると思う。タニス・リーについては、リーは「文庫本の巻頭に地図がついてないFT作家」という特徴がある。
『昔々、あるところに……』というほどの漠然とした時空間だけを設定しておいて、あとは話の赴くまま、キャラクターの行くところに折々に町や、城や、森や平原がアドリブで生えてくるような書かれ方で、物語のフォーカスが当たっていないその他全域には、誰も見ていなくても世界が広がっているような気はしない。
地上があり、天の星界があり、地下にはドルーヒム・ヴァナーシュタがある以外、地上の国々の歴史や地理関係はない。物語が語られ、アズュラーンが行くところに世界ができていく。
リーの作品でも先日読んでいたThe Storm Lord (Vis 1)などは正直、地図が欲しい。めちゃくちゃ地名が多い。