The Birthgraveが刺激だったせいでしばらくずっとそれの連想を考えているようだが……同じ作者のキャラクターだから作品をまたいでも何かしらの性格は共有か、重ね合わせているのは当然として……80年代までのリーのジュブナイルの少女達に散らばっているものはやはりThe Birthgraveの「私」に凝縮して現れていたようには思える。
what Is, is, what Was, was, but what is To Be, may be otherwise.
続けて、what we believe Is, what we believe Was, and what is To Be will be. ――と、ここまではバルバヤート本人が理論を開陳していることだから良いとしよう。タニス・リーを読まなくても他にも書いてある。ここは、呪術の民俗学的説明ではないので、ここは実践するのが大事。小説だからな。
タニス・リー総合から分割。作品個別トピックで以後扱う。ここまでのメモは、
カーニック・ヴォルク
邦訳 (浅羽莢子)
とくに、有意義な思案や発見などを書き込まなくていい。
本を読みさして別件に行き、一か月以上滞ることがよくあるので、ここには「今どこまで読んだ」という進捗をちょくちょく書き込んでいれば、それでよい。特定の書名を単独トピックにしておくとあとでリンクしたり、編纂しやすいのと、タニス・リー作品の予定はあらかじめものすごく多いことがわかっているから細かく管理したほうがいい。
Part Three - Chapter 14まで。祝祭と劇とぶきみな会食のところ。これはなに祭りだったっけ……。
Spring Fair of the Sun。Arkevでは太陽と月を主祭殿にもっぱら祀っている。
The Birthgraveが刺激だったせいでしばらくずっとそれの連想を考えているようだが……同じ作者のキャラクターだから作品をまたいでも何かしらの性格は共有か、重ね合わせているのは当然として……80年代までのリーのジュブナイルの少女達に散らばっているものはやはりThe Birthgraveの「私」に凝縮して現れていたようには思える。
ここではシャイナと、シャイナだけでなくウォーナにも。それをまたヴォルクにも、バルバヤートにも――と言い出せばなんでも言えてしまえそうではあるから、牽強付会はほどほどにして、「ウォーナにも」はあるね。
ヴォルクの場合は、ヴァズカーじゃないの。他者の意思に及ぼす支配力、カリスマという話題は去年からつづき。ヴォルクには「性欲がない」とはっきり書いてあるので、それだけでも全然違うけどね。
シャイナの年齢(17歳)は文中に書いてあったと思ったが検索しても17とは書いてない。16歳で老アッシュの家に奴隷に買われ、それからおよそ1年過ごしているから17らしい。
ウォーナもついでに、わたしは14か15の印象だったようだが年齢は書いてなかった。わたしの記憶は当てにならん。
タニス・リー作品の主要キャラクターの年齢を一覧にしてやったら面白いのではないかと思い、それは16、17、18歳に集まるだろうがやはり「17歳」というイメージだろう?……
と思ったのだけど、これまたBirthgraveで手が停まる。The Birthgraveの主人公は火山の地下で眠りから目覚めたところから物語が始まるので、最初からすでに正確な年齢は不明。でも読んでいると、行動の端々に「リアル20歳くらい」の若い女の子の感じがちょくちょく見える。それは読んでてもわかったが、作者タニス・リーの中では彼女の年齢設定は幾つと後の方にはっきり指定してあり、それがまた結構重要なストーリー上の伏線に関わるので、年齢ひとつをまたあまり言いたくないのだった。
50年もまえの古典的名作に今更ネタバレなんて言わない……か? というと、たとえ2000年前の作でもそれを触れるとダメージになるような点については今でもあまり言わんね。「ドゥニゼルの死に方」なんかは大っぴらに書いていても誰に痛いほどでもない。そういう物語じゃないから。
前回たまたま、邦訳を隣で参照した箇所の近くだったので気づいたが、浅羽訳はgeniusを「力の源」のように訳していて、普通にここは守護神とか守護霊の意味だと思うけど遠回りにするのはなんでだろうと思った。
1983年に読者にその概念がわかりにくいかな。そんなことはなさそうに思う。ともかく、訳文のことは今いちいち気にしない。わたしはKindleリーダーで辞書開くよりそっちの方が手早かったりするが、この際はあまり役に立っていない。リーだと前回、室住信子訳が気が利いてて面白かった。あっそうか、そう言えばいいんだ(負けた)みたいな。
demonを「妖魔」と訳すものかなあ……他にどう言えとも思わないところだけど。それは、とくに先駆としてまず訳者が決める権利はあるよ、たしかに。「蘆薈」などは言わなくてよいと思う。
これは前回ritualの話だったな。
リーはまたfaithとかtruthがよくあるけど、faithかloyalかというのがこの前、ル・グインの話の最中に一度悩んだ。
こんどル・グインのエッセイ中に
わたしはヒュブリスとインフレーションを一律に考えることをあまり考えなかったようで、この文を見たときに胸にグサッと痛みを感じていた。傲慢だったからのような記事も最近したばかりだったんだ。
Part Three終わり。つづき。
読み始めるとすぐ済むのだけど、ここしばらくタニス・リーを開くタイミングが得られず、開いても数ページ読んでは気が済んでまた止んでしまう。この二年あまり、自覚しててそれがくり返す。
やはり先日のル・グインのエッセイ中(1970年代)で『かもめのジョナサン駄作』という話は読んでいて、わたしはそれはよくわかるのだが、同時にまたこのタニス・リー等を読みつつ、「シャイナの魔法の使い方は駄目」のようには言いたくない。
まずどういう理由かはおいても、リー作品はこれはこうありたい、これがいいのようには思う。"No,"から始めて火を吐くようなシャイナの台詞を読み返せばいいだろう。ここにモラルがないとは言えない。
それと、ル・グインはそこではそう書いていないが「まず文体が気に入らない」と思ってるのが第一、に決まってる。どうせ本を読むなら暗誦するくらい熟読したいものな……ここらへんのリーの文章はまず文体のものだ。それあって、英語読むのが楽しい文章でも、あえてつまらない話をテキストにしたくないな。
これらの話を時代的に振り返るのを何処から読み返せばよいか、わたしは今あまり言えない。わたしの場合コリン・ウィルソンの50-60年代……『アウトサイダー』『オカルト』あたりは一回取り戻しておこうかな。手元にないはず。
かもめのジョナサンなどはわたしには歴史的遺物で、それ自体にどうもこうも思わない。もっとあとで似た話だとパウロ・コエーリョとかな。『アルケミスト』とか……それ今読んでどんな印象かは、憶えていない。
樋口康雄の音楽による「かもめのジョナサン」朗読ドラマ盤というのがあって、それは良いものだった。火の鳥2772よりも前の頃のだ。樋口康雄の音楽は「リーンの翼」からしばらく遡りあれこれ捜していた。すでにだいぶタニス・リーの話ではなくなってきたな。
意思の力の話をしたいわけではない、作品の意図はどこに現れるかだ。シャイナのことは好きになれるだろ。レーデルルみたいな場合は、ある種の読者は嫌おうと思えば嫌える。単純な話を単純に書いたりしませんと言うだけあって、ル・グインはしたたかな作家だとはこのたび思い返した。
(レーデルルは――は、魔法よりもリア充が気になる種類の読者のこと。わたしだ)
17、猫のところ。
ここにたまたま、例の猫=蛇の早い言及がある。
それに続いて猫たちが見上げる、お月様が見下ろす(見つける)という交感があって、
リーが散文から韻文にひょいと踏み変えるタイミング、きっかけが、はっきりそう言わないけど気分がわかるような、ここまで読んでいても生理的に何かわかるみたい。で、猫語。
このまえ、『砂の王』なんかの話をするときにこういう話を混ぜてもよかったんだよな。機会を逸した。『アラビア』のほうの憑依要素はそんなに面白かったかは、どうだったかな。
女の子に蛇が憑依するか、女の子が猫に憑依するかの話だよ。とくにそれ以外の連想じゃない。誰かには分かってほしいものだ。
21
(four, soft, slippery-silk paws and) a furry serpent's head
19まで。気ままに開いて読み返すには良い小説だ。文章が楽しいからで、結末を知ってても楽しみはあまり変わらない。
しばらく短編か、初期の軽いジュブナイルを続けたい気がする……『闇の城』を読みたい気がしているけど、このヴォルクを短いのにずっと保留しているくらいではそろそろ長編を再開したほうがいい。年譜的にも順番ではあるしね。この調子だと三部作はまた長くなるなあ……。
Chapter 20の魔術の場面がこの小説の最大の見せ場と言ってもいいが、この魔術の原理とか方法について、しかじかと説明するのはまた、なんか知ったげに言ってみても、それはそれほど意味のないことだろう。これは実践的な魔術の章だとわたしは先に言っておく。
続けて、what we believe Is, what we believe Was, and what is To Be will be. ――と、ここまではバルバヤート本人が理論を開陳していることだから良いとしよう。タニス・リーを読まなくても他にも書いてある。ここは、呪術の民俗学的説明ではないので、ここは実践するのが大事。小説だからな。
小説家が小説をどう書いているかについて、FTの読者また英文学者は「ここがすごいんです」というだけで、なぜ魔術が発動してるのかのようなことは結局知らない。そもそも、この老魔女と剣の問答において、剣が質問に答えるために剣が言葉を喋リ出していなければ、儀式は始まらない。前のページにもどって、
しかも、It had, fittingly, a bronzy voice. …と。剣が喋らなかった場合のことなどはもう忘れているね。
邦訳はbronzyは「金属的」と書いてある。青銅的、とはいわないから、こういうのは訳せないかな。
この頃の、初期のリー作品はやっぱり書いてて楽しそうだ。本人も夢中で書いているのがユーモアになって伝わるというか。いかにも、お硬い声だったんだよな。重々しくて。
「強情な」もありだ。
作中でバルバヤートがしきりに呟く箴言めいた台詞は、必ずしもいつも意味がわかるわけでも、わかる中でもウィットが効いているわけでもないようだけど、その地口が好きな婆さんなことはよくわかる。動物の譬えが多いことは、やはりそのジャンルの人。
上の青銅のことを昨夜書いていて今ここのところを読み返すと、魔術が効かないような気がする。サークルチェーンが切れたような感じで、"No, "という代わりにやはり剣が強情に元の通り言い張る気がする。意外に難しいのかな。面白くはある。
まあどっちにしてもこれ初期作品なので、理屈をそのまま書いているフシはあるので、前回読メにも『本作では率直に表されていて』とわたしは書いていた。新旧にかかわらず、でもこれは良いものだ。だからもっと未訳作品も捜して読んでおきたいね。真似はしない。
Volkhavaar 読了。この電子は最後のほうにぽつぽつと誤脱字がみられた。読んでて困るほどでないが。
わたしは好きな小説だ、タニス・リーのジュブナイルで一番好きかもしれないと前回、邦訳のときに思ったけど今は「一番」という気でもなくなってきているかな……。好きなのに、たびたび読みさしては2か月も放置していたのはよくなかった。次は、The Storm Lordへ。
育てる愛の何かということについてはしばらく前に他で記事をひとつ書いていた、忘れてはない。