faith
The Winter Players
Indifference kills faith, and lack of faith puts out the torch of God that burns in each of us. 云々。これらにかぎらず、上でも触れたが、faithとかindifferenceは初期の作品には頻出するので一々その箇所を書き留めたりはしない。タニス・リーのファンタジーで魔法の使い方は一貫していて、ジャンルがSFでもそこは変わらないくらい、基本。
タニス・リー魔術の特徴は実践的なことで、プラクティカル・マジックというとこれのことだ。小説作品は架空の創作なのになんで「実践」か? という話はわたしはしない。それには今後もそれを書く気ない。
「物や人の真の名前を知るとそのものを支配する」のような作動原理は、実践魔術に必ずしもいらなくてリー作品にはあまり出ては来ない印象。言葉に対して無関心なわけはないが、呪文や、儀式様式の無意味さについては結構手厳しい批判が入ることはある。伝統やしきたりにはとにかく逆らえ、破れ、というくらい反逆徒だけど、命名や呪文にしても全く使われないわけではない。Birthgraveはそうだし、このあとすぐVolkhavaarなんかにも出てくるはず…。
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とにかく、タニス・リー作品には必ずこれが出てくることと、徹頭徹尾これが後年まで作者のテーマになっているのが「タニス姉貴はガチ」という理由でもある。
実践的だから、という実践的なことに欠点もなくはなくて、欠点はある。何より「実践すると死にます」という話をするんだから無意味に大勢にばら撒くには悪い物語群だ。言えば、「死んでもいい」目的があるときにはリーを読んでいれば捗る。それか死なないか、死んだら自力で生き返る人。
この世に、熱情的に生きられる人は成人のもしも10パーセントくらいだとしたら、「熱情を説き続けること」は残りの90パーセントにとっては望んでも決して報いえない、不毛さの害にもなりかねない。また、熱の人も何の目的や甲斐も得られない日々にこの種の教唆を聴き漁り続けると心を蝕まれる。処方箋としては、そのときにはダンセイニみたいな態度の方がいい、と上記。「信じるな」という語りの徳もファンタジーの方法としてある。本当を説き続けないからといって、嘘じゃない。
小説を読んで癒やしになるとか、力になるとか、そういう読み方を勧めているわけではない。「読書は娯楽だ」と思ってる人にとっても、娯楽として読めない鬱になることがある、のこと。とくに、古典的な共感呪術を基礎にしているものはその理論で効いているはず。その後、80年代末頃を境に創作の方法は変わったらしい。