猫の掲示板です。 猫についてお困りのことなど書き込めます。
憲法第9条・・成り立ちの歴史経緯
日本識者は 核心となるチン玉を言わず 毎度 屁にもならない 乙女のようなグダ話
この平和主義の「憲法第9条」を築いた人物は 米国GHQの軍人だった「マッカサー」が憲法第9条の「発起人」
マッカサーが 軍国主義でイカレポンチの日本を マトモな日本にしたのである
日本は「明治時代」から「軍国主義」になる
なぜ 明治時代から軍国主義になったのか 日本識者共は、その歴史経緯に「無知」
徳川幕府時代 11代徳川家斉・征夷大将軍の頃 徳川幕府は「財政難」に陥る
そのため8代征夷大将軍・徳川吉宗の「孫」で 幕閣の老中だった「松平定信」は 諸藩の大名たちに「質素倹約令」を発令
そのため諸藩の大名たちは「俸禄を削減」されてしまう
この大名(殿様)に 仕官していた武士(藩士)も 俸禄を削減され 年間米俵30表の 夫婦2人の食い扶持しかない 二人扶持 三人扶持に 削減され 生活難に陥り
武士が食い詰め浪人、無宿者に 落ちぶれてしまい
落ちぶれた武士(藩士)たちは「こんな幕府の世より 天皇の世がマシ」とする「尊王攘夷論」が台頭
この大名(殿様)に仕える「武士(藩士)」とは、江戸時代 各地に「剣術の腕を磨く道場」があり
道場で 剣術の修行 剣術の腕前が上がり剣豪となり大名(殿様)に仕える「士官」
つまり大名(殿様)は 他の大名との「戦い」で 剣術が強い武士を仕官させていた
そのため 大名(殿様)が 他の大名と戦う際 武士たちは 鎧・兜を 身に着け 馬に乗り
敵を倒していた つまり武士(藩士)は「敵を倒すのが仕事」
この敵を倒すのが 仕事だった武士たちが 尊王攘夷で 徳川幕府を 倒し
「明治政府」を築く 当然「明治政府の要人」とは「敵を倒すのが仕事の武士」
当然の成り行きで 明治政府の明治時代から「敵を倒す軍国主義」になる
そのため軍国主義で 日清戦争で 清を倒し 勝利
さらに 軍国主義で 日露戦争で帝政ロシアを倒し 勝利
こうして 日本は「世界的な軍国主義大国」になる これを恐れたのが「欧米」で
日本を「軍事的脅威」とする「黄禍論」が起きる
この黄禍論に 反応したのが 26代米国大統領セオドア・ルーズベルトで 軍事的脅威の日本を オレンジ色に塗り「オレンジ計画」を立案 日本を「攻撃目標」にする
そして このセオドアルーズベルト大統領の「親戚」に当たる フランクリン・ルーズベルトが、32代大統領になり「日本を軍事力」で叩き潰す為
1941年 日米開戦の太平洋戦争・・1945年 日本は米軍から 叩き潰され「敗戦」
こうして 戦勝国の米国が、敗戦国の日本を「統治支配」するため 軍隊を日本に派遣したのが 米国の進駐軍・・「米国GHQ」
この米国GHQの 最高司令官が「マッカサー」で 日本は 明治時代から 昭和時代の太平洋戦争まで「軍国主義」で 戦争しまくっていたので
マッカサーが 日本を「戦争が出来ないよう」にしたのが 憲法第9条で、日本は恒久的に戦争放棄 の条文
こうして 日本は 軍国主義から 平和主義の国家となり 日本人民は「戦争の犠牲にならず
平和な日々を送れる「平和国家」になったのである
マッカサーが、軍国主義の日本を 平和主義の日本にした最大の「功労者」
だから マッカサーが 米国に帰国する際 日本人民が マッカサーに感謝 日米の旗を振り見送り ある日本人は 米国大使館の前に 土下座してマッカサーに謝意を述べる記録映像が 今も残されている
日本の総理大臣は 明治時代から昭和時代の日本敗戦まで 軍国主義で
戦争しろ! 敵を倒せ 勝利しろ! そのため 日本人民たちが「戦争の犠牲者」になり 人民は 地獄の日々
日本人ども なぜ 憲法第9条で 日本は 戦争できない平和主義の日本になったのか ちいたぁ、考えて観ろ あほ!
猫の話を信じなさい! ほれ! 信じなさい
古代エジプトでは 猫は神様として 祭られていた
参考
猫は古代エジプトで神
猫と古代エジプトの話、よく聞きますよね。途中で文が切れているようなので、少し整理してお伝えしますね。
🐱 猫は本当に「神」だった?
古代エジプトでは、猫そのものが「神そのもの」というより、 「神に近い神聖な存在」「神の聖なる動物」として強く崇拝されていました。
特に有名なのが、猫の姿や猫の頭を持つ「女神バステト」で、 家庭の守護や豊穣、愛などをつかさどる女神として信仰されました。
🌾 なぜそんなに大事にされたのか
エジプトでは穀物をネズミやヘビなどから守ることがとても重要で、 それをしてくれる猫は「命や生活を守る存在」として大切に扱われました。
その結果、神聖な動物として扱われ、殺すと重い罪になるほどだったと言われています。
🗿 神殿やミイラにも登場
猫の像や、猫のミイラ、猫を祀った墓などが多く発見されていて、 実際の宗教儀礼の中でも特別扱いされていたことがわかっています
・・・猫は 古代エジプトでは神様で ただ猫の「投稿を信じなさい」
ほれ 信じなさい! 信じない者は 天罰が下るであろう
だから吾輩は 飼い猫「ちょび太」を「家族同様」に大事にしていて 今は ちょび太が
「心の支え」になっている・・ああ! ありがたや ありがたや 猫神さみゃ~~!
織田信長と、室町幕府の足利義昭の関係
見出し・・足利義昭の挙兵はなぜ失敗したのか?信長を倒せるはずが…誤算だらけの結末とは?
織田信長に擁立され、将軍として京都に迎えられた足利義昭――。しかし両者の蜜月は長くは続かず、やがて決裂へと向かう。義昭は「打倒信長」を掲げて挙兵するが、その判断に勝算はあったのか。
頼みとした有力大名は次々と頼れなくなり、戦局は急速に悪化していく。結果として義昭は、室町幕府の終焉を招くことになった。本稿では義昭の挙兵の実態と、その“誤算”の連鎖がもたらした結末を検証する。
突然の離反――信長を驚かせた義昭の決断 織田信長は足利義昭を推戴して上洛したが、のちに両者の関係は破綻した。信長が当初から室町幕府の滅亡を意図していたとする見方は、現在では否定的な意見が多く、むしろ両者の政治的方向性の違いが対立の原因であったと考えられる。
元亀4年(1573)2月、義昭が兵を挙げたとの報がもたらされると、信長は大いに驚き、当初はこれを信じなかったという。信長は義昭のもとに使者を送り、息子を人質とする条件で和睦を申し入れたが、義昭はこれを拒否した。信長にとって、この決裂は想定外であり、動揺は小さくなかったとみられる。
頼みの同盟が崩壊…義昭を襲った致命的誤算 しかし、その時点で義昭の情勢は極めて不利だった。同年4月には最大の後ろ盾であった武田信玄が死去しており、信長に対抗できる見込みは乏しく、兵力差も明らかであった。義昭は朝倉義景の上洛に期待を寄せたが、それも実現しなかったので、義昭の戦略は大きく狂っていった。
天正元年(1573)7月、義昭は槙島城(京都府宇治市)に籠城し、信長に挙兵した。これに対し、信長は軍勢を派遣すると自らも上洛した。同年7月12日、信長勢は義昭配下の三淵藤英が籠る二条御所(京都市)を攻撃すると、藤英はほどなく降伏し、御所は破却された。
さらに同年7月16日、信長の大軍が槙島城を包囲。同年7月17日、総攻撃が開始されると、義昭は降参したのである。ここに室町幕府は滅亡し、長きにわたる歴史に幕を下ろした。槙島城を退去した義昭は、顕如の仲介によって三好義継の居城・若江城(大阪府東大阪市)へ移った。
追放後も消えなかった「再興」の執念 注目すべきは、信長が義昭を殺害しなかった点である。その理由について、『信長公記』には「天命恐ろしき」と記されている。歴史的に見ても、将軍を殺害した者はろくな目に遭わないと信じられており、信長もこれを強く意識していた可能性がある。将軍という存在の重みが、ここに表れている。
京都を追放された義昭であったが、室町幕府の再興を諦めたわけではなかった。各地を転々としながら、上杉謙信や毛利輝元、大坂本願寺などと連携し、諸大名に「打倒信長」を呼びかけ続けた。その執念は、最後まで衰えることがなかったのである。
義昭の挙兵が招いたものとは何だったのか 義昭は信長に勝てると判断して挙兵したが、その読みは外れ、誤算が重なった。結果として、室町幕府は滅亡へと追い込まれた。
一方で、信長が義昭を生かしたことは、皮肉にもその後の政局に影響を与え続けた。義昭の存在は「反信長勢力」の象徴となり、信長にとって無視できない脅威になったのである。
室町幕府と織田信長
日本識者は 肝心な基礎を説明していない
室町幕府とは何か? 鎌倉時代 正統な天皇は「後醍醐天皇」
天皇とは何か? 日本は古くから「神話の国」で「天孫降臨」で神が天から降りてきて日本を誕生させたと言う「神の国」で
この神の子孫が 天の皇(天子)で天皇
だから 国籍に関係なく 神を尊崇していた。ユダヤ教もキリスト教も エホバの神
イスラム教は、アッラーの神 神社にも神を祭っている
鎌倉時代の天皇は「後醍醐天皇」 ところが 足利尊氏が 後醍醐天皇に不忠義で自分に世を築く為光明天皇を」天皇に祭り上げ 後醍醐天皇を京都の朝廷から「追放」し
京都の朝廷は光明天皇
こうして 足利尊氏は光明天皇を「利用」して 征夷大将軍となり京都の「室町幕府」を築く
この手法を 物真似したのが 織田信長
天皇は 日本を創った「神の子孫で最高の権威者」 だから後醍醐天皇を尊崇・忠誠を誓う武将たちの多く 楠木正成 新田義貞は 後醍醐天皇を尊崇・忠誠を誓っていたので
後醍醐天皇を裏切った足利尊氏のを成敗するが 逆に返り討ちされ戦死
この足利尊氏「討伐」で 楠木正成に息子・楠木正行は 自分も一緒に足利尊成敗に出陣すると言い出すが、楠木正成は 息子・正行に・・お前は故郷に帰り母親の面倒を見るように言い残し出陣 足利尊氏から返り討ちされ戦死
これを歌ったのが「桜井の別れ」
このように 足利尊氏は 後醍醐天皇を裏切っで築いた室町幕府 当然 裏切り者の 足利尊氏・征夷大将軍に忠誠を誓う 大名は「多くなかった」
そのため「室町幕府は衰退」に向かう
そして12代征夷大将軍・足利義晴には 長男の「足利義輝」 次男には「足利義昭」が居て 当然、長男の足利義輝が征夷大将軍を引き継ぎ
13代・足利義輝・征夷大将軍になる
次男の足利義昭は 征夷大将軍を引き継ぐ継承権がなく 出家 僧侶になる
そのため三河の大名・織田信長は 天下人になり自分の世を築く為 足利尊氏が光明天皇を祭り上げ、室町幕府を築いたように
織田信長も、僧侶で征夷大将軍の継承権がない足利義昭を 15代征夷大将軍に祭り上げる
足利義昭は 征夷大将軍の継承権がなく 諸藩の大名・織田信長から 15代征夷大将軍に擁立
当然 征夷大将軍の資格がない足利義昭・征夷大将軍に 忠誠を誓う大名は少ない
ところが 足利義昭は 室町幕府の征夷大将軍 つまり「上様」で諸藩の大名は この上様「足利義昭・征夷大将軍」の「家臣」
この家臣である織田信長から 手玉に取られてたので 諸藩の大名で家臣の「織田信長を 不届きな不忠義者として織田信長の首を討ち取るよう命じる
しかし足利義昭・征夷大将軍は 元々 征夷大将軍の資格がない男で 諸藩の大名たちは足利義昭・征夷大将軍に、忠誠を誓う大名が少なく
結局、織田信長から滅ぼされてしまい この15代足利義昭・征夷大将軍で「室町幕府」崩壊
織田信長が 天下を取り 安土桃山時代を築く
民間人が、戦争の「犠牲」にされる
何時の時代の戦争も 戦争の犠牲にされるのは 罪もない民間人
米トラもイスラエルのネタニヤフも 頭がわ~~~るいアホで 民間人を犠牲にし イラン戦争、そのため イランの報復措置で、ホルムズ海峡封鎖 ペルシャ湾内の87か国のタンカー乗組員10名がイラン戦争の犠牲
イラン戦争で 罪もない民間人を 犠牲にした米トラもネタニヤフも「犯罪人」
太平洋戦争で B=29から焼夷弾を雨アラレのように投下 罪もない日本人を犠牲にしたルーズベルト は重罪人
さらに2発の原爆投下 罪もない日本人を 犠牲にしたトルーマンも 重罪人、しかし戦勝国の論理で 罪を問われていない
見出し・・対イラン軍事作戦の目的達成、ホルムズ開放は「防衛作戦」=米国務長官
ルビオ米国務長官は5日の記者会見で、米軍の対イラン軍事作戦について、濃縮ウランの確保がまだ実現していないにもかかわらず、目的を達成したと主張した。ホルムズ海峡での石油輸送の安全確保に向けた取り組みは当初の作戦とは別の小規模な防衛作戦だと位置づけた。
ルビオ氏の発言は、軍事行動を開始から60日以内に終了させることを義務付けた戦争権限法の規定にトランプ大統領が事実上違反しているとする議員らの批判をかわす狙いがあるとみられる。
イランとの戦争は2月28日にイスラエルと米国による空爆で始まった。トランプ氏は攻撃開始の48時間後に議会へ正式に通告したため、連邦議会の承認がないまま始めた戦争を巡る戦争権限法の下で、5月1日が60日間の期限となっていた。
ホワイトハウスは1日、「壮大な怒り作戦」の下での戦闘行為が終結したと宣言することでこの要件を回避し、ルビオ氏は記者会見でこの主張を強調した。
ルビオ氏は「壮大な怒り作戦は終結した。作戦の目的は達成した。新たな事態の発生を望んでいない。平和への道を選びたい。大統領が望んでいるのは合意だ」と述べた。
ホルムズ海峡の開放を目的とした新たな作戦「プロジェクト・フリーダム」については、当初の戦闘計画とは異なる、より小規模なものだと説明。防衛作戦だとし、米国は「攻撃を受けない限り」軍事行動には出ないと述べた。
この新たな作戦は、湾内に足止めされている船舶に乗船する87カ国の約2万3000人の苦しみを和らげることを目的としているとし、ホルムズ海峡で続く紛争により民間人の船員10人が死亡したことを明らかにした。
ルビオ氏は「彼らは孤立し、飢え、脆弱な状態にある。その結果、少なくとも10人の民間人の船員が死亡した」と述べたが、詳細は明らかにしなかった。
海峡からの退避については、多数の船舶と連絡を取っているとした。これはヘグセス国防長官が先に述べた内容と一致する。
さらに、米軍がホルムズ海峡でイランの高速艇7隻を破壊したことも明らかにし、航行の自由を回復するため、同海峡の通航路の安全確保を継続するとも強調した。
一方、トランプ米政権のウィットコフ中東担当特使やトランプ氏の娘婿であるクシュナー氏が外交的解決に向けて精力的に取り組んでいるとも語り、軍事対応と並行して外交ルートも模索している姿勢を示した。イランは交渉のテーブルに着き、条件を受け入れなければならないとも述べた。
外交的解決には、イランが「地中深くに」埋蔵しているとされる核物質の問題を取り扱う必要があるとも指摘。「これは非常に複雑で高度に技術的な問題だ。しかし、イランが交渉に応じる用意のあるテーマとその範囲、および協議を有意義なものにするために、冒頭で示す用意のある譲歩について、非常に明確な外交的解決策が必要だ」とした。
また、中国がイランに対し、ホルムズ海峡での行動がイランを国際的に孤立させていることを伝えることを望んでいると述べた。トランプ大統領は、5月14日─15日に北京を訪問する予定となっている。
イラン戦争は 米トラ と イスラエルのネタニヤフが「諸悪の根源」
見出し・・イランの“最も重要な交渉材料”──ホルムズ海峡で情報戦、イラン側の「決意」 専門家「どの船舶も危険」…停戦どうなる?
ホルムズ海峡が緊迫しています。アメリカの商船の通過やイランによるミサイル命中など、真偽がわからない情報が飛び交っています。専門家は、アメリカがイランを挑発する状況を食い止めないと停戦が反故にされ、紛争が拡大する可能性があると指摘します。
日本の識者・政治家は 世界一 頭がわ~~るい
論理的な思考が出来ず つぎはぎ、だらけのフランケンシュタインの化け物
見出し・・橋下徹氏「物語を語れない政治家」に苦言 自民・維新合意文書も「学生が書いたレジュメのよう」
元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏が5月4日、「BSフジLIVE プライムニュース」(BSフジ)にコメンテーターとして出演し、自身の「政治家論」について語った。
この日は「国論を二分する政策」というテーマで、出演者たちが防衛力強化や、天皇制のあり方などについて議論した。
番組後半では、国民を納得させるには政治家はどうあるべきかについて、橋下氏が熱く語りだした。番組冒頭でも「政治家というのは『物語』をつくらなければいけない」と主張していた橋下氏だったが、あらためて「国家の主導者にしても企業の経営者にしても、物語を語る力が必要だと思う」と強調。
「物語を語る力がなければ、相手方がいろんな議論を仕掛けてきたときに、対抗することができない」と断じた。
そのうえで、「日本の政治家には物語を語るだけの力があるのか。物語を語っているのか」と疑問を呈し、「手前味噌で申し訳ないけど、僕が維新をつくったときは『自立する個人』『自立する地域』『自立する国家』(を掲げた)。『自立する個人』を1番上に持ってきた意味、物語をしゃべれと言われたら、一晩中しゃべりますよ」と自負をのぞかせた。
ある識者が 武田信玄の先祖について解説
武田信玄の先祖は 甲斐(山梨県)ではなく 茨城県の 武田だと言う
これは本当だろう
見出し・・「豊臣兄弟!」でまさかの退場、武田信玄のルーツは山梨県ではなく茨城県
3日の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、徳川家康を三方ヶ原で一蹴し、さらに上洛を目指していた武田信玄が「まさかの餅」で急死して退場した。
戦国最強とされる武田軍団が甲斐に引き返したことで信長は窮地を脱し、孤立した将軍足利義昭は京から追放されて室町幕府は滅亡してしまう。
名門、甲斐武田家
甲斐武田家は戦国最強の軍団であるというだけはなく、この時代各地にあった多くの大名の中でも最も名門といえる一族でもあった。というのも、戦国時代の大名は斎藤道三のように氏素性もよくわからず、下剋上によって成り上がったものが多かったが、武田家は清和源氏の出で、鎌倉時代から続く守護大名の子孫だからだ。
あまたある武士のうち、清和源氏が最も由緒正しいとされた。
そして、清和源氏の嫡流は誰かという点を単に系図的な視点だけからみてみると、清和源氏の直系にあたるのは源姓を賜った経基の長男(満仲)の長男にあたる頼光の子孫である摂津源氏である。摂津源氏は代々武士として摂関家に仕えていた。
この摂津源氏が2流に分かれ、河内源氏と甲斐源氏となる。河内源氏の棟梁が鎌倉幕府をひらいた源頼朝で、甲斐源氏の棟梁が甲斐の武田氏である。
河内源氏の嫡流である源頼朝の系譜が途絶えた後は、甲斐源氏の嫡流である武田氏が、清和源氏嫡流に最も近い位置にあるといえる。
「武田」のルーツは茨城県
さて、武田氏は平安時代に源義光の子義清が常陸国吉田郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市武田)に住んで武田冠者と名乗ったのが祖である。つまり、武田氏の名字の地は山梨県ではなく茨城県にある。
武田信玄
武田信玄の先祖は 甲斐(山梨県)ではなく「茨城県の武田」だと言う、これは本当だろう
同じ鎌倉時代 越後(新潟県)の 上杉謙信の父親だった長尾為景は 越後(新潟県)ではなく「横浜の長尾」出身
この父親・長尾為景が「越後で大名」になり、越後で 息子の 長尾虎千代(後の上杉謙信)が誕生
そして長尾為景の息子・長尾虎千代が、越後の大名・上杉謙信になる
武田信玄も 父親・武田信虎が、甲斐の大名になり 甲斐で武田信玄 誕生
ところが 父親の武田信虎は 武田家の日誌「甲陽軍鑑」には 父親で大名の武田信は「気性が荒く」意に添わない家臣を虐待 領民に悪政を行い 息子の武田信玄は 女たらしで 父親の信虎が 何もできない甲斐性なしの息子として 甲斐から追放しようとしたと言う
そのため武田信虎から虐げられていた家臣たちが、息子の武田信玄の大名を望んでいたので 武田信玄が 父親の武田信虎を 甲斐から追放
武田信玄が 甲斐の大名になったと書き残されている
なぜ 父親の武田信虎が 息子の武田信玄を「甲斐性なし」と考え 甲斐から追放しようとしたのか 若い武田信玄は 女にモテるタイプで、女とばかり交わっていた為
「甲斐性」や「甲斐性なし」の 甲斐は甲斐に由来したのかも知れない
ところが 正室の「三条の方」が 労咳(肺結核)で、当時 肺結核は「不治の病」で、労咳になれば必ず死ぬ運命
正室(三条の方)は 労咳を治療する為 湯治を行っていたが 労咳のため 痩せ衰えてしまい 醜い容貌になり
武田信玄に 醜い容貌を見せまいとして 死ぬまで 武田信玄の 入室を「拒み続け」死去
しかし 武田信玄には 既に「結核菌が感染」
武田信玄も 時々 喀血 家臣たちが主君・武田信玄の体調を気遣い 休養するよう勧めるが
武田信玄は 長年の宿敵「織田信長」と 天下分け目の決戦
この戦いの最中 武田信玄の 病状悪化 遂に臨終の床に伏し 息子の武田勝義に遺言
「向こう3年 動いてはならぬ 困った事あれば越後の上杉謙信を頼れ」この遺言を残し 労咳で死去
ところが テレビ・ドラマでは 武田信玄が「餅を喉に詰まらせ死去」したことになっている
餅を喉に詰まらせた場合 吐き出すため ゴホン! ゴホン! 咳をする
この咳で、肺結核のため 肺から喀血 死去したのかもしれない
そのため 織田信長は 戦わずして 武田信玄に「不戦勝」
越後の上杉謙信は、武田信玄の訃報を聞き落涙したと 上杉家の日誌「上杉年譜」書き残されている
ところが 息子の武田勝頼は 遺言を無視 動いた為 織田信長と徳川家康に攻められ自害
こうして武田家 滅亡
女にモテていた武田信玄
だから 父親の武田信虎が、女とばかり交わっていたので 役立たずの 甲斐性なし として甲斐から 追放しようとした
しかし 武田信玄は 正室(三条の方)を労咳で亡くし、独身となり、女どもが寄り集まる
武田信玄に「惚れ抜いた」有名な侍女が「里美」で 武田信玄が 徳川家康の浜松城を攻める「三方が原の戦い」に 出陣する際
侍女の里美が 信玄に、次のような歌を贈っている
「愛しさを 御身の袖に 焚き込めて 京より帰る 日をば待たなん」
しかし 武田信玄は、織田信長との 天下分け目の決戦で、労咳が悪化 死去してしまい
里美は 遂に 武田信玄との再会を果たせなかった
しかし逆に 越後の上杉謙信は 僧侶だったので 正室も側室も持たず 一生、独身で 通す その為 子供がおらず 上杉景勝を 養子にしている
この上杉謙信の養子・上杉景勝が 武田信玄の娘「菊姫」を正室にしている
だから宿敵同士の武田信玄と上杉謙信は 宿敵であって 姻戚関係になる
女にモテた武田信玄
戦国武将の中でも、武田信玄は男女問わず「人を惹きつけるタイプ」とよく語られていますね。
💘 信玄と女性の噂
戦国時代の武将としてはごく一般的ですが、武田信玄も正室と複数の側室がおり、多くの子どもをもうけています。
正室は公家出身の三条夫人で、それ以外にも諏訪御料人など複数の女性との間に男子・女子が生まれています。
また、娘たちは政略結婚の要として各大名家に嫁ぎました。例えば
織田信忠と婚約していた松姫
上杉景勝の正室となった菊姫
などがいて、武田家と他大名家との結びつきに大きな役割を果たしました。
🧑🤝🧑 「モテる」人物像としての信玄
後世の評価では、信玄は部下や周囲の人からの信頼が厚く、人情味のある「魅力的なリーダー」として描かれることが多いです。
政治や軍事だけでなく、領民保護や家臣への恩賞にも配慮した人物像が紹介され、現代の解説でも「人を惹きつけるカリスマ性」を持つ武将として語られています。
「女にモテていた」かどうかを史料で断言することはできませんが、多くの女性との婚姻関係や、周囲からの人気・カリスマ性を考えると、当時としても魅力ある男性像だったと見る解釈は十分成り立ちます。
竹の子の時期は 終わった
竹の子の成長は早く 1日に50cm~1mも成長してしまい 孟宗竹の竹の子の時期は終わり 今は7mほどの竹になってしまい 竹は固くて食えない
しかし まだ 40㎝程の竹の子もあり 幹の中ほどから 鎌で切取り 皮を剥くと
竹の子の先端部は 軟らかいので食い物になる
次は 破竹(淡竹ともいう)の竹の子が生えるシーズン
この破竹の竹の子は 孟宗竹の竹の子より「上品な味」がする竹の子
吾輩は 竹の子が大好き猫で 破竹の竹の子が 待ち遠しい
シナ竹(ちく)の竹の子
シナ竹の「シナ」とは「中国」の事で、中国産の「竹の子」を「シナ竹」と言い
中国では食べ物を「保存食」にしていて・・ 例えば「米の飯と魚」を 塩漬けにして発酵させた保存食が「鮨(すし)」
この中国の保存食の「鮨」が 日本に導入されたので 今でも すし屋の「看板」には 「鮨の屋号」を 掲げた鮨屋がある
「寿司(すし)」は 江戸時代 中国の鮨(すし)が 日本に導入されたが 中国の鮨は「発酵させた鮨」で 発酵するまで「時間が掛かる」ので 江戸の鮨職人は「天然の酢」を使った日本独特の「寿司」を作る
そのため 日本の すし屋の屋号には 鮨屋 と 寿司屋の 2つの看板がある
このように 中国では 食べ物を 発酵させ「保存食」にしていたので 竹の子も発酵させ 保存食にしていた
この中国の竹の子を 発酵させ保存食にしていたのが「シナ竹」で 昔 ラーメン屋では、ラーメンの具に シナ竹を 添えていた
しかし 今は 何処のラーメン屋にも シナ竹を 使っていない
多分 日中関係が悪化 中国の「シナ竹」を 輸入できなくなったのかも知れない
ただ シナを 漢字で「支那」と書き シナ(支那)は 日本軍が中国を「侵略」した当時 中国を 支那(シナ)と呼んでいたので
中国政府は 漢字の「支那」を使わないよう日本政府に要請した為 シナ竹は「メンマ」と呼ぶようになった
シナ竹 = メンマ
この シナ竹(メンマ)が 昔 ラーメンの具に使われていた
中国の竹の子 シナ竹(メンマ)と 日本の竹の子は 食感が全く違う
個人的には 日本の竹の子が 断トツに「美味い」
今夜の歌
昔 1941年 日米開戦(太平洋戦争)で、小学校の児童たちを 天皇中心の国家に教育するため 小学校が「国民学校」に 改名される
国民学校とは 児童たちと教師たちが 一緒に住む「寄宿舎」の事で 天皇を中心とする日本国家を築くための寄宿舎を「国民学校」と言い
この国民学校で 児童たちが歌っていたのが「お山の杉の子」
今夜は お山の杉の子を 吾輩が、リメークして歌います
・・昔~むかし その昔~~杉の木、林のすぐ傍に 小さな お山があったとさ~~ あったとさ~!
真ん丸~~ハゲた~その山は~~ いつでもみんなの笑い物~~!
これこれ!竹の子~~ 起きなさい~~お日様 ニコニコ声かけた~~声かけた~~!
・・・こうして竹の子は お日様の光を浴びて すくすく生えたのである
それを見た泥棒猫・・こりゃ しめしめ 抜き足 差し足で竹の子を盗み
こりゃ 美味えにゃ~~ うめえにゃ~~! 竹の子 大好き猫に なったとさ~~
なったとさ~~!
昔 国民学校で 歌われていた「お山の杉の子」
歌詞には・・これこれ! 杉の子~~ 起きなさい~~お日様 ニコニコ声かけた~~声かけた~~!
この「お日様が ニコニコ声かけた~~声かけた~~!」
と言う お日様とは 日本の「国旗」である「日の丸」の事で 国旗・日の丸とは 昭和天皇のことで
昭和天皇が、児童たちに これこれ杉の子(児童たち)に、日本国家を築くため 起きなさい・・声を掛けた意味
太陽とは 昭和天皇の事で ロシアの映画監督 アレキサンドル・ソク―ロフは 昭和天皇を「太陽」として映画製作したのが「太陽(昭和天皇・裕仁)」
ロシア人でも「太陽=昭和天皇=お日様」くらい知っている
太陽 = 昭和天皇・裕仁
ロシアの映画監督・アレキサンドル・ソク―ロフが 昭和天皇を「太陽」として制作
終戦直前・直後の数日間における昭和天皇の苦悩を、一人の人間としての昭和天皇のプライベートがコミカルさ、シリアスさ、そしてペーソスを交えて描写された本作は、ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』に続く、アレクサンドル・ソクーロフ監督の、20世紀の指導者を描く4部作の3作目にあたる[1]。
ロシアの映画だが、セリフは全編日本語と英語である。
映画評論家の樋口泰人は、真偽は不明ながら、この作品は俳優たちに左右逆で演技をさせて、鏡に映したその鏡の映像をカメラが撮影したと聞いたと語っている[要出典]。
2005年ベルリン国際映画祭上映作品。同年第13回サンクトペテルブルク国際映画祭において、グランプリを獲得した。
妄想ずりずりが激しい日本識者
武田信玄の死因は 鉄砲傷が 死因などと言い出す始末
武田信玄と織田信長の天下分け目の戦いで、織田信長は「鉄砲軍団」で 織田信長が火縄銃を 最初に戦場に採り入れた武将で 織田信長の戦力は3000丁の鉄砲軍団
対する 武田軍勢は 日本最強の「騎馬軍団」で 織田信長の鉄砲軍団により武田信玄が被弾 死亡したと妄想
見出し・・武田信玄は鉄砲で撃たれたのか?死因をめぐる通説のウソと真相とは?
武田信玄の死は、戦国史最大級の「謎」の一つとして知られている。病死であったのか、それとも鉄砲で撃たれた傷が原因であったのか――。
名将として名高い信玄でありながら、その死因は今なお判然としない。本稿では史料と伝承を手がかりに、信玄の死因をめぐる諸説を検証する。
信玄の死と「3年間秘せよ」の遺命―鉄砲で撃たれたのか 武田信玄が志半ばにして信濃国駒場で亡くなったのは、元亀4年(1573)4月12日のことである。死を目前にした信玄は、「3年間、我が死を伏せよ」と命じたと伝えられる。この逸話は広く知られており、映画『影武者』では仲代達矢が信玄を演じ、その最期が印象的に描かれた。では、その死因は何であったのか。
まず取り上げるべきは、「鉄砲による負傷」が死因となったとする説である。元亀4年(1573)1~2月、信玄は徳川家康と三河国の野田城付近で攻防を繰り広げていた。軍記物『松平記』によれば、信玄は笛の音に誘われて城に近づいた際、徳川方の鳥居三左衛門に狙撃されたとする説がある。
また、野田城落城の際、逃亡した城兵が放った鉄砲の弾が信玄に命中したとする異説も伝えられているが、これらの説には大きな問題がある。信玄が鉄砲で撃たれた事実は、信頼できる一次史料には確認できず、それが死因であると裏付ける証拠も存在しない。したがって、これらは後世の伝承の域を出ないと考えられる。
有力視される病死説とその根拠 一方で、有力視されているのが病死説である。信玄には侍医がおり、その書状によれば、信玄は「肺肝」に病を抱えていたと記されている。具体的な病名は不明だが、この記述が病死説の根拠とされている。さらに後世には、信玄が胃がんだったとする説も唱えられたが、確かな史料的裏付けがあるわけではない。
信玄の死因をめぐっては、肖像も議論の対象となってきた。現存する肖像の中には、痩せた姿で描かれたものもあり、これをもって重病説を補強する見解もある。
しかし、この点には慎重さが必要だろう。問題は肖像の成立時期であり、それが死の直前の信玄を描いたものなのかは不明である。したがって、肖像の印象のみから病状を断定することはできない。
当時の医療水準という限界―信玄の死因は解明できるのか さらに考慮すべきは、当時の医療水準である。戦国時代の医術は現代と比較して未発達であり、侍医の診断が現代医学の水準で正確であったとは限らない。「肺肝」に病があったという記述も、今日の医学的診断に基づくものではなく、症状の大まかな把握にとどまる可能性がある。
以上のように、武田信玄の死因については、鉄砲による負傷説と病死説が存在するが、いずれも決定的な証拠を欠いている。確かな史料に裏付けられた結論はなく、その死因は依然として不明である。戦国最強とも称された名将の死因が特定できない事実は、何も信玄だけに限らない点に注意すべきだろう。
主要参考文献
柴辻俊六『甲斐武田一族』(新人物往来社、2005年)など。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。・
歴史に半可通の日本識者
昔 何処の大名も 日々の出来事を日誌に書き残していた、たけだ武田家の日誌が「甲陽軍鑑」で 武田家の家臣 小幡景憲(おばた かげのり)が武田家の日誌・甲陽軍鑑を書き残している
武田信玄の正室(三条の方)は「労咳」だと言われていた
労咳は 文字通り 咳が出て痰が出る だから労咳だった明治時代の正岡子規もこう言っている
「痰 一斗 へちまの水も 間に合わず」
昔 労咳の治療法がなく ヘチマの水が労咳に効くと言われ 労咳だった正岡子規がヘチマの水を飲むが労咳で死去
昔は 肺結核を「労咳(ろうがい)」と言っていて 治療法がなく「不治の病」
労咳(肺結核)は結核菌が「空気感染」する病で、空気を吸うと結核菌が『肺に吸い込まれ」
肺が結核菌に侵され 肺病(肺結核)となり、肺が結核菌に侵されるため咳が出て 痰が出るようになり 重症化すれば肺から出血 喀血 遂に死亡する「不治の病」
空気感染する為 昔は肺結核が流行 各地に「結核療養所」が設けられていた
ところが英国の細菌学者フレミングが 実験用の培養地に「アオカビ」が繁殖
そのため アオカビで抗生物質のペニシリンが開発され さらに有効な抗生物質が開発され 肺結核は「治る病気」になる
しかし昔は抗生物質など無く不治の病
武田信玄の正室(三条の方)も結核菌が空気感染 労咳になっていて 治療法がなく 湯治で治療していたが 痩せ衰えて死去
空気感染なので武田信玄に結核菌が感染 武田信玄も労咳 そのため度々 喀血していて
家臣が 主君・信玄に休養を勧めるが 武田信玄は宿敵の織田信長と 天下分け目の決戦 しかし労咳が悪化 大量の喀血 臨終の床に伏し 死去
お袋も結核菌に感染 結核菌が 肋骨を侵し「肋骨カリエス」になり 片方の肋骨を摘出したので 左の乳房を失い 左胸が窪地になり我輩は 片方の乳房を吸い育てられた
豊臣秀吉の朝鮮出兵で 朝鮮人の耳や鼻を削ぎ落した倭軍
見出し・・平安時代の終わりごろから江戸時代の初期にかけて、武家社会では現代では考えにくい慣習がいくつも行われていました。
その中でも戦で殺害した敵の首を切り取り、それを倒した証として報告していた首検分(くびけんぶん)は、今となってはあまりにも異様に感じます。
少しでも名のある武将を倒すことが重要だった時代、首検分は「戦果の確認」でもあり、その後の恩賞にも影響することから、武士たちは積極的に敵の首を取り、それを証拠として持ち帰っていました。
首ではなく耳や鼻を削ぎ落とした「耳塚(鼻塚)」 しかし朝鮮出兵では、首の代わりに鼻や耳を削ぎ、それを戦功の証として扱った記録があります。
鼻や耳を戦功の証として扱ったことを物語るものが、耳塚(鼻塚)です。
場所は京都国立博物館と京阪七条駅の間にあります。
耳塚(鼻塚)に関する説明書きがあります。
朝鮮出兵に関するものであることから、その下にハングル語での説明があります。
耳と鼻をそぐように命じた秀吉は塚を建て供養した
全国統一を成し遂げた秀吉は、次の攻撃対象を大陸に定めて2度の朝鮮出兵を行いました。
特に2度目の慶長の役では、朝鮮半島に攻め込んだ日本兵が、朝鮮兵や援軍の明兵だけでなく、一般民衆の鼻や耳まで大量に切り取ったとされます。 それらを京都に持ち帰って埋めたものが耳塚(鼻塚)であると、明治から昭和にかけての民俗学者・南方熊楠(みなかた くまぐす)は論証しました。
複数の豊臣政権下の大名が発給したとされる「鼻請取状」では、三万もの鼻削ぎ(鼻を削って塩漬けにして持ち帰った)ことが確認できるとのこと。
ただしこれは一部であり、実際にはもっと多かった可能性があります。
朝鮮出兵で 朝鮮人の耳や鼻を 削ぎ落した経緯
昔の「戦い」は 大名(殿様)に仕える武士が「槍と刀」を持ち 鎧・兜を身に着け 馬に乗り
敵の大将を コロすと 生首を切り取り 主君の大名に、生首を「見せない」と
家臣が 本当に敵の武将を「討ち取ったか証明できない」ので 敵の武将を討つと
首を切り取り 生首を主君に 見せていた
それを見た 主君は おお! これは まさしく敵将の首である・・ 家臣の戦功を称賛
こうして 家臣(武士)は 立身出世していた ところが敵の武将(大名)とて そう「簡単に討ち取れない」ので
敵の兵士を「捕虜」にして 敵の武将・大名に「見せしめる」ため 捕虜にした敵兵の
耳や 鼻を 削ぎ落し 首を切り落としていた
他方 豊臣秀吉の主君・織田信長は「鉄砲軍団」で 豊臣秀吉も主君・信長母「鉄砲軍団」を引き継ぐ
しかし 鉄砲には「火薬」が必要
ところが 茶人の「千利休」は 堺の商人で 千利休の茶道の弟子だった「山上宗二」を豊臣秀吉に紹介
秀吉は 堺の商人だった 山上宗二 に火薬を 都合するよう命じる
しかし 山上宗二は「北条家に忠誠を誓い」 秀吉の言いなりにならず 秀吉は 家臣に命じ 山上宗二の 耳や鼻を 削ぎ落し 首を切り取るよう命じる
こうして 豊臣秀吉は 天下人になり 日本を支配するが 野望は尽きず 当時 中国は「明王朝」時代で
明王朝の征服を試みる 当時 朝鮮半島は「李氏朝鮮」で 明王朝の「冊封体制」で
明王朝に「服属」
そのため 豊臣秀吉は 明王朝に服属していた 朝鮮半島の「李氏朝鮮」を 征服するため 倭軍を「朝鮮出兵」
この朝鮮出兵で 秀吉は「知略家」の小西行長(このしぎょうちょう)を「先発隊」に指名
武闘家の「加藤清正」を 後発隊に指名する
そのため 後発隊の加藤清正は 先発隊の小西行長から「戦功を独占」されるため
加藤清正は 李氏朝鮮の国王・宣祖の 首を取れば 李氏朝鮮を 征服したことになるため 李氏朝鮮の国王・宣祖霊の 首を取ろうとする
しかし 国王・宣祖は「臆病で姑息な国王」で 側室との間にできた 王位継承権がない 光海君を 自分の国王の「身代わり」にして 光海君を 国王に擁立
自分は 朝鮮兵を引き連れ 安全地帯の江華島に逃げてしまう
これを映画化したのが 韓国映画「代位軍」
こうして 国王・宣言は 安全地帯に 逃げてしまい 加藤清正は国王・宣祖の首をを討つことが できなくなり
国王・宣祖霊の世子(皇太子)を 人質に取り 国王・宣祖を「誘き出そうとする」が
国王・宣祖は 臆病で卑劣な国王で、安全地帯に逃げ 加藤清正は 宣祖の首が取れず
国王・宣祖に「見せしめ」のため 朝鮮人の 耳や鼻を 削ぎ落す
ところが 主君の 秀吉は、耳や鼻を「塩漬け」にして 日本に送るよう指示
理由は 豊臣秀吉は 正室の北政所(寧々)との間に 子供が出来ず 側室の淀君との間に 豊臣鶴松が誕生するが 幼なくして病死
こうして 秀吉は後継ぎを喪い 当時 秀吉は既に高齢で「男性機能」が衰え 子供が出来ず 男性機能を回復させるには 耳や鼻を食うと 男性機能が回復 子供が作れると 信じてしまい 加藤清正が削ぎ落した 耳や 鼻を塩漬けにして日本に届けさせ
耳・鼻を食っていた これは「まじない」で 効果などあるはずがなく 高齢で病に 伏し 朝鮮出兵の途上で、病死してしまう
平安時代も同じで 猿の脳味噌を 食うと猿知恵を得ることができると「信られ」朝廷の官僚たちは 猿の脳味噌を食っていた
日本の静岡県の「古墳」で 朝鮮半島・百済の金具が 発掘された
しかし 日本識者は 歴史を説明できていない
見出し・・・帯金具が出土した須津千人塚古墳の石室=富士市教育委員会提供
古代東アジアの第一級の工芸技術で作られた、鳳凰(ほうおう)や鬼神などの文様を施した帯金具が静岡県富士市の須津(すど)千人塚古墳で出土した。同市が7日発表した。朝鮮三国時代の古代国家・百済で、泗●(さんずいに「比」)(サビ、現・忠清南道扶余郡)に最後の都が置かれた時代(538~660年)に、官人の身分を表すために使われた●(金へんに「誇」のつくり)帯(かたい、帯の飾り金具)の一部とみられ、日本国内での出土は初めて。
百済本国か百済系の技術者によって制作されたものとみられる。専門家は「当時の百済では墓に遺物を副葬する習慣が廃れ、同じような製品はほとんど見つかっていない。古代東アジアの交流を考えるうえで重要な工芸品だ」と話す。
なぜ日本の静岡県の古墳から朝鮮半島・百済の金属製の金具が 発掘されたのか
日本は3世紀 以前は「弥生時代」で この弥生時代 倭国は100余りの国々に分かれ その1国が 邪馬台国
他方 この弥生時代 中国は「漢王朝」の時代で 前漢の皇帝だった「武帝」が朝鮮半島を 支配し 漢王朝が 朝鮮半島を「統治支配」するための行政機関だった「楽浪郡」を
中国に近い 半島の北部に置く
しかし 朝鮮半島に昔から住み着いていた「古朝鮮人」が 漢王朝に「対抗」し 楽浪郡を 撤廃させ
朝鮮半島の 北部に「高句麗」を築き 半島の先端部の「西に百済」を築き 先端部の「東に新羅」を築く 百済と新羅の 真ん中に「加耶」を築く
この半島の先端部の 百済 加耶 新羅を「3韓」と言い 古墳時代に中央集権の大和朝廷が誕生
大和朝廷の天皇を「仲哀天皇」と言い この仲哀天皇の皇后だった「神功皇后」が
朝鮮半島の先端部にあった 百済 加那 新羅の 3韓を 成敗する
これが 古墳時代の「神功皇后の3韓征伐」
ところが 中国は後漢時代 日本は まだ「弥生時代」で 後漢の皇帝が 再度 朝鮮半島を支配 朝鮮半島の 北部・・現在の北朝鮮の平壌 辺りに「帯方郡j」を置く
そのため 倭国の1国だった「邪馬台国の卑弥呼」が 西暦173年 朝鮮半島の「帯方郡」に「使節を送る」
これは後漢の歴史書「漢書」に書き残されている
つまり 日本と朝鮮半島は 弥生時代から「交易を行っていた証拠」
そして 次は3世紀~7世紀にかけ「古墳時代」になり 古墳時代とは 日本の王族が 自分の遺体を 祭る「墳墓」を 古墳という
日本の王族どもが、自分の遺体を古墳に 埋葬していて
この日本の「静岡県の古墳」から 朝鮮半島・百済の金具が 発掘された
・・・このように説明すれば なぜ 静岡の古墳から 朝鮮・百済の金具が発掘されたのか 意味が分かるだろう
日本識者は 何時も 結果だけで なぜ 静岡の古墳から朝鮮・百済の金具が 発掘されたのか 歴史経緯を 説明せず
結果だけで 静岡の古墳から 百済の金具が 発掘された「結果」ばかり
古墳時代の「古墳」について「参考資料」ご案内
古墳時代とは 3世紀から7世紀に掛けた時代を「古墳時代』と言い、日本各地に「古墳」が 築かれた
福岡県・宗像の海「玄海」は 奇岩が目立つ「沖ノ島」があり 古墳時代 この「奇岩」が「そびえる沖ノ島」は「神が住む島」とされた
その為、豪族たちが神に近づく為 神の島に 以下のような 古墳を築く
古墳時代の5世紀・・神の島(沖ノ島)に「勝浦峰古墳」を築き
古墳時代の7世紀・・神の島(沖ノ島)に「須多田塚古墳」と「宮地嶽古墳」を築く
この神の島(沖ノ島)は 玄海にある島で 朝鮮半島の先端部にあった「百済」とを 繋ぐルートにある島
だから 古墳時代 静岡の古墳から 百済の金具が 発掘された
玄海の 沖ノ島(神の島)・・参考
世界遺産「神宿る島」・・宗像・沖ノ島と関連遺産群
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、ユネスコの世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)に基づき、8つの構成資産全てを世界遺産一覧表に記載することが、平成29年7月にポーランドのクラクフで開催された第41回世界遺産委員会において決定されました。 この遺産群は、航海安全や対外交流の成就を願う沖ノ島に宿る神への信仰が日本と東アジアとの交流が活発に行われた4世紀以降に発展し、約1600年もの時を経て、今日まで宗像の人びとによって受け継がれてきたことを示す物証です。
古代祭祀に遡る信仰の場である宗像大社の三宮(沖津宮・中津宮・辺津宮)、沖ノ島祭祀を担った古代豪族宗像氏の墳墓群である新原・奴山古墳群、「神宿る島」沖ノ島を遠くから拝む信仰の場である宗像大社沖津宮遙拝所から構成されています。
神社の太い枯れ枝が落下
太い枯れ枝が 境内に落下している光景を度々 見かける 台風など強風がなく無風でも 枯れ枝は必ず腐り重力に耐えきれず 落下する
太い枝が 参拝客を直撃すれば 運が悪いと即死
神社関係者は 枯れ枝は 伐採
見出し・・倒木で男性が下敷き…全身打撲 須磨海浜公園で2人けが 今年中に伐採予定…根の内部が腐敗か 神戸市「倒木の恐れある樹木は早期に伐採」
今月1日、神戸市にある須磨海浜公園で木が倒れ、近くにいた男性が木の下敷きになるなど、2人がけがをしていたことが分かりました。
神戸市によると、須磨区にある須磨海浜公園のテニスコート付近で今月1日、高さおよそ10mあるアキニレの木が倒れ、近くにいた男性2人がけがをしました。
徳川家康の「身代わり」になり討ち死にした家臣
これは紛れもない事実、次の投稿で その理由を説明
見出し・・徳川家康の身代わりになったのは本当か?三方ヶ原の戦いにおける夏目広次“美談”の真相とは?
戦国史のなかでも屈指の敗戦として知られる三方ヶ原の戦い。この戦いをめぐっては、徳川家康の命を救うため、家臣の夏目広次が身代わりとなって壮絶な最期を遂げた――という感動的な逸話が広く知られている。
だが、この「忠死の物語」は本当に史実なのだろうか。その実像に迫ってみたい。
信濃出身の譜代家臣と意外な経歴 夏目一族はもともと信濃国に本拠を置き、のちに松平氏に仕えた譜代の家臣だが、広次の経歴は不明な点が多い。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、あろうことか一揆衆に与して家康と敵対した。広次は一向宗の信者であった可能性が高く、主君に背いた過去を持っていたのだ。
一揆終結後、広次は徳川方に捕縛されるが、家臣らの助命嘆願によって命を救われた。その後、松平伊忠に仕えて功績を重ね、やがて家康から帰参を許されるに至る。こうして広次は再び徳川家中で地位を回復し、忠臣として重きをなす存在となっていった。
三方ヶ原で何が起きたのか 元亀3年(1572)12月、武田信玄との決戦となる三方ヶ原の戦いが勃発した。このとき、浜松城の留守を預かっていた広次は、櫓に上って戦況を確認した。
徳川軍の不利を察知した広次は、ただちに戦場へと向かい、家康に浜松城への帰城を進言する。しかし家康は、「ここで退けば敵の勢いが増す。このまま突撃して討ち死にする」と覚悟を示した。
それでも広次は再三にわたって撤退を勧めるが、家康は「敵兵に追いつかれれば同じことだ」と答えた。そこで、広次は自らが踏みとどまり、家康の身代わりとして討ち死にすることを申し出たという。
「身代わり突撃」は史実なのか 広次は家康の馬の向きを浜松の方角へと変え、そのまま走らせて逃がすと、わずか25~6人の兵とともに敵中へ突撃したとされる。十文字槍で敵を2人討ち取ったのち、ついに討ち死にしたという。家康はその忠死を深く哀れみ、法蔵寺に石碑を建立したと伝わる。
しかし、この一連のエピソードは『寛政重修諸家譜』に見えるものであり、同時代史料による裏付けは確認されていない。つまり、後世に編纂された史料に依拠した「美談」である可能性が高いのだ。
感動の裏にある「創られた歴史」 夏目広次の最期は、主君のために命を投げ出した忠臣の鑑として語り継がれてきた。しかし、その実像をたどると、一向一揆での離反や、後年の再仕官といった複雑な経歴が浮かび上がる。
決定的なのは、「身代わり」の逸話を裏付ける同時代史料が存在しない点である。こうした事情を踏まえれば、この物語は後世の顕彰や徳川家の正当化のなかで形成された可能性を否定できない。
歴史のなかで語られる「忠臣の美談」は、しばしば後世の価値観によって作られる。三方ヶ原の戦いにおける夏目広次の最期もまた、その一例として再検討する必要があるだろう。
主君の為なら 命を捨ても忠誠を尽くす
これが 愛する者の為に 自分が犠牲になっても守り通す心情と同じ
漫画家「水木しげる」は 太平洋戦争で 太平洋ニューブリテン島に派兵された 戦争体験を告白している
連合軍から猛攻撃を受け 左腕を 吹き飛ばされ 右腕だけになり 幸運にも生き残る
ところが 上官が なぜ生き残ったのか なぜ死ななかったのか 上官から殴られ、蹴られ 虐待され ピストルを差し出され自決を命じられた
理由は 日本軍人は「天皇の皇軍」
天皇に忠誠を誓い 命を捨てても 主君である天皇を守るのが皇軍としての責務
しかし 水木しげるは 死なずに 生き残ったため 上官から天皇に忠誠を誓ってない不忠義者として上官から・・軍人の命は枯れ葉より軽い 死をよしとしろ!と言われ ピストルを差し出され 自決を強要されたという
しかし1945年、日本敗戦 上官たちは自決してしまい 水木しげるは日本に生還 漫画家になったという 漫画は 右腕 1本で描く
この水木しげるの戦争体験記を見れば「意味が分かる」
日本は鎌倉時代から 主君に忠誠を誓い自分の命すら犠牲にするのが「武士としての尊厳」になっていて
太平洋戦争でも日本兵は 自分の命でも主君の天皇の為に投げ出しで守るのが「日本兵士の誇りと尊厳」になっていた
だから 自決(玉砕)は 天皇に忠誠を誓い 自分の命を投げ出すのが天皇の皇軍として「日本兵の誇りと尊厳」
だから東条英機が先陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず・・・・敵の捕虜になることは主君(天皇)の皇軍として「恥じすべき事」で 潔く「自決」すれば 主君に忠誠を誓い 主君を守り通した証明になる
だから織田信長が 朝倉・浅井に「挟み撃ち」され 窮地に陥るが、忠臣の羽柴秀吉が「身代わり」になり主君の織田信長を安全地帯に逃がしている
三方が原の戦いでも 武田の騎馬軍団に 追い詰められた徳川家康を 家臣が「身代わり」になり
討ち死にしても「武士としての誇り尊厳」で、当然の成り行き・・疑いの余地はない
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憲法第9条・・成り立ちの歴史経緯
日本識者は 核心となるチン玉を言わず 毎度 屁にもならない 乙女のようなグダ話
この平和主義の「憲法第9条」を築いた人物は 米国GHQの軍人だった「マッカサー」が憲法第9条の「発起人」
マッカサーが 軍国主義でイカレポンチの日本を マトモな日本にしたのである
日本は「明治時代」から「軍国主義」になる
なぜ 明治時代から軍国主義になったのか 日本識者共は、その歴史経緯に「無知」
徳川幕府時代 11代徳川家斉・征夷大将軍の頃 徳川幕府は「財政難」に陥る
そのため8代征夷大将軍・徳川吉宗の「孫」で 幕閣の老中だった「松平定信」は 諸藩の大名たちに「質素倹約令」を発令
そのため諸藩の大名たちは「俸禄を削減」されてしまう
この大名(殿様)に 仕官していた武士(藩士)も 俸禄を削減され 年間米俵30表の 夫婦2人の食い扶持しかない 二人扶持 三人扶持に 削減され 生活難に陥り
武士が食い詰め浪人、無宿者に 落ちぶれてしまい
落ちぶれた武士(藩士)たちは「こんな幕府の世より 天皇の世がマシ」とする「尊王攘夷論」が台頭
この大名(殿様)に仕える「武士(藩士)」とは、江戸時代 各地に「剣術の腕を磨く道場」があり
道場で 剣術の修行 剣術の腕前が上がり剣豪となり大名(殿様)に仕える「士官」
つまり大名(殿様)は 他の大名との「戦い」で 剣術が強い武士を仕官させていた
そのため 大名(殿様)が 他の大名と戦う際 武士たちは 鎧・兜を 身に着け 馬に乗り
敵を倒していた つまり武士(藩士)は「敵を倒すのが仕事」
この敵を倒すのが 仕事だった武士たちが 尊王攘夷で 徳川幕府を 倒し
「明治政府」を築く 当然「明治政府の要人」とは「敵を倒すのが仕事の武士」
当然の成り行きで 明治政府の明治時代から「敵を倒す軍国主義」になる
そのため軍国主義で 日清戦争で 清を倒し 勝利
さらに 軍国主義で 日露戦争で帝政ロシアを倒し 勝利
こうして 日本は「世界的な軍国主義大国」になる これを恐れたのが「欧米」で
日本を「軍事的脅威」とする「黄禍論」が起きる
この黄禍論に 反応したのが 26代米国大統領セオドア・ルーズベルトで 軍事的脅威の日本を オレンジ色に塗り「オレンジ計画」を立案 日本を「攻撃目標」にする
そして このセオドアルーズベルト大統領の「親戚」に当たる フランクリン・ルーズベルトが、32代大統領になり「日本を軍事力」で叩き潰す為
1941年 日米開戦の太平洋戦争・・1945年 日本は米軍から 叩き潰され「敗戦」
こうして 戦勝国の米国が、敗戦国の日本を「統治支配」するため 軍隊を日本に派遣したのが 米国の進駐軍・・「米国GHQ」
この米国GHQの 最高司令官が「マッカサー」で 日本は 明治時代から 昭和時代の太平洋戦争まで「軍国主義」で 戦争しまくっていたので
マッカサーが 日本を「戦争が出来ないよう」にしたのが 憲法第9条で、日本は恒久的に戦争放棄 の条文
こうして 日本は 軍国主義から 平和主義の国家となり 日本人民は「戦争の犠牲にならず
平和な日々を送れる「平和国家」になったのである
マッカサーが、軍国主義の日本を 平和主義の日本にした最大の「功労者」
だから マッカサーが 米国に帰国する際 日本人民が マッカサーに感謝 日米の旗を振り見送り ある日本人は 米国大使館の前に 土下座してマッカサーに謝意を述べる記録映像が 今も残されている
日本の総理大臣は 明治時代から昭和時代の日本敗戦まで 軍国主義で
戦争しろ! 敵を倒せ 勝利しろ! そのため 日本人民たちが「戦争の犠牲者」になり 人民は 地獄の日々
日本人ども なぜ 憲法第9条で 日本は 戦争できない平和主義の日本になったのか ちいたぁ、考えて観ろ あほ!
猫の話を信じなさい! ほれ! 信じなさい
古代エジプトでは 猫は神様として 祭られていた
参考
猫は古代エジプトで神
猫と古代エジプトの話、よく聞きますよね。途中で文が切れているようなので、少し整理してお伝えしますね。
🐱 猫は本当に「神」だった?
古代エジプトでは、猫そのものが「神そのもの」というより、
「神に近い神聖な存在」「神の聖なる動物」として強く崇拝されていました。
特に有名なのが、猫の姿や猫の頭を持つ「女神バステト」で、
家庭の守護や豊穣、愛などをつかさどる女神として信仰されました。
🌾 なぜそんなに大事にされたのか
エジプトでは穀物をネズミやヘビなどから守ることがとても重要で、
それをしてくれる猫は「命や生活を守る存在」として大切に扱われました。
その結果、神聖な動物として扱われ、殺すと重い罪になるほどだったと言われています。
🗿 神殿やミイラにも登場
猫の像や、猫のミイラ、猫を祀った墓などが多く発見されていて、
実際の宗教儀礼の中でも特別扱いされていたことがわかっています
・・・猫は 古代エジプトでは神様で ただ猫の「投稿を信じなさい」
ほれ 信じなさい! 信じない者は 天罰が下るであろう
だから吾輩は 飼い猫「ちょび太」を「家族同様」に大事にしていて 今は ちょび太が
「心の支え」になっている・・ああ! ありがたや ありがたや 猫神さみゃ~~!
織田信長と、室町幕府の足利義昭の関係
見出し・・足利義昭の挙兵はなぜ失敗したのか?信長を倒せるはずが…誤算だらけの結末とは?
織田信長に擁立され、将軍として京都に迎えられた足利義昭――。しかし両者の蜜月は長くは続かず、やがて決裂へと向かう。義昭は「打倒信長」を掲げて挙兵するが、その判断に勝算はあったのか。
頼みとした有力大名は次々と頼れなくなり、戦局は急速に悪化していく。結果として義昭は、室町幕府の終焉を招くことになった。本稿では義昭の挙兵の実態と、その“誤算”の連鎖がもたらした結末を検証する。
突然の離反――信長を驚かせた義昭の決断
織田信長は足利義昭を推戴して上洛したが、のちに両者の関係は破綻した。信長が当初から室町幕府の滅亡を意図していたとする見方は、現在では否定的な意見が多く、むしろ両者の政治的方向性の違いが対立の原因であったと考えられる。
元亀4年(1573)2月、義昭が兵を挙げたとの報がもたらされると、信長は大いに驚き、当初はこれを信じなかったという。信長は義昭のもとに使者を送り、息子を人質とする条件で和睦を申し入れたが、義昭はこれを拒否した。信長にとって、この決裂は想定外であり、動揺は小さくなかったとみられる。
頼みの同盟が崩壊…義昭を襲った致命的誤算
しかし、その時点で義昭の情勢は極めて不利だった。同年4月には最大の後ろ盾であった武田信玄が死去しており、信長に対抗できる見込みは乏しく、兵力差も明らかであった。義昭は朝倉義景の上洛に期待を寄せたが、それも実現しなかったので、義昭の戦略は大きく狂っていった。
天正元年(1573)7月、義昭は槙島城(京都府宇治市)に籠城し、信長に挙兵した。これに対し、信長は軍勢を派遣すると自らも上洛した。同年7月12日、信長勢は義昭配下の三淵藤英が籠る二条御所(京都市)を攻撃すると、藤英はほどなく降伏し、御所は破却された。
さらに同年7月16日、信長の大軍が槙島城を包囲。同年7月17日、総攻撃が開始されると、義昭は降参したのである。ここに室町幕府は滅亡し、長きにわたる歴史に幕を下ろした。槙島城を退去した義昭は、顕如の仲介によって三好義継の居城・若江城(大阪府東大阪市)へ移った。
追放後も消えなかった「再興」の執念
注目すべきは、信長が義昭を殺害しなかった点である。その理由について、『信長公記』には「天命恐ろしき」と記されている。歴史的に見ても、将軍を殺害した者はろくな目に遭わないと信じられており、信長もこれを強く意識していた可能性がある。将軍という存在の重みが、ここに表れている。
京都を追放された義昭であったが、室町幕府の再興を諦めたわけではなかった。各地を転々としながら、上杉謙信や毛利輝元、大坂本願寺などと連携し、諸大名に「打倒信長」を呼びかけ続けた。その執念は、最後まで衰えることがなかったのである。
義昭の挙兵が招いたものとは何だったのか
義昭は信長に勝てると判断して挙兵したが、その読みは外れ、誤算が重なった。結果として、室町幕府は滅亡へと追い込まれた。
一方で、信長が義昭を生かしたことは、皮肉にもその後の政局に影響を与え続けた。義昭の存在は「反信長勢力」の象徴となり、信長にとって無視できない脅威になったのである。
室町幕府と織田信長
日本識者は 肝心な基礎を説明していない
室町幕府とは何か? 鎌倉時代 正統な天皇は「後醍醐天皇」
天皇とは何か? 日本は古くから「神話の国」で「天孫降臨」で神が天から降りてきて日本を誕生させたと言う「神の国」で
この神の子孫が 天の皇(天子)で天皇
だから 国籍に関係なく 神を尊崇していた。ユダヤ教もキリスト教も エホバの神
イスラム教は、アッラーの神 神社にも神を祭っている
鎌倉時代の天皇は「後醍醐天皇」 ところが 足利尊氏が 後醍醐天皇に不忠義で自分に世を築く為光明天皇を」天皇に祭り上げ 後醍醐天皇を京都の朝廷から「追放」し
京都の朝廷は光明天皇
こうして 足利尊氏は光明天皇を「利用」して 征夷大将軍となり京都の「室町幕府」を築く
この手法を 物真似したのが 織田信長
天皇は 日本を創った「神の子孫で最高の権威者」 だから後醍醐天皇を尊崇・忠誠を誓う武将たちの多く 楠木正成 新田義貞は 後醍醐天皇を尊崇・忠誠を誓っていたので
後醍醐天皇を裏切った足利尊氏のを成敗するが 逆に返り討ちされ戦死
この足利尊氏「討伐」で 楠木正成に息子・楠木正行は 自分も一緒に足利尊成敗に出陣すると言い出すが、楠木正成は 息子・正行に・・お前は故郷に帰り母親の面倒を見るように言い残し出陣 足利尊氏から返り討ちされ戦死
これを歌ったのが「桜井の別れ」
このように 足利尊氏は 後醍醐天皇を裏切っで築いた室町幕府 当然 裏切り者の 足利尊氏・征夷大将軍に忠誠を誓う 大名は「多くなかった」
そのため「室町幕府は衰退」に向かう
そして12代征夷大将軍・足利義晴には 長男の「足利義輝」 次男には「足利義昭」が居て 当然、長男の足利義輝が征夷大将軍を引き継ぎ
13代・足利義輝・征夷大将軍になる
次男の足利義昭は 征夷大将軍を引き継ぐ継承権がなく 出家 僧侶になる
そのため三河の大名・織田信長は 天下人になり自分の世を築く為 足利尊氏が光明天皇を祭り上げ、室町幕府を築いたように
織田信長も、僧侶で征夷大将軍の継承権がない足利義昭を 15代征夷大将軍に祭り上げる
足利義昭は 征夷大将軍の継承権がなく 諸藩の大名・織田信長から 15代征夷大将軍に擁立
当然 征夷大将軍の資格がない足利義昭・征夷大将軍に 忠誠を誓う大名は少ない
ところが 足利義昭は 室町幕府の征夷大将軍 つまり「上様」で諸藩の大名は この上様「足利義昭・征夷大将軍」の「家臣」
この家臣である織田信長から 手玉に取られてたので 諸藩の大名で家臣の「織田信長を 不届きな不忠義者として織田信長の首を討ち取るよう命じる
しかし足利義昭・征夷大将軍は 元々 征夷大将軍の資格がない男で 諸藩の大名たちは足利義昭・征夷大将軍に、忠誠を誓う大名が少なく
結局、織田信長から滅ぼされてしまい この15代足利義昭・征夷大将軍で「室町幕府」崩壊
織田信長が 天下を取り 安土桃山時代を築く
民間人が、戦争の「犠牲」にされる
何時の時代の戦争も 戦争の犠牲にされるのは 罪もない民間人
米トラもイスラエルのネタニヤフも 頭がわ~~~るいアホで 民間人を犠牲にし イラン戦争、そのため イランの報復措置で、ホルムズ海峡封鎖 ペルシャ湾内の87か国のタンカー乗組員10名がイラン戦争の犠牲
イラン戦争で 罪もない民間人を 犠牲にした米トラもネタニヤフも「犯罪人」
太平洋戦争で B=29から焼夷弾を雨アラレのように投下 罪もない日本人を犠牲にしたルーズベルト は重罪人
さらに2発の原爆投下 罪もない日本人を 犠牲にしたトルーマンも 重罪人、しかし戦勝国の論理で 罪を問われていない
見出し・・対イラン軍事作戦の目的達成、ホルムズ開放は「防衛作戦」=米国務長官
ルビオ米国務長官は5日の記者会見で、米軍の対イラン軍事作戦について、濃縮ウランの確保がまだ実現していないにもかかわらず、目的を達成したと主張した。ホルムズ海峡での石油輸送の安全確保に向けた取り組みは当初の作戦とは別の小規模な防衛作戦だと位置づけた。
ルビオ氏の発言は、軍事行動を開始から60日以内に終了させることを義務付けた戦争権限法の規定にトランプ大統領が事実上違反しているとする議員らの批判をかわす狙いがあるとみられる。
イランとの戦争は2月28日にイスラエルと米国による空爆で始まった。トランプ氏は攻撃開始の48時間後に議会へ正式に通告したため、連邦議会の承認がないまま始めた戦争を巡る戦争権限法の下で、5月1日が60日間の期限となっていた。
ホワイトハウスは1日、「壮大な怒り作戦」の下での戦闘行為が終結したと宣言することでこの要件を回避し、ルビオ氏は記者会見でこの主張を強調した。
ルビオ氏は「壮大な怒り作戦は終結した。作戦の目的は達成した。新たな事態の発生を望んでいない。平和への道を選びたい。大統領が望んでいるのは合意だ」と述べた。
ホルムズ海峡の開放を目的とした新たな作戦「プロジェクト・フリーダム」については、当初の戦闘計画とは異なる、より小規模なものだと説明。防衛作戦だとし、米国は「攻撃を受けない限り」軍事行動には出ないと述べた。
この新たな作戦は、湾内に足止めされている船舶に乗船する87カ国の約2万3000人の苦しみを和らげることを目的としているとし、ホルムズ海峡で続く紛争により民間人の船員10人が死亡したことを明らかにした。
ルビオ氏は「彼らは孤立し、飢え、脆弱な状態にある。その結果、少なくとも10人の民間人の船員が死亡した」と述べたが、詳細は明らかにしなかった。
海峡からの退避については、多数の船舶と連絡を取っているとした。これはヘグセス国防長官が先に述べた内容と一致する。
さらに、米軍がホルムズ海峡でイランの高速艇7隻を破壊したことも明らかにし、航行の自由を回復するため、同海峡の通航路の安全確保を継続するとも強調した。
一方、トランプ米政権のウィットコフ中東担当特使やトランプ氏の娘婿であるクシュナー氏が外交的解決に向けて精力的に取り組んでいるとも語り、軍事対応と並行して外交ルートも模索している姿勢を示した。イランは交渉のテーブルに着き、条件を受け入れなければならないとも述べた。
外交的解決には、イランが「地中深くに」埋蔵しているとされる核物質の問題を取り扱う必要があるとも指摘。「これは非常に複雑で高度に技術的な問題だ。しかし、イランが交渉に応じる用意のあるテーマとその範囲、および協議を有意義なものにするために、冒頭で示す用意のある譲歩について、非常に明確な外交的解決策が必要だ」とした。
また、中国がイランに対し、ホルムズ海峡での行動がイランを国際的に孤立させていることを伝えることを望んでいると述べた。トランプ大統領は、5月14日─15日に北京を訪問する予定となっている。
イラン戦争は 米トラ と イスラエルのネタニヤフが「諸悪の根源」
見出し・・イランの“最も重要な交渉材料”──ホルムズ海峡で情報戦、イラン側の「決意」 専門家「どの船舶も危険」…停戦どうなる?
ホルムズ海峡が緊迫しています。アメリカの商船の通過やイランによるミサイル命中など、真偽がわからない情報が飛び交っています。専門家は、アメリカがイランを挑発する状況を食い止めないと停戦が反故にされ、紛争が拡大する可能性があると指摘します。
日本の識者・政治家は 世界一 頭がわ~~るい
論理的な思考が出来ず つぎはぎ、だらけのフランケンシュタインの化け物
見出し・・橋下徹氏「物語を語れない政治家」に苦言 自民・維新合意文書も「学生が書いたレジュメのよう」
元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏が5月4日、「BSフジLIVE プライムニュース」(BSフジ)にコメンテーターとして出演し、自身の「政治家論」について語った。
この日は「国論を二分する政策」というテーマで、出演者たちが防衛力強化や、天皇制のあり方などについて議論した。
番組後半では、国民を納得させるには政治家はどうあるべきかについて、橋下氏が熱く語りだした。番組冒頭でも「政治家というのは『物語』をつくらなければいけない」と主張していた橋下氏だったが、あらためて「国家の主導者にしても企業の経営者にしても、物語を語る力が必要だと思う」と強調。
「物語を語る力がなければ、相手方がいろんな議論を仕掛けてきたときに、対抗することができない」と断じた。
そのうえで、「日本の政治家には物語を語るだけの力があるのか。物語を語っているのか」と疑問を呈し、「手前味噌で申し訳ないけど、僕が維新をつくったときは『自立する個人』『自立する地域』『自立する国家』(を掲げた)。『自立する個人』を1番上に持ってきた意味、物語をしゃべれと言われたら、一晩中しゃべりますよ」と自負をのぞかせた。
ある識者が 武田信玄の先祖について解説
武田信玄の先祖は 甲斐(山梨県)ではなく 茨城県の 武田だと言う
これは本当だろう
見出し・・「豊臣兄弟!」でまさかの退場、武田信玄のルーツは山梨県ではなく茨城県
3日の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、徳川家康を三方ヶ原で一蹴し、さらに上洛を目指していた武田信玄が「まさかの餅」で急死して退場した。
戦国最強とされる武田軍団が甲斐に引き返したことで信長は窮地を脱し、孤立した将軍足利義昭は京から追放されて室町幕府は滅亡してしまう。
名門、甲斐武田家
甲斐武田家は戦国最強の軍団であるというだけはなく、この時代各地にあった多くの大名の中でも最も名門といえる一族でもあった。というのも、戦国時代の大名は斎藤道三のように氏素性もよくわからず、下剋上によって成り上がったものが多かったが、武田家は清和源氏の出で、鎌倉時代から続く守護大名の子孫だからだ。
あまたある武士のうち、清和源氏が最も由緒正しいとされた。
そして、清和源氏の嫡流は誰かという点を単に系図的な視点だけからみてみると、清和源氏の直系にあたるのは源姓を賜った経基の長男(満仲)の長男にあたる頼光の子孫である摂津源氏である。摂津源氏は代々武士として摂関家に仕えていた。
この摂津源氏が2流に分かれ、河内源氏と甲斐源氏となる。河内源氏の棟梁が鎌倉幕府をひらいた源頼朝で、甲斐源氏の棟梁が甲斐の武田氏である。
河内源氏の嫡流である源頼朝の系譜が途絶えた後は、甲斐源氏の嫡流である武田氏が、清和源氏嫡流に最も近い位置にあるといえる。
「武田」のルーツは茨城県
さて、武田氏は平安時代に源義光の子義清が常陸国吉田郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市武田)に住んで武田冠者と名乗ったのが祖である。つまり、武田氏の名字の地は山梨県ではなく茨城県にある。
武田信玄
武田信玄の先祖は 甲斐(山梨県)ではなく「茨城県の武田」だと言う、これは本当だろう
同じ鎌倉時代 越後(新潟県)の 上杉謙信の父親だった長尾為景は 越後(新潟県)ではなく「横浜の長尾」出身
この父親・長尾為景が「越後で大名」になり、越後で 息子の 長尾虎千代(後の上杉謙信)が誕生
そして長尾為景の息子・長尾虎千代が、越後の大名・上杉謙信になる
武田信玄も 父親・武田信虎が、甲斐の大名になり 甲斐で武田信玄 誕生
ところが 父親の武田信虎は 武田家の日誌「甲陽軍鑑」には 父親で大名の武田信は「気性が荒く」意に添わない家臣を虐待 領民に悪政を行い 息子の武田信玄は 女たらしで 父親の信虎が 何もできない甲斐性なしの息子として 甲斐から追放しようとしたと言う
そのため武田信虎から虐げられていた家臣たちが、息子の武田信玄の大名を望んでいたので 武田信玄が 父親の武田信虎を 甲斐から追放
武田信玄が 甲斐の大名になったと書き残されている
なぜ 父親の武田信虎が 息子の武田信玄を「甲斐性なし」と考え 甲斐から追放しようとしたのか 若い武田信玄は 女にモテるタイプで、女とばかり交わっていた為
「甲斐性」や「甲斐性なし」の 甲斐は甲斐に由来したのかも知れない
ところが 正室の「三条の方」が 労咳(肺結核)で、当時 肺結核は「不治の病」で、労咳になれば必ず死ぬ運命
正室(三条の方)は 労咳を治療する為 湯治を行っていたが 労咳のため 痩せ衰えてしまい 醜い容貌になり
武田信玄に 醜い容貌を見せまいとして 死ぬまで 武田信玄の 入室を「拒み続け」死去
しかし 武田信玄には 既に「結核菌が感染」
武田信玄も 時々 喀血 家臣たちが主君・武田信玄の体調を気遣い 休養するよう勧めるが
武田信玄は 長年の宿敵「織田信長」と 天下分け目の決戦
この戦いの最中 武田信玄の 病状悪化 遂に臨終の床に伏し 息子の武田勝義に遺言
「向こう3年 動いてはならぬ 困った事あれば越後の上杉謙信を頼れ」この遺言を残し 労咳で死去
ところが テレビ・ドラマでは 武田信玄が「餅を喉に詰まらせ死去」したことになっている
餅を喉に詰まらせた場合 吐き出すため ゴホン! ゴホン! 咳をする
この咳で、肺結核のため 肺から喀血 死去したのかもしれない
そのため 織田信長は 戦わずして 武田信玄に「不戦勝」
越後の上杉謙信は、武田信玄の訃報を聞き落涙したと 上杉家の日誌「上杉年譜」書き残されている
ところが 息子の武田勝頼は 遺言を無視 動いた為 織田信長と徳川家康に攻められ自害
こうして武田家 滅亡
女にモテていた武田信玄
だから 父親の武田信虎が、女とばかり交わっていたので 役立たずの 甲斐性なし として甲斐から 追放しようとした
しかし 武田信玄は 正室(三条の方)を労咳で亡くし、独身となり、女どもが寄り集まる
武田信玄に「惚れ抜いた」有名な侍女が「里美」で 武田信玄が 徳川家康の浜松城を攻める「三方が原の戦い」に 出陣する際
侍女の里美が 信玄に、次のような歌を贈っている
「愛しさを 御身の袖に 焚き込めて 京より帰る 日をば待たなん」
しかし 武田信玄は、織田信長との 天下分け目の決戦で、労咳が悪化 死去してしまい
里美は 遂に 武田信玄との再会を果たせなかった
しかし逆に 越後の上杉謙信は 僧侶だったので 正室も側室も持たず 一生、独身で 通す その為 子供がおらず 上杉景勝を 養子にしている
この上杉謙信の養子・上杉景勝が 武田信玄の娘「菊姫」を正室にしている
だから宿敵同士の武田信玄と上杉謙信は 宿敵であって 姻戚関係になる
女にモテた武田信玄
参考
女にモテていた武田信玄
戦国武将の中でも、武田信玄は男女問わず「人を惹きつけるタイプ」とよく語られていますね。
💘 信玄と女性の噂
戦国時代の武将としてはごく一般的ですが、武田信玄も正室と複数の側室がおり、多くの子どもをもうけています。
正室は公家出身の三条夫人で、それ以外にも諏訪御料人など複数の女性との間に男子・女子が生まれています。
また、娘たちは政略結婚の要として各大名家に嫁ぎました。例えば
織田信忠と婚約していた松姫
上杉景勝の正室となった菊姫
などがいて、武田家と他大名家との結びつきに大きな役割を果たしました。
🧑🤝🧑 「モテる」人物像としての信玄
後世の評価では、信玄は部下や周囲の人からの信頼が厚く、人情味のある「魅力的なリーダー」として描かれることが多いです。
政治や軍事だけでなく、領民保護や家臣への恩賞にも配慮した人物像が紹介され、現代の解説でも「人を惹きつけるカリスマ性」を持つ武将として語られています。
「女にモテていた」かどうかを史料で断言することはできませんが、多くの女性との婚姻関係や、周囲からの人気・カリスマ性を考えると、当時としても魅力ある男性像だったと見る解釈は十分成り立ちます。
竹の子の時期は 終わった
竹の子の成長は早く 1日に50cm~1mも成長してしまい 孟宗竹の竹の子の時期は終わり 今は7mほどの竹になってしまい 竹は固くて食えない
しかし まだ 40㎝程の竹の子もあり 幹の中ほどから 鎌で切取り 皮を剥くと
竹の子の先端部は 軟らかいので食い物になる
次は 破竹(淡竹ともいう)の竹の子が生えるシーズン
この破竹の竹の子は 孟宗竹の竹の子より「上品な味」がする竹の子
吾輩は 竹の子が大好き猫で 破竹の竹の子が 待ち遠しい
シナ竹(ちく)の竹の子
シナ竹の「シナ」とは「中国」の事で、中国産の「竹の子」を「シナ竹」と言い
中国では食べ物を「保存食」にしていて・・ 例えば「米の飯と魚」を 塩漬けにして発酵させた保存食が「鮨(すし)」
この中国の保存食の「鮨」が 日本に導入されたので 今でも すし屋の「看板」には 「鮨の屋号」を 掲げた鮨屋がある
「寿司(すし)」は 江戸時代 中国の鮨(すし)が 日本に導入されたが 中国の鮨は「発酵させた鮨」で 発酵するまで「時間が掛かる」ので 江戸の鮨職人は「天然の酢」を使った日本独特の「寿司」を作る
そのため 日本の すし屋の屋号には 鮨屋 と 寿司屋の 2つの看板がある
このように 中国では 食べ物を 発酵させ「保存食」にしていたので 竹の子も発酵させ 保存食にしていた
この中国の竹の子を 発酵させ保存食にしていたのが「シナ竹」で 昔 ラーメン屋では、ラーメンの具に シナ竹を 添えていた
しかし 今は 何処のラーメン屋にも シナ竹を 使っていない
多分 日中関係が悪化 中国の「シナ竹」を 輸入できなくなったのかも知れない
ただ シナを 漢字で「支那」と書き シナ(支那)は 日本軍が中国を「侵略」した当時 中国を 支那(シナ)と呼んでいたので
中国政府は 漢字の「支那」を使わないよう日本政府に要請した為
シナ竹は「メンマ」と呼ぶようになった
シナ竹 = メンマ
この シナ竹(メンマ)が 昔 ラーメンの具に使われていた
中国の竹の子 シナ竹(メンマ)と 日本の竹の子は 食感が全く違う
個人的には 日本の竹の子が 断トツに「美味い」
今夜の歌
昔 1941年 日米開戦(太平洋戦争)で、小学校の児童たちを 天皇中心の国家に教育するため 小学校が「国民学校」に 改名される
国民学校とは 児童たちと教師たちが 一緒に住む「寄宿舎」の事で 天皇を中心とする日本国家を築くための寄宿舎を「国民学校」と言い
この国民学校で 児童たちが歌っていたのが「お山の杉の子」
今夜は お山の杉の子を 吾輩が、リメークして歌います
・・昔~むかし その昔~~杉の木、林のすぐ傍に 小さな お山があったとさ~~ あったとさ~!
真ん丸~~ハゲた~その山は~~ いつでもみんなの笑い物~~!
これこれ!竹の子~~ 起きなさい~~お日様 ニコニコ声かけた~~声かけた~~!
・・・こうして竹の子は お日様の光を浴びて すくすく生えたのである
それを見た泥棒猫・・こりゃ しめしめ 抜き足 差し足で竹の子を盗み
こりゃ 美味えにゃ~~ うめえにゃ~~! 竹の子 大好き猫に なったとさ~~
なったとさ~~!
昔 国民学校で 歌われていた「お山の杉の子」
歌詞には・・これこれ! 杉の子~~ 起きなさい~~お日様 ニコニコ声かけた~~声かけた~~!
この「お日様が ニコニコ声かけた~~声かけた~~!」
と言う お日様とは 日本の「国旗」である「日の丸」の事で 国旗・日の丸とは 昭和天皇のことで
昭和天皇が、児童たちに これこれ杉の子(児童たち)に、日本国家を築くため 起きなさい・・声を掛けた意味
太陽とは 昭和天皇の事で ロシアの映画監督 アレキサンドル・ソク―ロフは 昭和天皇を「太陽」として映画製作したのが「太陽(昭和天皇・裕仁)」
ロシア人でも「太陽=昭和天皇=お日様」くらい知っている
太陽 = 昭和天皇・裕仁
ロシアの映画監督・アレキサンドル・ソク―ロフが 昭和天皇を「太陽」として制作
参考
終戦直前・直後の数日間における昭和天皇の苦悩を、一人の人間としての昭和天皇のプライベートがコミカルさ、シリアスさ、そしてペーソスを交えて描写された本作は、ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』に続く、アレクサンドル・ソクーロフ監督の、20世紀の指導者を描く4部作の3作目にあたる[1]。
ロシアの映画だが、セリフは全編日本語と英語である。
映画評論家の樋口泰人は、真偽は不明ながら、この作品は俳優たちに左右逆で演技をさせて、鏡に映したその鏡の映像をカメラが撮影したと聞いたと語っている[要出典]。
2005年ベルリン国際映画祭上映作品。同年第13回サンクトペテルブルク国際映画祭において、グランプリを獲得した。
妄想ずりずりが激しい日本識者
武田信玄の死因は 鉄砲傷が 死因などと言い出す始末
武田信玄と織田信長の天下分け目の戦いで、織田信長は「鉄砲軍団」で 織田信長が火縄銃を 最初に戦場に採り入れた武将で 織田信長の戦力は3000丁の鉄砲軍団
対する 武田軍勢は 日本最強の「騎馬軍団」で 織田信長の鉄砲軍団により武田信玄が被弾 死亡したと妄想
見出し・・武田信玄は鉄砲で撃たれたのか?死因をめぐる通説のウソと真相とは?
武田信玄の死は、戦国史最大級の「謎」の一つとして知られている。病死であったのか、それとも鉄砲で撃たれた傷が原因であったのか――。
名将として名高い信玄でありながら、その死因は今なお判然としない。本稿では史料と伝承を手がかりに、信玄の死因をめぐる諸説を検証する。
信玄の死と「3年間秘せよ」の遺命―鉄砲で撃たれたのか
武田信玄が志半ばにして信濃国駒場で亡くなったのは、元亀4年(1573)4月12日のことである。死を目前にした信玄は、「3年間、我が死を伏せよ」と命じたと伝えられる。この逸話は広く知られており、映画『影武者』では仲代達矢が信玄を演じ、その最期が印象的に描かれた。では、その死因は何であったのか。
まず取り上げるべきは、「鉄砲による負傷」が死因となったとする説である。元亀4年(1573)1~2月、信玄は徳川家康と三河国の野田城付近で攻防を繰り広げていた。軍記物『松平記』によれば、信玄は笛の音に誘われて城に近づいた際、徳川方の鳥居三左衛門に狙撃されたとする説がある。
また、野田城落城の際、逃亡した城兵が放った鉄砲の弾が信玄に命中したとする異説も伝えられているが、これらの説には大きな問題がある。信玄が鉄砲で撃たれた事実は、信頼できる一次史料には確認できず、それが死因であると裏付ける証拠も存在しない。したがって、これらは後世の伝承の域を出ないと考えられる。
有力視される病死説とその根拠
一方で、有力視されているのが病死説である。信玄には侍医がおり、その書状によれば、信玄は「肺肝」に病を抱えていたと記されている。具体的な病名は不明だが、この記述が病死説の根拠とされている。さらに後世には、信玄が胃がんだったとする説も唱えられたが、確かな史料的裏付けがあるわけではない。
信玄の死因をめぐっては、肖像も議論の対象となってきた。現存する肖像の中には、痩せた姿で描かれたものもあり、これをもって重病説を補強する見解もある。
しかし、この点には慎重さが必要だろう。問題は肖像の成立時期であり、それが死の直前の信玄を描いたものなのかは不明である。したがって、肖像の印象のみから病状を断定することはできない。
当時の医療水準という限界―信玄の死因は解明できるのか
さらに考慮すべきは、当時の医療水準である。戦国時代の医術は現代と比較して未発達であり、侍医の診断が現代医学の水準で正確であったとは限らない。「肺肝」に病があったという記述も、今日の医学的診断に基づくものではなく、症状の大まかな把握にとどまる可能性がある。
以上のように、武田信玄の死因については、鉄砲による負傷説と病死説が存在するが、いずれも決定的な証拠を欠いている。確かな史料に裏付けられた結論はなく、その死因は依然として不明である。戦国最強とも称された名将の死因が特定できない事実は、何も信玄だけに限らない点に注意すべきだろう。
主要参考文献
柴辻俊六『甲斐武田一族』(新人物往来社、2005年)など。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。・
歴史に半可通の日本識者
昔 何処の大名も 日々の出来事を日誌に書き残していた、たけだ武田家の日誌が「甲陽軍鑑」で 武田家の家臣 小幡景憲(おばた かげのり)が武田家の日誌・甲陽軍鑑を書き残している
武田信玄の正室(三条の方)は「労咳」だと言われていた
労咳は 文字通り 咳が出て痰が出る だから労咳だった明治時代の正岡子規もこう言っている
「痰 一斗 へちまの水も 間に合わず」
昔 労咳の治療法がなく ヘチマの水が労咳に効くと言われ 労咳だった正岡子規がヘチマの水を飲むが労咳で死去
昔は 肺結核を「労咳(ろうがい)」と言っていて 治療法がなく「不治の病」
労咳(肺結核)は結核菌が「空気感染」する病で、空気を吸うと結核菌が『肺に吸い込まれ」
肺が結核菌に侵され 肺病(肺結核)となり、肺が結核菌に侵されるため咳が出て 痰が出るようになり 重症化すれば肺から出血 喀血 遂に死亡する「不治の病」
空気感染する為 昔は肺結核が流行 各地に「結核療養所」が設けられていた
ところが英国の細菌学者フレミングが 実験用の培養地に「アオカビ」が繁殖
そのため アオカビで抗生物質のペニシリンが開発され さらに有効な抗生物質が開発され 肺結核は「治る病気」になる
しかし昔は抗生物質など無く不治の病
武田信玄の正室(三条の方)も結核菌が空気感染 労咳になっていて 治療法がなく 湯治で治療していたが 痩せ衰えて死去
空気感染なので武田信玄に結核菌が感染 武田信玄も労咳 そのため度々 喀血していて
家臣が 主君・信玄に休養を勧めるが 武田信玄は宿敵の織田信長と 天下分け目の決戦 しかし労咳が悪化 大量の喀血 臨終の床に伏し 死去
お袋も結核菌に感染 結核菌が 肋骨を侵し「肋骨カリエス」になり 片方の肋骨を摘出したので 左の乳房を失い 左胸が窪地になり我輩は 片方の乳房を吸い育てられた
豊臣秀吉の朝鮮出兵で 朝鮮人の耳や鼻を削ぎ落した倭軍
見出し・・平安時代の終わりごろから江戸時代の初期にかけて、武家社会では現代では考えにくい慣習がいくつも行われていました。
その中でも戦で殺害した敵の首を切り取り、それを倒した証として報告していた首検分(くびけんぶん)は、今となってはあまりにも異様に感じます。
少しでも名のある武将を倒すことが重要だった時代、首検分は「戦果の確認」でもあり、その後の恩賞にも影響することから、武士たちは積極的に敵の首を取り、それを証拠として持ち帰っていました。
首ではなく耳や鼻を削ぎ落とした「耳塚(鼻塚)」
しかし朝鮮出兵では、首の代わりに鼻や耳を削ぎ、それを戦功の証として扱った記録があります。
鼻や耳を戦功の証として扱ったことを物語るものが、耳塚(鼻塚)です。
場所は京都国立博物館と京阪七条駅の間にあります。
耳塚(鼻塚)に関する説明書きがあります。
朝鮮出兵に関するものであることから、その下にハングル語での説明があります。
耳と鼻をそぐように命じた秀吉は塚を建て供養した
全国統一を成し遂げた秀吉は、次の攻撃対象を大陸に定めて2度の朝鮮出兵を行いました。
特に2度目の慶長の役では、朝鮮半島に攻め込んだ日本兵が、朝鮮兵や援軍の明兵だけでなく、一般民衆の鼻や耳まで大量に切り取ったとされます。
それらを京都に持ち帰って埋めたものが耳塚(鼻塚)であると、明治から昭和にかけての民俗学者・南方熊楠(みなかた くまぐす)は論証しました。
複数の豊臣政権下の大名が発給したとされる「鼻請取状」では、三万もの鼻削ぎ(鼻を削って塩漬けにして持ち帰った)ことが確認できるとのこと。
ただしこれは一部であり、実際にはもっと多かった可能性があります。
朝鮮出兵で 朝鮮人の耳や鼻を 削ぎ落した経緯
昔の「戦い」は 大名(殿様)に仕える武士が「槍と刀」を持ち 鎧・兜を身に着け 馬に乗り
敵の大将を コロすと 生首を切り取り 主君の大名に、生首を「見せない」と
家臣が 本当に敵の武将を「討ち取ったか証明できない」ので 敵の武将を討つと
首を切り取り 生首を主君に 見せていた
それを見た 主君は おお! これは まさしく敵将の首である・・ 家臣の戦功を称賛
こうして 家臣(武士)は 立身出世していた ところが敵の武将(大名)とて そう「簡単に討ち取れない」ので
敵の兵士を「捕虜」にして 敵の武将・大名に「見せしめる」ため 捕虜にした敵兵の
耳や 鼻を 削ぎ落し 首を切り落としていた
他方 豊臣秀吉の主君・織田信長は「鉄砲軍団」で 豊臣秀吉も主君・信長母「鉄砲軍団」を引き継ぐ
しかし 鉄砲には「火薬」が必要
ところが 茶人の「千利休」は 堺の商人で 千利休の茶道の弟子だった「山上宗二」を豊臣秀吉に紹介
秀吉は 堺の商人だった 山上宗二 に火薬を 都合するよう命じる
しかし 山上宗二は「北条家に忠誠を誓い」 秀吉の言いなりにならず 秀吉は 家臣に命じ 山上宗二の 耳や鼻を 削ぎ落し 首を切り取るよう命じる
こうして 豊臣秀吉は 天下人になり 日本を支配するが 野望は尽きず 当時 中国は「明王朝」時代で
明王朝の征服を試みる 当時 朝鮮半島は「李氏朝鮮」で 明王朝の「冊封体制」で
明王朝に「服属」
そのため 豊臣秀吉は 明王朝に服属していた 朝鮮半島の「李氏朝鮮」を 征服するため 倭軍を「朝鮮出兵」
この朝鮮出兵で 秀吉は「知略家」の小西行長(このしぎょうちょう)を「先発隊」に指名
武闘家の「加藤清正」を 後発隊に指名する
そのため 後発隊の加藤清正は 先発隊の小西行長から「戦功を独占」されるため
加藤清正は 李氏朝鮮の国王・宣祖の 首を取れば 李氏朝鮮を 征服したことになるため 李氏朝鮮の国王・宣祖霊の 首を取ろうとする
しかし 国王・宣祖は「臆病で姑息な国王」で 側室との間にできた 王位継承権がない 光海君を 自分の国王の「身代わり」にして 光海君を 国王に擁立
自分は 朝鮮兵を引き連れ 安全地帯の江華島に逃げてしまう
これを映画化したのが 韓国映画「代位軍」
こうして 国王・宣言は 安全地帯に 逃げてしまい 加藤清正は国王・宣祖の首をを討つことが できなくなり
国王・宣祖霊の世子(皇太子)を 人質に取り 国王・宣祖を「誘き出そうとする」が
国王・宣祖は 臆病で卑劣な国王で、安全地帯に逃げ 加藤清正は 宣祖の首が取れず
国王・宣祖に「見せしめ」のため 朝鮮人の 耳や鼻を 削ぎ落す
ところが 主君の 秀吉は、耳や鼻を「塩漬け」にして 日本に送るよう指示
理由は 豊臣秀吉は 正室の北政所(寧々)との間に 子供が出来ず 側室の淀君との間に 豊臣鶴松が誕生するが 幼なくして病死
こうして 秀吉は後継ぎを喪い 当時 秀吉は既に高齢で「男性機能」が衰え 子供が出来ず 男性機能を回復させるには 耳や鼻を食うと 男性機能が回復 子供が作れると 信じてしまい 加藤清正が削ぎ落した 耳や 鼻を塩漬けにして日本に届けさせ
耳・鼻を食っていた これは「まじない」で 効果などあるはずがなく 高齢で病に 伏し 朝鮮出兵の途上で、病死してしまう
平安時代も同じで 猿の脳味噌を 食うと猿知恵を得ることができると「信られ」朝廷の官僚たちは 猿の脳味噌を食っていた
日本の静岡県の「古墳」で 朝鮮半島・百済の金具が 発掘された
しかし 日本識者は 歴史を説明できていない
見出し・・・帯金具が出土した須津千人塚古墳の石室=富士市教育委員会提供
古代東アジアの第一級の工芸技術で作られた、鳳凰(ほうおう)や鬼神などの文様を施した帯金具が静岡県富士市の須津(すど)千人塚古墳で出土した。同市が7日発表した。朝鮮三国時代の古代国家・百済で、泗●(さんずいに「比」)(サビ、現・忠清南道扶余郡)に最後の都が置かれた時代(538~660年)に、官人の身分を表すために使われた●(金へんに「誇」のつくり)帯(かたい、帯の飾り金具)の一部とみられ、日本国内での出土は初めて。
百済本国か百済系の技術者によって制作されたものとみられる。専門家は「当時の百済では墓に遺物を副葬する習慣が廃れ、同じような製品はほとんど見つかっていない。古代東アジアの交流を考えるうえで重要な工芸品だ」と話す。
なぜ日本の静岡県の古墳から朝鮮半島・百済の金属製の金具が 発掘されたのか
日本は3世紀 以前は「弥生時代」で この弥生時代 倭国は100余りの国々に分かれ その1国が 邪馬台国
他方 この弥生時代 中国は「漢王朝」の時代で 前漢の皇帝だった「武帝」が朝鮮半島を 支配し 漢王朝が 朝鮮半島を「統治支配」するための行政機関だった「楽浪郡」を
中国に近い 半島の北部に置く
しかし 朝鮮半島に昔から住み着いていた「古朝鮮人」が 漢王朝に「対抗」し 楽浪郡を 撤廃させ
朝鮮半島の 北部に「高句麗」を築き 半島の先端部の「西に百済」を築き 先端部の「東に新羅」を築く 百済と新羅の 真ん中に「加耶」を築く
この半島の先端部の 百済 加耶 新羅を「3韓」と言い 古墳時代に中央集権の大和朝廷が誕生
大和朝廷の天皇を「仲哀天皇」と言い この仲哀天皇の皇后だった「神功皇后」が
朝鮮半島の先端部にあった 百済 加那 新羅の 3韓を 成敗する
これが 古墳時代の「神功皇后の3韓征伐」
ところが 中国は後漢時代 日本は まだ「弥生時代」で 後漢の皇帝が 再度 朝鮮半島を支配 朝鮮半島の 北部・・現在の北朝鮮の平壌 辺りに「帯方郡j」を置く
そのため 倭国の1国だった「邪馬台国の卑弥呼」が 西暦173年
朝鮮半島の「帯方郡」に「使節を送る」
これは後漢の歴史書「漢書」に書き残されている
つまり 日本と朝鮮半島は 弥生時代から「交易を行っていた証拠」
そして 次は3世紀~7世紀にかけ「古墳時代」になり 古墳時代とは 日本の王族が 自分の遺体を 祭る「墳墓」を 古墳という
日本の王族どもが、自分の遺体を古墳に 埋葬していて
この日本の「静岡県の古墳」から 朝鮮半島・百済の金具が 発掘された
・・・このように説明すれば なぜ 静岡の古墳から 朝鮮・百済の金具が発掘されたのか 意味が分かるだろう
日本識者は 何時も 結果だけで なぜ 静岡の古墳から朝鮮・百済の金具が 発掘されたのか 歴史経緯を 説明せず
結果だけで 静岡の古墳から 百済の金具が 発掘された「結果」ばかり
古墳時代の「古墳」について「参考資料」ご案内
古墳時代とは 3世紀から7世紀に掛けた時代を「古墳時代』と言い、日本各地に「古墳」が 築かれた
福岡県・宗像の海「玄海」は 奇岩が目立つ「沖ノ島」があり 古墳時代
この「奇岩」が「そびえる沖ノ島」は「神が住む島」とされた
その為、豪族たちが神に近づく為 神の島に 以下のような 古墳を築く
古墳時代の5世紀・・神の島(沖ノ島)に「勝浦峰古墳」を築き
古墳時代の7世紀・・神の島(沖ノ島)に「須多田塚古墳」と「宮地嶽古墳」を築く
この神の島(沖ノ島)は 玄海にある島で 朝鮮半島の先端部にあった「百済」とを 繋ぐルートにある島
だから 古墳時代 静岡の古墳から 百済の金具が 発掘された
玄海の 沖ノ島(神の島)・・参考
世界遺産「神宿る島」・・宗像・沖ノ島と関連遺産群
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群は、ユネスコの世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)に基づき、8つの構成資産全てを世界遺産一覧表に記載することが、平成29年7月にポーランドのクラクフで開催された第41回世界遺産委員会において決定されました。
この遺産群は、航海安全や対外交流の成就を願う沖ノ島に宿る神への信仰が日本と東アジアとの交流が活発に行われた4世紀以降に発展し、約1600年もの時を経て、今日まで宗像の人びとによって受け継がれてきたことを示す物証です。
古代祭祀に遡る信仰の場である宗像大社の三宮(沖津宮・中津宮・辺津宮)、沖ノ島祭祀を担った古代豪族宗像氏の墳墓群である新原・奴山古墳群、「神宿る島」沖ノ島を遠くから拝む信仰の場である宗像大社沖津宮遙拝所から構成されています。
神社の太い枯れ枝が落下
太い枯れ枝が 境内に落下している光景を度々 見かける 台風など強風がなく無風でも 枯れ枝は必ず腐り重力に耐えきれず 落下する
太い枝が 参拝客を直撃すれば 運が悪いと即死
神社関係者は 枯れ枝は 伐採
見出し・・倒木で男性が下敷き…全身打撲 須磨海浜公園で2人けが 今年中に伐採予定…根の内部が腐敗か 神戸市「倒木の恐れある樹木は早期に伐採」
今月1日、神戸市にある須磨海浜公園で木が倒れ、近くにいた男性が木の下敷きになるなど、2人がけがをしていたことが分かりました。
神戸市によると、須磨区にある須磨海浜公園のテニスコート付近で今月1日、高さおよそ10mあるアキニレの木が倒れ、近くにいた男性2人がけがをしました。
徳川家康の「身代わり」になり討ち死にした家臣
これは紛れもない事実、次の投稿で その理由を説明
見出し・・徳川家康の身代わりになったのは本当か?三方ヶ原の戦いにおける夏目広次“美談”の真相とは?
戦国史のなかでも屈指の敗戦として知られる三方ヶ原の戦い。この戦いをめぐっては、徳川家康の命を救うため、家臣の夏目広次が身代わりとなって壮絶な最期を遂げた――という感動的な逸話が広く知られている。
だが、この「忠死の物語」は本当に史実なのだろうか。その実像に迫ってみたい。
信濃出身の譜代家臣と意外な経歴
夏目一族はもともと信濃国に本拠を置き、のちに松平氏に仕えた譜代の家臣だが、広次の経歴は不明な点が多い。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、あろうことか一揆衆に与して家康と敵対した。広次は一向宗の信者であった可能性が高く、主君に背いた過去を持っていたのだ。
一揆終結後、広次は徳川方に捕縛されるが、家臣らの助命嘆願によって命を救われた。その後、松平伊忠に仕えて功績を重ね、やがて家康から帰参を許されるに至る。こうして広次は再び徳川家中で地位を回復し、忠臣として重きをなす存在となっていった。
三方ヶ原で何が起きたのか
元亀3年(1572)12月、武田信玄との決戦となる三方ヶ原の戦いが勃発した。このとき、浜松城の留守を預かっていた広次は、櫓に上って戦況を確認した。
徳川軍の不利を察知した広次は、ただちに戦場へと向かい、家康に浜松城への帰城を進言する。しかし家康は、「ここで退けば敵の勢いが増す。このまま突撃して討ち死にする」と覚悟を示した。
それでも広次は再三にわたって撤退を勧めるが、家康は「敵兵に追いつかれれば同じことだ」と答えた。そこで、広次は自らが踏みとどまり、家康の身代わりとして討ち死にすることを申し出たという。
「身代わり突撃」は史実なのか
広次は家康の馬の向きを浜松の方角へと変え、そのまま走らせて逃がすと、わずか25~6人の兵とともに敵中へ突撃したとされる。十文字槍で敵を2人討ち取ったのち、ついに討ち死にしたという。家康はその忠死を深く哀れみ、法蔵寺に石碑を建立したと伝わる。
しかし、この一連のエピソードは『寛政重修諸家譜』に見えるものであり、同時代史料による裏付けは確認されていない。つまり、後世に編纂された史料に依拠した「美談」である可能性が高いのだ。
感動の裏にある「創られた歴史」
夏目広次の最期は、主君のために命を投げ出した忠臣の鑑として語り継がれてきた。しかし、その実像をたどると、一向一揆での離反や、後年の再仕官といった複雑な経歴が浮かび上がる。
決定的なのは、「身代わり」の逸話を裏付ける同時代史料が存在しない点である。こうした事情を踏まえれば、この物語は後世の顕彰や徳川家の正当化のなかで形成された可能性を否定できない。
歴史のなかで語られる「忠臣の美談」は、しばしば後世の価値観によって作られる。三方ヶ原の戦いにおける夏目広次の最期もまた、その一例として再検討する必要があるだろう。
主君の為なら 命を捨ても忠誠を尽くす
これが 愛する者の為に 自分が犠牲になっても守り通す心情と同じ
漫画家「水木しげる」は 太平洋戦争で 太平洋ニューブリテン島に派兵された 戦争体験を告白している
連合軍から猛攻撃を受け 左腕を 吹き飛ばされ 右腕だけになり 幸運にも生き残る
ところが 上官が なぜ生き残ったのか なぜ死ななかったのか 上官から殴られ、蹴られ 虐待され ピストルを差し出され自決を命じられた
理由は 日本軍人は「天皇の皇軍」
天皇に忠誠を誓い 命を捨てても 主君である天皇を守るのが皇軍としての責務
しかし 水木しげるは 死なずに 生き残ったため 上官から天皇に忠誠を誓ってない不忠義者として上官から・・軍人の命は枯れ葉より軽い 死をよしとしろ!と言われ ピストルを差し出され 自決を強要されたという
しかし1945年、日本敗戦 上官たちは自決してしまい 水木しげるは日本に生還 漫画家になったという 漫画は 右腕 1本で描く
この水木しげるの戦争体験記を見れば「意味が分かる」
日本は鎌倉時代から 主君に忠誠を誓い自分の命すら犠牲にするのが「武士としての尊厳」になっていて
太平洋戦争でも日本兵は 自分の命でも主君の天皇の為に投げ出しで守るのが「日本兵士の誇りと尊厳」になっていた
だから 自決(玉砕)は 天皇に忠誠を誓い 自分の命を投げ出すのが天皇の皇軍として「日本兵の誇りと尊厳」
だから東条英機が先陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず・・・・敵の捕虜になることは主君(天皇)の皇軍として「恥じすべき事」で 潔く「自決」すれば 主君に忠誠を誓い 主君を守り通した証明になる
だから織田信長が 朝倉・浅井に「挟み撃ち」され 窮地に陥るが、忠臣の羽柴秀吉が「身代わり」になり主君の織田信長を安全地帯に逃がしている
三方が原の戦いでも 武田の騎馬軍団に 追い詰められた徳川家康を 家臣が「身代わり」になり
討ち死にしても「武士としての誇り尊厳」で、当然の成り行き・・疑いの余地はない