カオスドラマX

Gray Traveller / 492

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わったん 2026/02/01 (日) 20:42:57 >> 488

病室は静寂だった。
開けた扉からは、外部の霧が入りこんでくる。
ベッドの上に、空の花瓶がいる。
上半身を起こし、白いシーツに埋もれるように。
花瓶の頭部には、水が満たされ、淡い光が揺れている。
管が首元を覆い、身体へと繋がっている。
輸液ポンプの微かな作動音だけが、時間の流れを示していた。

「――」

『――』

互いに見つめているかもわからない。
そんな奇妙な空気に、ニゲラはただ喉を鳴らして息を呑む。
一歩、入った。
足音が、やけに大きく響く。
そうして口を開けずにいるまま、ニゲラはベッド近くまでの軌跡を踏み抜いた。

「……」

言葉が出ることはなかった。
喉に溜まった感情が、重すぎる。
後悔。恐怖。懐旧。
そして、安堵に近い何か。
改めて感じる。
――彼が、生きている。
それだけで、胸が締め付けられる。

「……」
「……」

花瓶の様子を伺う。
患者服に書き記された技術の痕。
それは嘗ての研究員達が成してきた結晶であり、
その想いを受けて『個体』としての運命の中、幸せを享受した彼の証。
ニゲラはその服に記されたあらゆる研究の結果を読み解き、歯を食いしばる。

「……」

何を言えばいいかわからなかった。
彼はこの善良を前にして、言葉を綴るには自身に資格が無いことを痛感していた。
その言葉全ては選択であり、空の花瓶の想いさえも左右しかねない後悔が見えていた。
故に、ニゲラはその選択さえ恐れていた。
そして同時に

『――』

空の花瓶もまた、彼に言葉を発する事はなかった。
ただ、其処で何かを待っているだけ。
自身の命を救おうとし、研究対象としての運命を背負わせ、その役割さえも奪った男の事を、
在りもしない瞳で、眺めていた。

「……」
「……」

永遠にも感じる沈黙の時間。
幾度も針が動いた時、
そのローブの中から瞳を覗かせながら、悲痛の面影を残しながら、

「……君は……善良な人間だ……」

震える声で、彼は言葉を紡いだ。
それは宣言でも評価でもなく、ニゲラの胸に長く沈殿していた認識が、耐え切れず声帯を通って零れ落ちただけのものだった。

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