病室は静寂だった。
開けた扉からは、外部の霧が入りこんでくる。
ベッドの上に、空の花瓶がいる。
上半身を起こし、白いシーツに埋もれるように。
花瓶の頭部には、水が満たされ、淡い光が揺れている。
管が首元を覆い、身体へと繋がっている。
輸液ポンプの微かな作動音だけが、時間の流れを示していた。
「――」
『――』
互いに見つめているかもわからない。
そんな奇妙な空気に、ニゲラはただ喉を鳴らして息を呑む。
一歩、入った。
足音が、やけに大きく響く。
そうして口を開けずにいるまま、ニゲラはベッド近くまでの軌跡を踏み抜いた。
「……」
言葉が出ることはなかった。
喉に溜まった感情が、重すぎる。
後悔。恐怖。懐旧。
そして、安堵に近い何か。
改めて感じる。
――彼が、生きている。
それだけで、胸が締め付けられる。
「……」
「……」
花瓶の様子を伺う。
患者服に書き記された技術の痕。
それは嘗ての研究員達が成してきた結晶であり、
その想いを受けて『個体』としての運命の中、幸せを享受した彼の証。
ニゲラはその服に記されたあらゆる研究の結果を読み解き、歯を食いしばる。
「……」
何を言えばいいかわからなかった。
彼はこの善良を前にして、言葉を綴るには自身に資格が無いことを痛感していた。
その言葉全ては選択であり、空の花瓶の想いさえも左右しかねない後悔が見えていた。
故に、ニゲラはその選択さえ恐れていた。
そして同時に
『――』
空の花瓶もまた、彼に言葉を発する事はなかった。
ただ、其処で何かを待っているだけ。
自身の命を救おうとし、研究対象としての運命を背負わせ、その役割さえも奪った男の事を、
在りもしない瞳で、眺めていた。
「……」
「……」
永遠にも感じる沈黙の時間。
幾度も針が動いた時、
そのローブの中から瞳を覗かせながら、悲痛の面影を残しながら、
「……君は……善良な人間だ……」
震える声で、彼は言葉を紡いだ。
それは宣言でも評価でもなく、ニゲラの胸に長く沈殿していた認識が、耐え切れず声帯を通って零れ落ちただけのものだった。