―12区 病院前―
霧は、昨日よりも濃かった。
それは視界を奪うためのものではない。
足元や輪郭を曖昧にするためでもない。
前に進むという行為そのものを、意図的に鈍らせるための膜だった。
「……」
病院の外観は、かつてと変わらない。
白を基調としていた外壁は、薬品の揮発と煤の沈着により、まだらに侵されている。
壁面に残る流線状の染みは、雨ではなく、薬液が乾いた痕だ。
整然と並んでいたはずの窓列は、いくつかが割れ、いくつかは内側から板で塞がれ、
それらすべてが、ニゲラの後悔が止まった時の色のまま、静止していた。
「……現状の巣の中で、これだけ形を保っていられるのか……」
「ねじれや略奪者がいる中でも、結局、俺達の築き上げた技術はこのまま……」
病院を見上げるニゲラ。
その双峰をローブの影から覗かせ、自傷気味に口角を吊り上げる。
その笑みは喜びではなく、嘲りでもなく、
未だ整理しきれていない感情が、誤った形で表出した痕跡だった。
虚ろにも見えるその瞳には、
覚悟と呼ぶにはまだ脆く、
諦観と呼ぶには前を向きすぎている、
中途半端な光が宿っていた。
「透明の軌跡。お前の護衛は要らなかったな」
「ここに来るまで、結局誰一人として遭遇する事はなかった」
「そうみたいですね」
「ですが、道案内は必要だったでしょう」
「まだ扉の前にすら立っていない」
靴底が、乾いたコンクリートを擦り、短い摩擦音を残す。
それだけの音が、この場では異様に大きく響いた。
「……」
ニゲラの喉が、ひくりと鳴る。
呼吸を意識して吸い込んでも、肺の奥まで届かない。
決めたはずの足が、内部から命令を拒絶している。
「俺は……」
声にならない音が、歯の隙間から漏れる。
膝がほんの僅かに揺れ、視線は無意識のうちに地面へと落ちた。
ユンフは、そんな彼に背を向けて視線を病院へ向け続ける。
呼吸のリズムも、姿勢も一切変わらない。
ただ、案内人としての役目を遂行していた。
――否。
遂行しようとしている自分自身を、保っているだけだった。
一瞬、ため息にも似た微細な息が漏れ、ユンフは視線を伏せ、僅かに肩を竦める。
「自身が向き合うべき事柄が、形を成し始めると誰しも恐怖を抱きます」
「其処にある軌跡は決して穏和な事は無く、精神さえ蝕む程に自我を凝固することさえあるでしょう」
「それでも、向き合う過程が在った事こそが、その道筋を正しくする力になる」
「ニゲラさん、俺は提示するだけ」
「今、この場において、貴方が成そうとする後悔への前進は」
「酷く苦痛を伴うものだとしても」
「それさえ、思い出として担っていけば、その道を愛おしく思えるはず」
ユンフはただ言葉を重ねる。
その声色や表情に変化は見られなかった。
ただ、自身が都市の流れに抗う瞬間、
その道筋を確固たる軌跡として案内したある男の背中を瞳の奥で追憶し、その在り方を示した。
「……受け売りか?」
「真似はしきれていませんね」
「……情景を思い浮かべるんです」
「貴方が踏み越える一歩一歩を」
「手を伸ばす先を」
「未来を」
「それらが見える場所は、今どこにあるのか」
淡々と続けるユンフの背中を前に、彼は目を閉じた。
浮かび上がるのは白い病室。
天井。
善良な笑み。
「俺の案内は、其処までです」
「……」
「頼む、まだ、其処まで行けていないから」
「えぇ」
廊下は酷く静まり返り、機械音も、人の気配もない。
だが、完全な無音ではない。
過去、自身が製造した技術の痕。
過去、自身が築き上げた覚悟の痕。
過去、自身が成した後悔の痕。
「……」
病室に繋がる廊下の奥底。
且つて彼が立ち尽くした、後悔の焼け跡。
「ニゲラさん、貴方が見据えるべき場所は其処じゃない」
ユンフは一歩前に出て、
ニゲラの視線を遮るように、
その“嘗ての地点”を身体で塞いだ。
「……そうだったな……」
小さく、掠れた声。
そうして、ニゲラは歩き出す。
「……」
彼の背後で、ユンフは一瞬だけ、その悔恨の痕へと視線を向ける。
微細な違和感。
言語化する前に、視線を戻した。
「……」
ニゲラは病室の前に立つ。遅れてユンフもまた、彼の後ろで歩みを止めた。
扉の前に立つと、病院の空気が変わった。
霧が薄れる代わりに、消毒液と金属が混ざった、記憶を直接刺激する匂いが支配する。
「……」
ドアプレートには、掠れた文字。番号。
かつては個体名が記されていたであろう、その痕跡。
手が扉に伸びる。
だが、触れる直前で止まる。
「……」
病室の引き戸に額スレスレになるほど、接近して立ち尽くす。
過去と同じ、邂逅前の恐怖。
だが、それは昔とは異なった。
過去のニゲラは、彼に会いにきた訳ではなかった。
だが今は違う。
会う為に、この扉に手を掛けようとしている。
「……ッ」
それでも、ニゲラの手は震えを止める事は出来ず、カタカタとその場で振動するだけであった。
自身の情けなさに歯を食いしばり、ただ時が流れる。
そんな彼を、ユンフはただ後方で眺めるだけ。
「……透明の軌跡……俺は……」
「……」
「……ッ」
「……」
「……ッッ!!」
「……」
ニゲラの呼びかけに、男は一切の反応を示さなかった。
ただ、眺めるだけ。
言葉通り、ユンフは彼の軌跡を示し、その場までの案内を終えた。
後は、彼が選ぶだけ。
その選択さえ、誘導する事はなく、言葉も行動も、全ては透明であった。
「わかるだろ……俺は怯えている……」
「先まで覚悟を決めていたつもりでも、過去が俺を蝕む」
「都市の人間として逸脱した時から、俺の行動全てが俺自身の矛盾に痛みを与えてきた」
「選択する事で生じる後悔」
「俺は――この扉を開ける選択を――」
「……」
「……」
「……」
「……」
「見舞いに来たんだろ」
「――」
「……」
深く息を吸う。
そうして手をかけ、未来を描く場所を開いた。
病室は静寂だった。
開けた扉からは、外部の霧が入りこんでくる。
ベッドの上に、空の花瓶がいる。
上半身を起こし、白いシーツに埋もれるように。
花瓶の頭部には、水が満たされ、淡い光が揺れている。
管が首元を覆い、身体へと繋がっている。
輸液ポンプの微かな作動音だけが、時間の流れを示していた。
「――」
『――』
互いに見つめているかもわからない。
そんな奇妙な空気に、ニゲラはただ喉を鳴らして息を呑む。
一歩、入った。
足音が、やけに大きく響く。
そうして口を開けずにいるまま、ニゲラはベッド近くまでの軌跡を踏み抜いた。
「……」
言葉が出ることはなかった。
喉に溜まった感情が、重すぎる。
後悔。恐怖。懐旧。
そして、安堵に近い何か。
改めて感じる。
――彼が、生きている。
それだけで、胸が締め付けられる。
「……」
「……」
花瓶の様子を伺う。
患者服に書き記された技術の痕。
それは嘗ての研究員達が成してきた結晶であり、
その想いを受けて『個体』としての運命の中、幸せを享受した彼の証。
ニゲラはその服に記されたあらゆる研究の結果を読み解き、歯を食いしばる。
「……」
何を言えばいいかわからなかった。
彼はこの善良を前にして、言葉を綴るには自身に資格が無いことを痛感していた。
その言葉全ては選択であり、空の花瓶の想いさえも左右しかねない後悔が見えていた。
故に、ニゲラはその選択さえ恐れていた。
そして同時に
『――』
空の花瓶もまた、彼に言葉を発する事はなかった。
ただ、其処で何かを待っているだけ。
自身の命を救おうとし、研究対象としての運命を背負わせ、その役割さえも奪った男の事を、
在りもしない瞳で、眺めていた。
「……」
「……」
永遠にも感じる沈黙の時間。
幾度も針が動いた時、
そのローブの中から瞳を覗かせながら、悲痛の面影を残しながら、
「……君は……善良な人間だ……」
震える声で、彼は言葉を紡いだ。
それは宣言でも評価でもなく、ニゲラの胸に長く沈殿していた認識が、耐え切れず声帯を通って零れ落ちただけのものだった。
『……』
空の花瓶は何も応えない。
静かに水を湛えたその内部で、淡い光だけが、
呼吸に合わせるようにわずかに揺らいだ。
沈黙が、二人の間に横たわる。
ニゲラは唇を噛み、ゆっくりと息を吐く。
吐息の震えが止まらないのは、恐怖のせい。
彼は今、自分が何を選ぼうとしているのかを、はっきりと理解していた。
「……俺はな」
そうして、その選択から逃げる事さえ封じる。
「ずっと思っていたんだ」
「君に会いさえしなければ、俺の後悔は決して募る事はないだろうと」
「会ってしまえば、全て壊れると」
「俺が築いた理屈も、正当化も、研究者としての責任も、都市の人間としての感情も」
「……今思えば、君の笑みを見てから、俺という礎は破綻していた」
「きっとそれは、君だからこそであり、俺だからだったんだ」
空の花瓶は、ただそこに在る。
何も肯定せず、何も否定しない。
その透明な曲面に映る、自身の暗い顔を見つめ、ニゲラは自傷に近い動作で俯いた。
逃げるための視線ではない。
自分自身を直視することに耐えられなかっただけだ。
「怖かったのさ」
「俺は選択を恐れている」
「選べば、必ず後悔が付き纏ったからだ」
「故に、今現在まで背負った後悔だけで十分だって……」
「だから俺は、君という記録の消去を望んだんだ」
「でも、消す事を望んだんじゃない」
「向き合わない為に、焼こうとした……君という記憶を……」
花瓶の中、水を湛えた光が真正面に映る。
揺らぎのないはずの光が、今は歪んで見えた。
その光を受けて、ニゲラはゆっくりと顔を上げる。
目は逸らさない。
逸らす資格がない――逸らす訳にはいかないことを、彼自身が分かっていた。
「……それでも」
「それでも俺は、君が生きているという事実を受けて」
「安堵したんだ……ほっとした……」
「意味がわからないよな……俺は後悔ごと君を消し去りたかったはずなのに」
「俺は後悔を背負うなんて言い出したり……君が生きていてよかったと思ったり……」
「なんなんだろうな……」
「ただ、心の奥底で燻っていた感情にはいつまでも気づけずに居た……」
「俺は触発されたんだ。君の善良な笑みに」
「あれが君の本心かどうかさえも分からないけど」
「ただ、俺は、その笑顔を護りたいと、強く願ったんだ」
「俺は、君に治癒シーケンスを施す事が出来て……」
「……良かったと、思っていたんだ……」
『……』
声は弱い。
掠れ、崩れそうで、それでも確かに前に進んでいた。
「……君の笑顔は、都市の未来よりも護られるべきものだった」
「少なからず、俺はそうだと思ったんだ」
「君の役割は、都市の未来だったんだろう」
「でも違う」
「俺にとって、君の役割は」
「俺の心を照らし、都市の人間として欠如していた感情を取り戻す希望」
「『俺の未来』」
「止めるべきだった判断、俺の未来を護るための判断が出来なかった事」
「忘れられなかった記憶、結局俺は且つての仲間達さえ消し去って、君が与えられた役割を奪ってしまった」
「……言葉で紡ぐだけでは、決して赦されるものではない、わかっている」
「……それでも、言えなかった後悔は、したくないんだ……」
「……ごめんよ……」
『……』
『……』
『……』
『……ふふふ、想いの言葉が凄く長いや』
微かな笑声。
それは空気を緩めるものではなく、
沈黙に人の温度を与える音だった。
「……すまない……」
『それは、何に対して?』
「……」
「初めまして、と言えていなかった事に対して……」
『ニゲラさん、僕達はお互いに言葉を交わすことはなかったかもしれないけど』
『僕は、貴方から想いを受け取っていたよ』
「……?」
『治癒シーケンスへの移行を意見したのは、ニゲラさんだって』
『僕という標本に書いてある技術の一つを提示した人が言ってたんだ』
『それはきっと、貴方からの初めまして』
『僕という存在に役割を与えてくれた、かけがえのない人』
「……」
「……ただの気紛れだったんだ……」
「技術の証明を謳う為の研究員としての矜持でしかなかった」
「俺の初めましては、君という存在に対して決して誠実なんかじゃなかった……」
『誠実じゃなかったのはその後だよ』
『確かに僕は、研究対象としての道を歩む事になったけど』
『僕はずっと待っていたんだ』
『僕という標本に、貴方の言葉を記したかったのに』
『僕という役割が、貴方の想いを紡ぎたかったのに』
『僕という存在を、貴方が形成してくれたのに』
「……すまない……」
『……ニゲラさん』
『……僕はね、生きている間に』
『貴方との思い出を作りたかったんだ』
「――」
「――」
「――」
『それなのに、貴方は全然来てくれなかった』
『僕は、僕という役割を終えた後、都市の未来に』
『貴方との記憶を乗せたかったんだよ』
『……貴方が来てくれていたら、きっと僕は摩耗する事も無くて』
『より、誰かの役に立てているって実感が出来て』
『花を挿す場所は希望に満ちていて』
『本当に、幸せになれてたんだと思うんだ』
「――」
『……僕の命は、もう短いよね……』
『保存シーケンスの最終工程、その手前で僕達は大きく狂ってしまった』
『けど、まだ残っているよね』
「――」
『ニゲラさん、貴方の技術を……貴方の選択を、僕に記して欲しい』
『もう、都市の未来には羽ばたくことは出来ないけど』
『役割の無い僕だけど』
『生きている今を、精一杯足掻いてみたいんだ』
「――」
言葉を紡ぐには、感情が押し寄せていた。
「――」
自身が選んだが故の後悔は
「――」
決してその選択を恨む事無く
「――」
ただ、未来(ニゲラ)へと歩む為に、輝いていた。
『これから、出来るかな?』
「――」
「――」
「――いいのか」
「俺は、君を――」
『貴方が選んだから、だよ』
「――」
「あぁ、そうか。そうなのか――」
「俺が後悔だと思っていたものは全て――」
「俺の望んでいた事に、繋がっていたんだな――」
二人の空間に、一輪の花が差し出される。
「……これは……」
ニゲラへと差し出された花。
それは、枯れた花だった。
花弁は色を失い、茎は脆く、
生きていた痕跡だけが、かろうじて形を保っている。
「貴方の嘗ての場所」
「既にあの時、貴方は見舞いに行く選択をしていた」
「悔恨を背負ってでも、その覚悟は本物だったんだ」
――嘗ての地点。
悔恨の痕に残っていた、違和感。
「……そうか……」
乾いた笑みが、ほんの一瞬だけ浮かぶ。
枯れてなお、捨てられず、
意味を与えられないまま残ったもの。
ニゲラは、両手でその花を受け取った。
「……」
花を受け取ったニゲラを見て、ユンフは病室の外へと出ていく。
「……これは……俺だったんだな……」
折れないよう、壊さないよう、
まるで贖罪ではなく、世話をするような手つきで。
「そして、君に伝えたかった、俺の想いであり」
「君に送る、見舞いの言葉」
枯れた花を、花瓶に添えた。
「≪リクニス≫」
『……』
『……うん……』
『嬉しいよ……ニゲラさん……』
それは、形では分からない。
善良の笑みだった。
霧は既に、病室から消えていた。
病室の外、晴れない霧の中、その重き廊下で会話を酌み交わす。
「ねじれの根本は理想の自分の発芽」
「あの姿は、貴方を待つが故に形を成した云わば彼の未来です」
「……憂鬱に塗れた姿ではありましたが、きっとそれは貴方との思い出が満たされていないが故に発症したもの」
「……俺とリクニスの時間が思い出として重なっていけば」
「元の姿に戻れるかもしれない……そういうことか……?」
「ねじれた人間が本来の姿に戻るには、強い衝撃が最も効果的ではありますが」
「貴方達の繊細な関係に俺は鋼鉄を振るう気にはなりませんからね」
「……短い命、とは言ってはいましたが……」
「どうか、その僅かな時の中でも、思い出を紡いでいってください」
「…………」
「……ユンフ……聞きたい事がある……」
「どうぞ」
「俺の過去を垣間見た上で、俺とあの子の未来への扉まで、お前は案内してくれたな」
「……言ってしまえば、俺は且つての仲間を殺した奴だ」
「そんな奴の肩を取り持って、お前の軌跡は穢されたりしないのか……」
「復讐の怨嗟に、俺は微塵も興味がありません」
「同時に、俺は割り切ってもいます」
「黒か白かで裁かれる都市の流れの中で」
「俺は常に裁かれずにいる灰色の戦いに身を置いている事を」
「……」
「……すいませんね……」
「貴方の言った通りです。俺の旅路は結末を描いてこそ、軌跡になぞられる」
「例えどんな結末であったとしても、俺は其処で紡いだ物語を彼女に伝えたいんです」
「……だから、俺の思うように、そうしたいと思ったから、この物語に手を貸したんです」
「……お前に聞いたよな……」
「お前なら、命をどう選ぶか……」
「お前は俺の立場だったら、リクニスを選ばないと言っただろ」
「……本当に……そうなのか?」
「選択には後悔が付き纏うものです」
「ただ、俺はその過程さえも思い出として紡ぎ、ある人に伝えるため」
「……どちらも選ぶ事さえ、俺はしたかもしれません」
「……俺が聞きたいのは……其処にお前の想い人が居たら――」
「俺はアトリちゃんを選ぶ」
「……」
「そこは、一緒なんだな……」
「都市の人間ではないので」
軽い一礼を残す。
ねじれの解決にまで至る事はなかった。
だが、その心配もない。
示した方向標に向かって歩み、その先を選択した者が居る。
なら、後はその先の道を歩むだけ。
ユンフは霧が立ちこむ廊下を歩む。
「……」
「アトリちゃん」
「おはようと一緒に」
「お見舞いも、君へ」
12区の病院に纏わるねじれの記録消去依頼。
彼はその全てを、鋼鉄を振るう事なく、望まれない形で終える事もなく完遂した。
その旅路を描こうと足早に、病院を出て行った。