The Lathe of Heaven (Ursula K. Le Guin, 1971 天のろくろ)について。
第二章、ヘイバーがオアに深呼吸をさせるときに『十数えるあいだ吸って、五つ止めて』と教示する。呼吸法を教える文章は何度もみてきたし、わたしが最初に教わったときどうだったかもう忘れたが、この、十とか五とかの拍を数える、その「数」がいくつかはどうもいつも一定しないことを書かれる。七つ数えろ、八つ数えろ等。最近も何か所か……
こうしたエクササイズなり心理学なりについて、指導している人は、教えるたびに拍数を変えて教えているわけはないだろうから、教える側は指導者それぞれに七、八、十というどれかを信じて決めているだろうとわかる。一方、教わる側や、本で読む読者は指導者によって毎回ちがったカウントを指示されているようで、この「数」自体には意味はないのかとじきに思う。心臓の拍動のリズムのような人間共通の生理にしたがう根拠があるわけではないのか……。漠然と訝るのはわたしだけではないし、現在でもそうだろう。本なら、半世紀前の本でも今読んでいることだし。
今いっているのは『口頭か文章の教示で、信じろと伝えること』についてで、呼吸法やそのコントロールの効用についてではない。効用はあるのはわたしは実践して知っているが、その説明にもちぐはぐなことが言われていたのも見ている。
効用のことはわたしの今の考えでは、深呼吸による酸素の供給量……は、それほど変わるまいし、変わるとしても酸素や酸欠をなかなか自覚できまいと思う。交感やら副交感の神経系のはなしのうえで、「呼吸と瞬きは人間のする随意と不随意動作の中間にあるから」呼吸を随意行動として拍数を数えながら行ってみることで、心身モードの切り替えを「コントロールできる」と教える方が有益だったと思っている。それはできると知っている、知識の有無は確かに役に立つ。ただし、「コントロールしろ」とそれだけを言い聞かす教師は有害だ。これは別の話だし、ル・グウィンの読書とはやや違ったので、ここまで。
エクササイズのプロのトレーナーや、軍の教官や、心理学の専門家でも、言葉の使いようには不如意らしいことはきっとよくある。
第三章まで。
1970年代ル・グウィンここまで、テレパシーで嘘をつけるかどうかについてや、竜の言葉で嘘をつくこと、言葉で「信じろ」と説くこと、だったりしたが、こんどは、「夢を見ろ」と命じることという……。
ゲド戦記でさえ、肝心のところは「魔法使いが物事の真の名前を学んだり呼ぶこと」ではあまりないように思えるのだが、現代のファンタジー論でもそう強調されるのを知ってる。
第四章、今ごく素朴な疑問で、夢というのはプライバシーの問題としてどれくらい扱えるものなんだろうか。2025年現代でもわたしはよく知らない。
『プライバシー! なんたるエリート主義、なんたるヴィクトリア朝風概念。昨今ではプライバシーなどというのは、つつましやかな上品さという言葉とほとんど変わらない古風で珍妙な印象しか与えないように思われる』なんて、前回は茶化したことを言っていた。
アメリカではそうだが、日本では1970から80年代頃にプライバシーというのは、まず認知されたい、獲得したいというまだまだプライバシー後進国の態度でSF読者も、文学者も読んだだろうと想像するから、こうした小説もどんな風に受容されていたのか当時のことは怪しい。一方でPKディックなどはすぐさま連想するんだろう。
井辻朱美さんのファンタジー本を読まずにまだ積んでいるけど、このあとするのが漠然と不安だな……。悪いことはいわない。
わたしにはわたしの経緯があってここまで読み戻っているのだが、やはり去年ダンセイニをまとめて読んでいたのが大きい。とくに、初期のではなくて1930年以降晩年までの後期作品について。しかも、それはまだまだ日本の読者として理解が足りない。
かつ、ダンセイニを読んでいる人はじわじわと「反トールキン」的なスタンスになっていくような印象がわたしはあったけど、ダンセイニとトールキンの間を繋いでくれる糊になってくれるのがル・グウィンを今に読む興味にもなる。それは今まで思ったことがなかった。これは良い。
第六章まで。
「自由だ! 君の無意識は恐怖や堕落の汚水溜じゃないんだ。そんなのはヴィクトリア朝の考え、おそろしく破壊的な考えだ。それこそが十九世紀の偉大な精神のほとんどを片輪にし、二十世紀の前半の心理学をすっかり骨抜きにしてしまったんだ。自分の無意識を恐れるんじゃない! それは夢魔でいっぱいの黒い穴なんかじゃないんだ。そんなものとはまるっきり違う! それはまさに健康と想像力と創造性の泉だ。我々が『悪』と呼んでいるものは文明の産物であり、人格の自発的で自由な自己表現をゆがめる文明の束縛であり、抑圧なんだ。精神病治療の目的はまさにここにあるんだ。すなわち、根拠のない恐怖や夢魔を除去し、無意識内のものを合理的意識の光の下に持ち出して客観的に調べ、怖れるものなど何もないということを発見することにね」
ヘイバーは動転しているし、1971年でもこんな台詞を吐く人はかなりおかしい。ただ、そちらに水を向けてやれば、これくらいの考え方で自由や抑圧について喋りだす人は2025年でも案外いるかもしれない。身近にいそうな気はする。SF小説の人物としては、2020年代の新作には居場所がないと思う。
半世紀で人間の考え方がそれほど変わっていとはわたしは思わないけど、言葉づかいが変わっているとは思え、現代に「自由」とか「セルフコントロール」と日常の端ででも口にすれば、わりと敏感に、何かしら不審な目で周りから見られはするだろう。自由などは猥褻語の内になっているので、平然と口にするのは恥ずかしい人だと思う。
今の言い方に近くすれば、『好きなことをしていいが、他人に迷惑をかけちゃ駄目だよね』――だよね、ね?、というのが現代で上のヘイバーとほぼ同内容だろう。それはネットのSNSなどでも見る。 偏向していることでは同じで……他人の中で生きていれば他人に迷惑をかけることは避けがたいが、そうなると人間だから仕方ないのように退歩するなら、それはもともと自由でも何でもなさそうなことだ。大衆がそういう逃げ口に馴れるのは古代から変わらないが、モラルの話にかぎっては、そこにモラルは言えない。
何でも言える、とか、建前に使うという言い方をされていれば、そこにモラルがないことは気づくという話。やはり今ル・グウィンの小説の内容とは関係が薄いのかもしれんかった。
小説の場合は、これでどうやって面白くストーリーを転がすかだ。あまりにも態度がコテコテでコチコチの人物だと、彼は滑稽にみえ、話もあまりシリアスに聴こえなくなるかもしれない。だから、この話は寓話です、おとぎ話ですよという風には聴こえる。ここが大事なテーマですよ!とは聴こえないし、聴かせないだろう。
読者の皆さん聞いてください! ここが大事なんです、これは大切なことを言っていますよ! と書いてあれば、そんなものを読む人は誰もいないだろうと思う。かと思えば、意外なほどに読者は教条的でもあり、阿呆でもあるのは現代でも同じじゃないのか……と思うのはせっかく本を読んでいても時間の無駄で勿体ない。
人間には光も闇もあるから光属性に偏るのはよくないんだよね、と、とくにモラルでもないが「ね?」という促し含みで言われ、さらに「根拠はル・グウィン」と念押されるとややこしい。それがいやなだけで現代の読者がル・グウィンが嫌いになりかねない。わたしのことか。
第九章まで。
『天のろくろ』読了。次は『さいはての島へ』
わたしは、ゲド戦記のシリーズを通してもそれについて感想などはあまり発言やメモをしないと思うし、それぞれ進捗が滞るとはあまり思わないので、トピックは「アースシー」シリーズまとめで行こう。
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第二章、ヘイバーがオアに深呼吸をさせるときに『十数えるあいだ吸って、五つ止めて』と教示する。呼吸法を教える文章は何度もみてきたし、わたしが最初に教わったときどうだったかもう忘れたが、この、十とか五とかの拍を数える、その「数」がいくつかはどうもいつも一定しないことを書かれる。七つ数えろ、八つ数えろ等。最近も何か所か……
こうしたエクササイズなり心理学なりについて、指導している人は、教えるたびに拍数を変えて教えているわけはないだろうから、教える側は指導者それぞれに七、八、十というどれかを信じて決めているだろうとわかる。一方、教わる側や、本で読む読者は指導者によって毎回ちがったカウントを指示されているようで、この「数」自体には意味はないのかとじきに思う。心臓の拍動のリズムのような人間共通の生理にしたがう根拠があるわけではないのか……。漠然と訝るのはわたしだけではないし、現在でもそうだろう。本なら、半世紀前の本でも今読んでいることだし。
今いっているのは『口頭か文章の教示で、信じろと伝えること』についてで、呼吸法やそのコントロールの効用についてではない。効用はあるのはわたしは実践して知っているが、その説明にもちぐはぐなことが言われていたのも見ている。
効用のことはわたしの今の考えでは、深呼吸による酸素の供給量……は、それほど変わるまいし、変わるとしても酸素や酸欠をなかなか自覚できまいと思う。交感やら副交感の神経系のはなしのうえで、「呼吸と瞬きは人間のする随意と不随意動作の中間にあるから」呼吸を随意行動として拍数を数えながら行ってみることで、心身モードの切り替えを「コントロールできる」と教える方が有益だったと思っている。それはできると知っている、知識の有無は確かに役に立つ。ただし、「コントロールしろ」とそれだけを言い聞かす教師は有害だ。これは別の話だし、ル・グウィンの読書とはやや違ったので、ここまで。
エクササイズのプロのトレーナーや、軍の教官や、心理学の専門家でも、言葉の使いようには不如意らしいことはきっとよくある。
第三章まで。
1970年代ル・グウィンここまで、テレパシーで嘘をつけるかどうかについてや、竜の言葉で嘘をつくこと、言葉で「信じろ」と説くこと、だったりしたが、こんどは、「夢を見ろ」と命じることという……。
ゲド戦記でさえ、肝心のところは「魔法使いが物事の真の名前を学んだり呼ぶこと」ではあまりないように思えるのだが、現代のファンタジー論でもそう強調されるのを知ってる。
第四章、今ごく素朴な疑問で、夢というのはプライバシーの問題としてどれくらい扱えるものなんだろうか。2025年現代でもわたしはよく知らない。
『プライバシー! なんたるエリート主義、なんたるヴィクトリア朝風概念。昨今ではプライバシーなどというのは、つつましやかな上品さという言葉とほとんど変わらない古風で珍妙な印象しか与えないように思われる』なんて、前回は茶化したことを言っていた。
アメリカではそうだが、日本では1970から80年代頃にプライバシーというのは、まず認知されたい、獲得したいというまだまだプライバシー後進国の態度でSF読者も、文学者も読んだだろうと想像するから、こうした小説もどんな風に受容されていたのか当時のことは怪しい。一方でPKディックなどはすぐさま連想するんだろう。
井辻朱美さんのファンタジー本を読まずにまだ積んでいるけど、このあとするのが漠然と不安だな……。悪いことはいわない。
わたしにはわたしの経緯があってここまで読み戻っているのだが、やはり去年ダンセイニをまとめて読んでいたのが大きい。とくに、初期のではなくて1930年以降晩年までの後期作品について。しかも、それはまだまだ日本の読者として理解が足りない。
かつ、ダンセイニを読んでいる人はじわじわと「反トールキン」的なスタンスになっていくような印象がわたしはあったけど、ダンセイニとトールキンの間を繋いでくれる糊になってくれるのがル・グウィンを今に読む興味にもなる。それは今まで思ったことがなかった。これは良い。
第六章まで。
ヘイバーは動転しているし、1971年でもこんな台詞を吐く人はかなりおかしい。ただ、そちらに水を向けてやれば、これくらいの考え方で自由や抑圧について喋りだす人は2025年でも案外いるかもしれない。身近にいそうな気はする。SF小説の人物としては、2020年代の新作には居場所がないと思う。
半世紀で人間の考え方がそれほど変わっていとはわたしは思わないけど、言葉づかいが変わっているとは思え、現代に「自由」とか「セルフコントロール」と日常の端ででも口にすれば、わりと敏感に、何かしら不審な目で周りから見られはするだろう。自由などは猥褻語の内になっているので、平然と口にするのは恥ずかしい人だと思う。
今の言い方に近くすれば、『好きなことをしていいが、他人に迷惑をかけちゃ駄目だよね』――だよね、ね?、というのが現代で上のヘイバーとほぼ同内容だろう。それはネットのSNSなどでも見る。
偏向していることでは同じで……他人の中で生きていれば他人に迷惑をかけることは避けがたいが、そうなると人間だから仕方ないのように退歩するなら、それはもともと自由でも何でもなさそうなことだ。大衆がそういう逃げ口に馴れるのは古代から変わらないが、モラルの話にかぎっては、そこにモラルは言えない。
何でも言える、とか、建前に使うという言い方をされていれば、そこにモラルがないことは気づくという話。やはり今ル・グウィンの小説の内容とは関係が薄いのかもしれんかった。
小説の場合は、これでどうやって面白くストーリーを転がすかだ。あまりにも態度がコテコテでコチコチの人物だと、彼は滑稽にみえ、話もあまりシリアスに聴こえなくなるかもしれない。だから、この話は寓話です、おとぎ話ですよという風には聴こえる。ここが大事なテーマですよ!とは聴こえないし、聴かせないだろう。
読者の皆さん聞いてください! ここが大事なんです、これは大切なことを言っていますよ!
と書いてあれば、そんなものを読む人は誰もいないだろうと思う。かと思えば、意外なほどに読者は教条的でもあり、阿呆でもあるのは現代でも同じじゃないのか……と思うのはせっかく本を読んでいても時間の無駄で勿体ない。
人間には光も闇もあるから光属性に偏るのはよくないんだよね、と、とくにモラルでもないが「ね?」という促し含みで言われ、さらに「根拠はル・グウィン」と念押されるとややこしい。それがいやなだけで現代の読者がル・グウィンが嫌いになりかねない。わたしのことか。
第九章まで。
『天のろくろ』読了。次は『さいはての島へ』
『天のろくろ』読了。次は『さいはての島へ』
わたしは、ゲド戦記のシリーズを通してもそれについて感想などはあまり発言やメモをしないと思うし、それぞれ進捗が滞るとはあまり思わないので、トピックは「アースシー」シリーズまとめで行こう。