新海底軍艦
『リーンの翼』に入る前に、菅野よう子音楽の続きで「エスカフローネ」を前回聴いていた。これはこれで良いものだけど、バイストン・ウェル的な気分には結局ならんかった。「ワーグナーみ」のような楽しみはわたしにある。
しばらく音楽の気分が途切れてしまい、意気消沈している間、∀ガンダム頃までの時期的な連想から「青の6号」(1998年のOVA)とTHE THRILLの昔のアルバム等聴いていた。青の6号は別にそのうち見直そうと思った。この気分はバイストン・ウェルと関係ない。
潜水艦つながりでクラウス・ドルディンガーの「Das Boot (Uボート)」のサントラ(1981)を聴く。わたしはドルディンガーはジャズ方向の趣味から彼のバンドのエアポート等を聴いていた頃がありつつ、サントラは聴いたことがなかった。これはこれで良い収穫だと思い、そのついでで「海底軍艦」(1963)を聴こうと思った。それが、今日すぐ手元にはない。
わたしは今になると伊福部昭の音楽を聴くともう伊福部昭にしか聴こえないのでもある……。お弟子の和田薫さんの音楽は富野アニメに案外合うのでは?と思ったことはあるけど、その接点はなかったようで残念だ。それで「新海底軍艦」(1995)を聴こうか、と思いついてきた。天野正道音楽にはガーゼィのときに少しだけ触れていて、そのときにその気はとくになかった。
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『リーンの翼』の小説を読んでいる間は、迫水のここまでの物語はそれほど勇壮なヒロイックになっておらず、どっちかというと奇っ怪で幻妖世界を漂流しているところ。おもにフェラリオの印象。海軍のような軍楽的な気分ではない。
特攻について長く思いを耽っているときにも、やはり傷心の気分、ペシミスティックな響きだろうと思う。それを強くすると「マッチョのための音楽」とも去年には表現していた。ちょうど溝口・菅野からの連想になるなら、「人狼」。
ただ、それとも今ひとつそぐわないようで、太平洋戦争を考えているときは「映像の世紀」(加古隆)みたいな気分だ。それはむしろ、完全版の後半、3巻の印象はそれだと思う。加古隆は、わたしには耳に痛いくらいやはり感傷的な作品が多くて、「責められている気がする」とも前に書いた。ギルト感情がある。アニメばかり聴いているわけではないけど、劇音楽の蒐集と興味は以前に多少あったのでついでに思い出す。
樋口康雄は今聴かない。ガンダムXと火の鳥2772は今度聴く。
「海底軍艦」今はサウンドトラックを聴く。SF交響ファンタジーの3番より、のような印象になりつつある。
上でも書いたが、わたしは今、伊福部昭を聴いて伊福部音楽の年譜以外に連想しなくなってきている。ゴジラを聴いてもゴジラのイメージが湧かないくらい。
別宮貞雄 交響曲第1番
昨夜から気持ちに引っかかっていたのだけど、いま聴いてみてやっと腑に落ちたらしい。この交響曲第1番(1961)を『リーンの翼』のイメージと重ねたことはなかった。
別宮貞雄を聴き返しているのは前から。わたしは主に「有間皇子」からの関心の続きで、この1番にも音楽の外にその連想がもともとある。印象裡には蘇我赤兄や鯯魚の場面が浮かぶ。その凄惨で、悲惨で陰惨だが同情はしかねるような、客観的にはコミカルでさえあるストーリーの絵巻が流れ、ちょうどリーンの翼でいう『真に、惨……』というような複雑な感情になっていた。全体的にふわふわした曖昧な感じがここまで1,2巻の、わたしの印象にあったのはこれだったみたいだ。この4楽章は南極観測隊の記録映画のための音楽が元らしく、活劇めいた雰囲気もかなりある。
別宮貞雄は終戦のときにはひたすら「解放」と捉えていたという理学生で、かつての迫水のようないわゆる軍国青年とは程遠い。当時から反戦のインテリではある。交響曲では、さらに後の第4番(1989)が自身の戦時中の記憶をたどった「夏1945年」という表題になるが、それはこのあと、次回聴こう。1,2,4番かな……。今夜はここまでにする。文芸や音楽の、個人的な連想が繋がる夜は良い気分だ。