心の物語
「第三章 新国家に生きる」
オーラバトラー開発史はひとまず置き、章題の通りメッオの新しい国家建設の展望を語る。迫水と語っているのはおおむね最近にコモン界に落ちてきた地上人、おもに軍人達。二十世紀世界の政治批判、その分析というディスカッションが続く。歴史が苦手な読者のことも、逆にこういう座談的なノベルが大好きな読者というのもわたしは想像つくのだが、文中の批評が妥当かどうかよりも、語る態度自体がときに高踏的で無責任でもありがちだとはあらかじめ承知したほうがいいと思う。
小説なので本来注意するのは、この忙しい生活の中で迫水の気持ちがどこにあるのか、徐々に変わっているならどこが変わっているのか見落とさずに追っていくのは、かえって、案外むずかしい。
ふわっと読んでいると、読者の印象は「最初と最後だけ」……特攻隊員であったこととオウカオーで昇天したこと、だけを結びつけて、あとリンゴの歌と天皇がどうのこうの、とだけを記憶して終わってることになってそうではある。すべて、地上と地上のことだけ憶えている、そのような印象になっているとしたら『バイストン・ウェルの物語を憶えている』とはいわない。
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コモン人も地上人もおなじ人か
迫水の心の動くところ、心情、感情に注意すること。バイストン・ウェルは魂の物語。
蓼科中尉がコモン界の政治を解説し、ドイツと同じようにヘリコンの地で民族が独立したがるのは、条件が同じなら人間はそう振る舞うという『人間の問題』ではなく、各集団の勢力関係の間で国家が何を志向して振る舞うかには法則があるという『政治の問題』だという。――
異生物。根本的な条件が違うかもしれない。ただし、この言動は迫水には容認ならない。
コモン人も地上人もおなじ人でなければ、リンレイとの関係は迫水にとって「幽霊相手」だったことになってしまう。ハロウ・ロイとの記憶も生々しいのだから迫水にとってはこの点では妥協しない。重要なところ。
道徳形而上学
諸国を放浪しているアメリカ人学生のジョン・ロンは、この地ですっかりバランモンと化していてバイストン・ウェルでカント哲学を語ったりする。哲学というよりは『道徳形而上学』――形而上学、の部分はなお保留せざるをえないけれど、『語るべきことは倫理、道徳だ』(モラル)というポイントはわたしは近頃になって非常に興味がある。
モラルをいかに語るかは興味あるけどちょっと外部に参考書がいる。そして、「自分は実践者ではない」と語るジョン・ロンはやはり迫水と同行せず、別れてゆく。
蓼科中尉やジョン・ロンにしても、彼らはやはり地上人であり、地上界で自分達がなしえなかった思想の実験をバイストン・ウェルのコモン界に来て自由に展開しようとしているのではないかのきらいはある。
アピアが新思想に感動するのはまことに純真なことだが、コモンにはコモンの風土に根付くものはないのかと訊ねると怪しい。文中にそう書いていないが、アメリカが戦後の日本にしたことを今ヘリコンでやろうとしているのは彼らではないかのように。
この世界は夢か
話のあとにジョン・ロンは、
リンレイを幻想にはすまいとし、一方で迫水自身が聖戦士など幻想かもしれないと言う。
迫水に返って、『リーンの翼』のストーリーでは、迫水は特攻の死に損ない意識から発して、この世界バイストン・ウェルは究極的には自分にとって夢・幻ではないのか? という疑念が常にあったことは、前巻までの新旧対読で注意してきた。アマルガンに対しても常に食い下がっていったのはそこだ。ここで、なぜ生きるのか。
ガダバとの戦いの果て、迫水は聖戦士としてバイストン・ウェルに帰属することを選び得たようだったが、再び帰って来た今はまた曖昧になっているのか。ただし、その疑いを自覚して言葉にするようになっているのは、以前とは違う迫水に変化しつつあるように言っておきたい。