「科学的な社会主義の理解」ここでは社会人類学の成果が、ドイツでは情緒的な受け止められ方をして、当時のドイツのナショナリズムと結合する。ナチ政権に至る土壌を形成する……つまりナチの政治思想のプロパガンダに使われたという歴史の語られ方は、現代のわたしらには中学生でも知っているような常識、通説として飛ばす。
同語を言い換える
問題はスコット卿の言葉遣い。
「ドイツ人は論理的、科学的に社会主義をうけいれてきたつもりなのだろうが、その土壌になっているものは、ロマン主義的なナショナリズムというものだ。この土地では、それに近似しているというか、同質のものをかんじるんだよ」
「……ロマン主義ナショナリズム? なんです? それ?」
「ロマン的国家主義といえば、わかるだろう?」
「ロマンスのロマン主義ですか?」
「……!?」――
素朴に土着のものなら政治イデオロギーと無縁に存在すると言いたいなら、ナチスを例にするなら、まさにそうしたものが国家社会主義か、国家民族主義のカンバンに使われてしまって……と言いかけたところで、迫水に未知の言葉だったために、「ナショナリズム」を「国家主義」と言い換えて「わかるだろう?」というと、迫水はナショナルではなくロマンの方に食いついてきて脱線する。スコット卿はロマン主義の解説を始める。
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ジェフリー・スコット公爵は1944年のロンドン空襲の際にV1ロケットに遭ってバイストン・ウェルに落ちてきたという。現在メッオにいる地上人の中では年嵩の古参に当たる。その後の地上の歴史の情報共有はしているが、ナチスなどを語るときにはあくまで1940年代の人物による理解だと思いたい。1950年代や60年代の小説を読んだりはしていない。
文芸や芸術運動としてのロマン主義がドイツやフランスでは政治と連動していき、一方でイギリスのロマン主義はそうならなかったといいたい。もとに戻って、現在メッオの大衆がロマン的国家主義になっているかといえば、そのロマン主義的だから駄目だというかは不決定だ。
イギリス人に言わせればロマン派というのは霧と墓場と夜の憂愁……つきつめれば「孤独」でもあるが、スコット卿は孤独については言わない。ゴシックホラーは通俗文学で大衆文化だよのように言うときにも、大衆的なことが駄目だと言ってるわけでもないだろう。
説得しない会話
ファンタジーやフィクショナルものが嫌いなわけじゃなさそうだ。ただし、ポップカルチャーが「公」の顔になる、「公」の顔をするのはいやだねのような気持ちを今の青年に分かってほしいと思って言葉を探している。迫水は文学青年ではない。
「お祭り騒ぎにしやがって」のような不快感があるんだろう。大衆というものはいつも権威的なもの、公という権威に媚びるものだが、新興貴族とはいえ貴族だからこそ反権威的な気分もあるんだろう。
国家におけるロマン主義は単なる看板かといえば、きっと、
「精神性はありますよ」
「精神的なことが良いことじゃないよ」
のような噛み合わない会話が続く。精神的なことが洗練されたことじゃあるまいに、と。
迫水は「他人の受け売り」「勘違い」「思潮を考えるセンスがない」。スコット卿もとりとめなく自分の知っていることを並べた上で、テレパシーの曖昧さや誤訳、言葉の意味理解の行き違いでちぐはぐな会話をし、お互いに「???」と疑問符を浮かべながら、ロマンの定義か、ロマンの是非かはその場はウヤムヤに過ぎていく。バランモンとの対話とはまた違ったが、富野文としては「ためらいがちな語り」をする。