ためらいがちな語り
迫水とアピア(メッサラ族)の結婚にあたってオルッメオ族から族長の家系の少女ロドウ・ハッサが祝辞を述べる。メッオの民にとっては、
- 聖戦士である地上人とコモン(メッオの国)の結合
- 常に確執を起こしがちなメッサラとオルッメオの部族意識を超えた団結
の二つの意味があり、国民意識を醸成するものとして新聞報道もされた。まだ十歳にならない少女ロドウの紙上デビューはまたちょっとしたアイドルだ。
コモン人の熱狂ぶりを見たイギリス人ジェフリー・スコット公爵は『幼女の祝辞は奇妙なものだ』という疑問というか感慨を投げるので、人々の新国家建設の熱気を擁護したい迫水は積極的に答えようとする。
『リーンの翼』はヒロイック・ファンタジーで、ロマンは大事なことは前巻までもわかっているがロマンチシズムがロマン主義になり、国家主義になろうという時に来てスコット卿が不審がるポイントが、文章ではどうもわかりにくい。若い迫水相手とはいえ、スコット卿自身がとりとめない話をする上に、迫水が(英語ではなく)テレパシーを介して応対するので余計な混乱もする。
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大地と女性
ここは神話よりは、民俗学/民族学の知識で社会人類学的な方位。リチュアルやフォークロアに基づいて社会と人間の関係を説明しようとする。ドイツ人の受け売りとあるように学問では既知の考え方で、有名なフレイザー等の本には「女性=畑」のような型は多く載っているだろうし、宗教学概論でも諸々の事例を挙げていた。
この説明としては、『けがれを知らない幼女』(=ロドウ)つまり未婚の処女が、新郎新婦に祝福を与えるで、(アピアではなくロドウが)メッオの土地を体現するもの、無垢の大地(畑)の身代わりとして演じるということを言っている。
原文から目を離して読者としては、バイストン・ウェルのコモン人にそんな大地感覚があるのかは作中で語られたことがないので不明だけど、あるんだろう……。太陽は燐の塊。「宗教」「神話」「民俗」がどう違うのかはわたしは意識的に区別するが、今その説明は省く。それはエリアーデとかの通読で続ける。
これはキリスト教以前の宗教だからキリスト教徒はこんなことを知らないか、というとドイツにもフランスにも、イギリスの農村にも近代まで結婚式にはあった風習で、田舎ではとくに教会ぐるみでもあっただろう。キリスト教にはキリスト教なりの因循があるだろうし、スコット卿もそんなことは知らないわけではないだろう。
スコット卿にも迫水の結婚の国家的な意味がわからないはずはないが、彼の気分をいえば、幼女の祝辞は村祭りの精霊か、女学生がする地元のカーニバルの女王みたいな田舎臭さに見えて、どうも壮厳じゃないね、というところにあるのは窺われる。迫水はまずそこが察せなくてクソ真面目に解説した。
『こうした土俗の儀式は、国民国家社会主義といったイデオロギーを必要としない契約です』と迫水が言ったために、ちょっと待てとスコット卿が口をはさむ。
まず「大地と女性」のような定式には、各国各時代の風習や昔話からおびただしい例を引いてくることができるが、無数の民話を挙げているその研究が、反例についても少なくないだろうに、なぜその例をとくに強調して挙げるのかといえば、自説を補強するために好都合な事例ばかりを選んでいるからもっともらしく見えるのではないかという、比較研究につきものの恣意的な引例の問題が言われることがあった。
「人間の営みを大きく理解する上で有用な定式」として提唱するには、有用な考え方だとは思われる。しかし、その蓋然的な定式から派生してどういう言説が生じてくるかには注意を要する。それは現代では常識として置いておこう。
テレパシーを誤読する
迫水は大尉の受け売りから完璧にコピペで回答したのだが、国民国家の頭文字から卿はセンシティブに反応して「ナチのことか」と問い返す。
今ナチスの話はしていません、メッオの土俗をどう考えたいかという話です、と迫水は言ったつもり。だが、迫水のテレパシーでは「考え方」と「思想」のボキャブラリーを区別しない。スコット卿は「?」と困惑したあと、文脈を誤読してナチスの解説を始める。
「科学的な社会主義の理解」ここでは社会人類学の成果が、ドイツでは情緒的な受け止められ方をして、当時のドイツのナショナリズムと結合する。ナチ政権に至る土壌を形成する……つまりナチの政治思想のプロパガンダに使われたという歴史の語られ方は、現代のわたしらには中学生でも知っているような常識、通説として飛ばす。
同語を言い換える
問題はスコット卿の言葉遣い。
素朴に土着のものなら政治イデオロギーと無縁に存在すると言いたいなら、ナチスを例にするなら、まさにそうしたものが国家社会主義か、国家民族主義のカンバンに使われてしまって……と言いかけたところで、迫水に未知の言葉だったために、「ナショナリズム」を「国家主義」と言い換えて「わかるだろう?」というと、迫水はナショナルではなくロマンの方に食いついてきて脱線する。スコット卿はロマン主義の解説を始める。
ジェフリー・スコット公爵は1944年のロンドン空襲の際にV1ロケットに遭ってバイストン・ウェルに落ちてきたという。現在メッオにいる地上人の中では年嵩の古参に当たる。その後の地上の歴史の情報共有はしているが、ナチスなどを語るときにはあくまで1940年代の人物による理解だと思いたい。1950年代や60年代の小説を読んだりはしていない。
文芸や芸術運動としてのロマン主義がドイツやフランスでは政治と連動していき、一方でイギリスのロマン主義はそうならなかったといいたい。もとに戻って、現在メッオの大衆がロマン的国家主義になっているかといえば、そのロマン主義的だから駄目だというかは不決定だ。
イギリス人に言わせればロマン派というのは霧と墓場と夜の憂愁……つきつめれば「孤独」でもあるが、スコット卿は孤独については言わない。ゴシックホラーは通俗文学で大衆文化だよのように言うときにも、大衆的なことが駄目だと言ってるわけでもないだろう。
説得しない会話
ファンタジーやフィクショナルものが嫌いなわけじゃなさそうだ。ただし、ポップカルチャーが「公」の顔になる、「公」の顔をするのはいやだねのような気持ちを今の青年に分かってほしいと思って言葉を探している。迫水は文学青年ではない。
「お祭り騒ぎにしやがって」のような不快感があるんだろう。大衆というものはいつも権威的なもの、公という権威に媚びるものだが、新興貴族とはいえ貴族だからこそ反権威的な気分もあるんだろう。
国家におけるロマン主義は単なる看板かといえば、きっと、
「精神性はありますよ」
「精神的なことが良いことじゃないよ」
のような噛み合わない会話が続く。精神的なことが洗練されたことじゃあるまいに、と。
迫水は「他人の受け売り」「勘違い」「思潮を考えるセンスがない」。スコット卿もとりとめなく自分の知っていることを並べた上で、テレパシーの曖昧さや誤訳、言葉の意味理解の行き違いでちぐはぐな会話をし、お互いに「???」と疑問符を浮かべながら、ロマンの定義か、ロマンの是非かはその場はウヤムヤに過ぎていく。バランモンとの対話とはまた違ったが、富野文としては「ためらいがちな語り」をする。