緊密な物語空間の華麗さ。都市の宝石のような夜景や下町の屋台のならぶ小路などの描写はじつになまなましく、空気の匂いや光の色まで描きだし、わたしたちをその場所へいざなってくれます。
(『銀色の恋人』から 井辻朱美)
井辻先生は時々、映像的な感覚や「目に浮かぶような表現」に偏った評価を挿むのでその価値観は折々に適切かどうか考える必要がある。
その作風を簡単にいうならば、耽美華麗にして陰惨沈鬱といったところか。とにかく倒置と比喩を多用した絢爛豪華な文体を駆使して、退廃的で不道徳で官能的な物語を紡ぎだす作風は、平明簡素で道徳的なファンタシーに飽き足らない読者の圧倒的支持を集め、いまでは同じ英国のストーム・コンスタンティンやリズ・ウィリアムズといった追随者を生みだしている
(『悪魔の薔薇』から 中村融)
修辞を凝らした華麗な文体と、豊かな色彩感覚、残酷で妖艶なストーリーが彼女の持ち味
(『薔薇の血潮』から 市田泉)
絢爛な文体、修辞のところにいう「倒置」は、wasが先に来るという意味だが、これはイントネーションに加わる。ストーリーの要所で、言葉をくり返し、表現を重ねながら、くり返しくり返しリフレインして歌うような特徴は、どうしても詩人であり、視覚よりは聴覚音声的に重みがある作家だと今わたしが読むときには思っている。
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「訳者あとがき・解説」の書き方・読み方には、その当時の文芸観・価値観が反映していることがある。それは、必ずしも訳者の人が偏っているわけではない。
英文の韻律、リズム、語呂合わせによる言外の意味の含みや促し……という音韻や文化を、別の言語文化、日本語に訳すにはどうしても限界があるので、せめてここに描かれているモノ(映像)の数々を味わってほしいと書いてある。訳すときにはそれも苦心の上でニュアンスを盛ろうとしたのだが。翻訳者として謙虚にあとがきしたところ。
読者はそれを読んで、原著はおおむね視覚的作家だと受け取り、また視覚的表現は現在世界基準なんだ、として受容したような経緯が振り返ると80-90年代頃にちらほらと見られるように思う。FT読者の映像信仰(映画化への憧れ)、享受層が同じ漫画・アニメの同時期の傾向など、平成年代の一般論に当てはめられると、何か困ったような気持ちに今はさせられることもある。
「The Birthgrave」より。主人公の「私」は花畑で襲われる。逆恨みを募らせていた部族の娘は激昂するあまりナイフで切りつけてしまう。
ぱっと散った血飛沫が薄紫の花を紫に染め、赤は真紅に。こういうときは色彩表現というだろう。色を書いているんじゃなく、色の表現を借りて描いている。この技巧は全体に撒いてあるわけではなく、重要場面のここぞというときに取ってあって使われる。
「The Castle of Dark」より。先日言及していたところの、畳みかけからの返し。リアは吟遊詩人として竪琴を手に入れ、放浪の旅の用意ができた。魔法に駆られたような数か月がすぎ、辺りの景色はもう冬が迫っており、財布は軽いというこのとき。
こちらはリフレイン技巧で聴覚的。「陰惨、沈鬱、残酷」というダウナーなくり返しは章全体や、作品の全体に暗く覆っている。ここでは段落の前半にリピートする。その後を取って、切り返していく。これも全体に毎回するわけではなく、要所で一回だけ使う(得意の節回し)。
「陰惨、妖艶」に多く読み慣れると、読者ものほほんとした感想になる。