リーの修辞技巧
名状しがたく深い痛みに妖魔の王は貫かれた。みどりごは完璧にしてたぐいまれな美の持ち主であったのだ。膚は雪花石膏、細い髪は琥珀色、四肢と目鼻立ちは彫刻家の手になったように丹念に素晴らしく形造られていた。アズュラーンが見守るうちにみどりごが目をあけると、その目は濃青、藍の色であった。公子はもはやためらわなかった。進み出て抱き上げ、黒い
外套 の襞にくるんだ。
宮殿そのものは、外は
黒鉄 、中は黒大理石で、地の不変の光に照らされていた。地上の星の光さながら無色の涼しい輝きであったが、何倍もまばゆく、黒青玉 や深い緑玉 や暗い紅玉 の巨大な窓を通してアズュラーンの広間に流れ込んできた。外には幾つもの露台のしつらえられた園があり、壮大な杉の木が植えられ、その幹は銀、葉は黒玉、花は無色の水晶であった。そこかしこに青銅の鳥の泳ぐ鏡のごとき池があり、美しい翼ある魚が木々に宿って唄っていた。自然の掟は地の下ではまるで異なっていたのだ。アズュラーンの国の中央には噴水が躍っていた。水ではなく火で、光もぬくもりも放たぬ緋色の火でできていた。
『闇の公子』冒頭から。こうした比喩のおびただしい列挙は「平たい地球」シリーズには散りばめてあるが、シリーズ以外のタニス・リーの他作品では、そんなにしてない。これは、シリーズのモデルにしている千夜一夜物語の文体のほう。このたびはその模倣をしてみせている、という本人コメントも訳者あとがきに載っている。
千夜一夜物語に(過剰に発達した形で)見られるようなこの文章の形式は、古典を読んでいると何かしら、時代を隔ててくり返し目にするもので、その伝統がある。そのことについては、矢島文夫『ヴィーナスの神話』(1970)に載っている「女性讃美の文学的伝統」の章にまとまった解説があり、古い本だが今も手引きになる。
タニス・リーの読者全般には、上の印象と、浅羽莢子訳の調子の印象が非常に強い。浅羽さんはそれに苦心したと言っているので浅羽さんが普通にする文体ではなく、シリーズ作品のイメージではあるけど、リーの文章の本質でもない。
井辻先生は時々、映像的な感覚や「目に浮かぶような表現」に偏った評価を挿むのでその価値観は折々に適切かどうか考える必要がある。
絢爛な文体、修辞のところにいう「倒置」は、wasが先に来るという意味だが、これはイントネーションに加わる。ストーリーの要所で、言葉をくり返し、表現を重ねながら、くり返しくり返しリフレインして歌うような特徴は、どうしても詩人であり、視覚よりは聴覚音声的に重みがある作家だと今わたしが読むときには思っている。
「訳者あとがき・解説」の書き方・読み方には、その当時の文芸観・価値観が反映していることがある。それは、必ずしも訳者の人が偏っているわけではない。
英文の韻律、リズム、語呂合わせによる言外の意味の含みや促し……という音韻や文化を、別の言語文化、日本語に訳すにはどうしても限界があるので、せめてここに描かれているモノ(映像)の数々を味わってほしいと書いてある。訳すときにはそれも苦心の上でニュアンスを盛ろうとしたのだが。翻訳者として謙虚にあとがきしたところ。
読者はそれを読んで、原著はおおむね視覚的作家だと受け取り、また視覚的表現は現在世界基準なんだ、として受容したような経緯が振り返ると80-90年代頃にちらほらと見られるように思う。FT読者の映像信仰(映画化への憧れ)、享受層が同じ漫画・アニメの同時期の傾向など、平成年代の一般論に当てはめられると、何か困ったような気持ちに今はさせられることもある。
「The Birthgrave」より。主人公の「私」は花畑で襲われる。逆恨みを募らせていた部族の娘は激昂するあまりナイフで切りつけてしまう。
ぱっと散った血飛沫が薄紫の花を紫に染め、赤は真紅に。こういうときは色彩表現というだろう。色を書いているんじゃなく、色の表現を借りて描いている。この技巧は全体に撒いてあるわけではなく、重要場面のここぞというときに取ってあって使われる。
「The Castle of Dark」より。先日言及していたところの、畳みかけからの返し。リアは吟遊詩人として竪琴を手に入れ、放浪の旅の用意ができた。魔法に駆られたような数か月がすぎ、辺りの景色はもう冬が迫っており、財布は軽いというこのとき。
こちらはリフレイン技巧で聴覚的。「陰惨、沈鬱、残酷」というダウナーなくり返しは章全体や、作品の全体に暗く覆っている。ここでは段落の前半にリピートする。その後を取って、切り返していく。これも全体に毎回するわけではなく、要所で一回だけ使う(得意の節回し)。
「陰惨、妖艶」に多く読み慣れると、読者ものほほんとした感想になる。