カオスドラマX

Gray Traveller / 728

728
わったん 2026/08/30 (日) 18:56:43

―12区 裏路地 仮宿―

窓もなく、隙間風が過ぎ去る一つの部屋。
夜の静けさと冷えた空気が心地よい湿感を保っている。
暖炉からの明かりも無く、煤の黒さだけが妙に鮮明で、
かつてここにあった炎の熱を思わせるものはもう何もない。
その付近の一脚の机。
蝋燭に照らされた1畳程の机の表面が擦り減り、角は丸く削れていた。
先まで合った資料は乱雑にファイリングされ、隅へと追いやられている。

「……」

透明の軌跡はその作業台と向き合い、一つの画材に手を掛けていた。
空白で埋められた白い画用紙。
何かを描く前の白ではなく、何も描けなかった者の白。
手元には数多の彩りが揃えられた筆がケースに収まっており、
絵描きを思わせる構図が出来上がっていた。

「……」

透明の軌跡は、白紙を見つめ続ける。
その視線の奥には、既に何度も聞き返した言葉があった。

「誰かを愛したからこそ描けた」
「誰かを想ったからこそ残せた」

ドルドインの言葉が幾度も脳裏を巡る。
ユンフという旅人が示した芸術。
単一の意味ではないことは理解していた。
だが、其処に想いを馳せるには、彼は思い出がなかった。

「今更思い出作りに励んだところで」
「俺の思う芸術って奴を、この白紙に埋める事なんざ出来やしない」

言葉にした途端、その現実だけが妙に鮮明になった。
なればどうすればいいのか。
思考が幾多にも絡まる。
一つの問いから別の問いが生まれ、それがさらに別の疑問を引きずり出す。
答えへ近づいているのか、それとも同じ場所を延々と回っているのかすら分からない。

自身の在り方が薄っぺらであると、ドルドインは突きつけてきた。
それもそのはず。
ユンフという男は、発芽のために蓄えられていた、潤沢な栄養を含んだ種だった。
旅をして。
人と出会い。
故郷を想い。
誰かを護ろうとし。
そして、最後にはたった一人の少女のために、利己を提示した。
それら全てが、種の中に蓄えられていた。
だからこそ、彼は芽吹いた。
だが、その中身が失われ、残されたのは種の外殻だけ。
形はある。肉体もある。声もある。名前すらある。
けれど、その名前に相応しいだけの中身がない。
感情の外側に存在する肉体。殻のみ。
それだけが、彼を「透明の軌跡」として成立させている。
そして、それを誰よりも理解しているのは、他でもない彼自身だった。

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  • 729
    わったん 2026/08/30 (日) 18:57:49 >> 728

    「クソ」
    「俺自身、どうしたいんだろうな」
    「都市に存在する以上、都市で生きて往くことは当たり前だ」
    「だが、俺の前任はそうじゃなかった」
    「都市は『思い出』への通過点に過ぎない」
    「見ている場所が違う」
    「……故郷ってなんだ」
    「故郷の連中とは仲良かったのか」
    「何故そいつらを護ろうと思った」
    「その上で、何故利己的に生きる決断が出来た」
    「その決断をさせた子は」
    「一体、どんな子だったんだ」

    瞼の裏に現れたのは、大切に保管された画材に描かれた一人の少女の絵。
    彼自身の記憶には存在しない。
    それでも、その姿だけは妙に鮮明だった。
    柔らかな輪郭。橙にも輝く太陽のような笑顔。
    これまで色彩に乏しかった彼の視界へ、初めて強烈な色を差し込んだ存在。

    「……」

    蝋燭の炎が揺れた。
    その僅かな光が、透明の軌跡の瞳へ映り込む。
    虚ろにも見える瞳だった。
    けれど、その奥には先ほどまで存在しなかった微かな光があった。
    視線の先にあるのは、空白の画材。

    「……」
    「俺の感情は俺のものだ」
    「それ故に、俺は都市で描かれた軌跡に抗いたくて」
    「数多の人間との視線を遮ってきた」
    「俺でない俺を見ているその視線」
    「……その視線を描いてきたのは間違いなくユンフであり」
    「そのユンフを構成したのは……」
    「君なんだろうな」

    徐に手を伸ばし、筆を奔らせる。
    筆先が、画用紙の上を静かに滑っていく。
    淡い色が細い線となって残される。
    手首はほとんど動かず、指先だけが微細な調整を繰り返していた。
    力を込めれば濃く、僅かに緩めれば掠れる。そのわずかな力加減だけで、線には異なる表情が生まれていく。
    その精錬にも思える程、細やかな動きで、描き手の意思を紙面へと紡いでいく。
    誰かから教えられたわけでもなく、
    ユンフの記憶の真似事をしている訳でもない。
    ただ、自身の意思で、筆を動かしていった。

    「……」

    溶け落ちた蝋は燭台の縁を伝い、小さな炎は頼りなく揺れながら、それでも暗闇を退けるには十分な光を投げかけていた。
    其処に差し込まれた仮初の芸術。

  • 730
    わったん 2026/08/30 (日) 19:00:49 修正 >> 728

    画像1

    その芸術は、ユンフの描いたものより描写力に優れたものだった。
    長い髪。
    閉じられた瞼。
    そして、ほんの僅かに口元を緩めた、穏やかな表情。
    紙面には淡い褐色の色彩が沈み、輪郭を縁取る線には手描き特有の揺らぎが残っている。
    精巧に整えられた肖像というより、何度もその姿を思い返しながら、少しずつ形にしていったような絵だった。
    たった一度の邂逅。其れもキャンバス越しに見えた少女の姿。
    透明の軌跡は、そんな彼女を描いた。
    ユンフとしての筆ではなく、彼自身の筆として、
    ユンフの軌跡の先に存在する方向標を。

    「……」
    「『いつもの日』」
    「お前が見たい笑顔は」
    「感情というコップに注がれた愛」
    「唯一無二の思い出」
    「何もない俺と違って」
    「お前は――」

    筆を置く。
    溢れそうになった感情を抑え込みながら、描いた少女を見つめる。
    決して自身の記憶に存在するものでもなく、
    自身の核を形成するものでもない。
    ただ、今描いた少女そのものが、この肉体に宿る魂を構成する感情そのもの。
    ならばその肉体に宿りし自身は何者なのか。
    虚像、フェイク、贋作――。
    思考に奔るノイズは、どれも自身を攻撃する。
    偽物なのだと。空っぽなのだと。借り物なのだと。
    劣等感は際限なく、彼の表情を変える。

    「――」
    「……」
    「その物語を有するなら……」
    「何故俺は、此処にいる」
    「お前は、何故俺を此処に誘った」
    「何故、この子の為に戻る決断をしなかった」
    「その軌跡を、何故俺に委ねた」
    「――」
    「答えはわからねぇか」
    「こうして『意識』が此処にある以上」
    「俺はお前の延長線に立つ何者かなんだろうよ」
    「……俺の芸術……」
    「横道」
    「お前の方向標」
    「思い出」
    「……」
    「『愛情』」
    「一度も手に入れた事なんざないってのに」
    「なんて残酷な道を提示するのだろうか」

  • 731
    わったん 2026/08/30 (日) 19:02:34 >> 728

    長く続いた思索に疲れ果てたように、透明の軌跡は自傷的な笑みを浮かべた。
    それは笑顔と呼ぶにはあまりにも力がなく、己の空白を嘲るためだけに残された、乾いた表情だった。
    椅子の背凭れへ身体を預ける。
    支える力すら惜しむように、全身の重みをそのまま背後へ委ね、首を僅かに傾けた。
    視線だけが、机の上に残された一枚の絵画へ向けられる。

    「……この子は」
    「今も笑っているのだろうか」
    「お前を信じ待っているのだろうか」

    描かれた少女の笑みは変わらない。
    透明の軌跡は、その表情を見つめながら、先ほど浮かべた口角をそのまま維持する。
    笑っているのか。
    諦めているのか。
    あるいは、そのどちらでもないのか。
    自分自身でさえ、もう判別出来なかった。

    「いつか、教えてくれるか」
    「お前が見てきた笑顔の暖かさを」
    「お前が護りたかった鼓動の尊さを」

    自分にはないもの。
    自分が知らないもの。
    けれど、かつてユンフという人間が確かに知っていたもの。
    その温度を、いつか知りたいと思った。
    それが記憶なのか、感情なのか、それともただの憧憬なのか。
    今の彼には、まだ名前を付けることすら出来ない。
    ただ一つだけ確かなことがある。
    この絵を描いたのはユンフではない。
    この感情を抱いたのも、ユンフではない。
    少なくとも、そうであろうとしている。
    それでも彼は、ユンフの延長線上にいる。
    ならば、その線の先に何があるのかを確かめることくらいは許されるのだろうか。
    そんな答えのない問いを胸に残したまま、透明の軌跡は疲れ切ったように瞼を閉じた。
    身体から力が抜け、椅子へ預けたままの姿勢が僅かに崩れる。
    やがて、呼吸がゆっくりと一定の間隔へ変わっていき、眠りに堕ちた。
    蝋燭に揺らめく光の中、少女の絵画の笑みは変わらず暖かさを放っていた。